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【完結】月下の虎は甘く冷たい指先を食む  作者: 文野さと
南の領地

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50 雨季の終わり

 朝の雨が降っている。

 しかし、ひとところの長雨はもうなく、空はそれほど暗くはない。一月の間続いた雨期が終わりに近づいているのだ。

「東の空が明るくなってきたわね……」

 濡れるのにも関わらず、四阿(あずまや)から出たレイフェリアは雨に打たれる庭を見渡した。

 夏の花が咲き乱れているが、いずれも露を含んで重たげに頭を垂れている。雨が上がれば、また太陽の方を向いて輝くのだろう。しかし、今のレイフェリアにはこの方が好ましく写った。

 ルーシーもマヌルも下がらせている。少し一人になりたかったのだ。

 ──ここに来てもう三月(みつき)になるのだわ……。

  新天地では目まぐるしく環境が変わったが、身についた生きる力と周りの人々のおかげで、少しはこの地に根ざすことができたような気がしている。

雨季の間も、レイフェリアは精力的に街へ下りて、薬草店に自分で栽培した薬草を売ったり、宝石商に宝飾品の意匠を提案したりして、地道に収入を得、店主や市場の人たちとも交流を深めることができた。

今は自ら望んでこの地にいる。この地で生きていこうという気になっている。

 ──そして

 最初は、お互いすれ違ってばっかりだったあの男、ティガール。

 はるか遠い故郷に突然現れた、南から来た男。

 自分を迎えに来たという彼は最初、無口でぶっきらぼうで、つかみどころのなかった人。王に勧められただけで自分を選んだ、情愛のない関係。そのことに反発も覚えた。なのに、時折見せる優しさに()かれていった。

 幼い頃の唯一の友達が彼だったことを思い出した時の驚きと、喜びは(かたく)なだった心を一気に溶かし、いつしか心と、そして体までも寄り添えるようになった。

 いくら王の推挙があり、父の名誉回復に助力を、という打算があっても、本当に嫌な男だったなら、自分はここまでついて来たりはしなかっただろう。

 ──人というのは変わるものだ……。

 獣の血を持つティガールには、そもそもの出会いから驚かされてばかりだが、彼は最初から自分をわかってくれていた。もどかしく思いながらも我慢して待っていてくれた。だから、レイフェリアも次第に心を添わすことができた。

「ここに来れてよかった」

 無意識に言葉が零れ落ちた。

 遠い故郷が懐かしくならないわけではない。子どもの頃は確かに幸せだったのだ。あの森と湖の北の大地で、両親の愛に包まれて。

 ──でも、私はここで見つけたものがある。


「レイお姉様……」

 細い声に振り返ると雨の庭にカラカが(たたず)んでいた。見事な紅色の髪は湿ってべったりと垂れ下がり、水滴がいく筋も頬をつたい降りている。

「カラカ様!」

 レイフェリアは慌ててカラカを四阿に引っ張り入れた。しかし、自分も濡れているので、拭ってやる術がない。二人してしっとりと濡れながら見つめあうだけだ。

 カラカが家出をしたのは一昨日のこと。それから彼女には会っていなかった。

「ああ、こんなに濡れて……いったいどうしてこんなところへ? お風邪を召してしまいますよ」

「平気よ。この間だって、なんともなかったわよ。それにお姉様こそ、びしょ濡れよ。ずっとここにいらしゃるのでしょう? 寒いはずだわ」

「私は寒い地方の出身だから大丈夫なんです」

「私だって雨期には慣れてます!」

 二人の娘は意味もなく張り合った。

「……ティグお兄様から紅玉を贈られたの?」

「いいえ。見てもいませんわ」

 レイフェリアは正直に答えた。実を言うとティガールともあれ以来会ってない。レイフェリアが意図的に避けていたのだ。

「でも、紅玉を捧げられたらお受けになるのでしょう?」

「北の国の人間は、獲らぬ獲物の数を数えないことにしています」

「私の採った石は紅玉ではなかったのよ」

 カラカはあっさり白状した。

「ただの赤い石だったのですって。私って馬鹿よね、なにも知らなかったのだわ」

「でも、勇気があります。普通の姫君なら、自分で採りに行こうなど思わないですもの」

「だって、どうしても欲しかったのよ!」

 カラカは強く言った。

「お兄様の採ってきたものはレイ姉様に贈られるなら、私は自分で採って来たものをお兄様に贈ってお嫁様にしてもらおうと思ったのよ!」

 そう言ってカラカはぽろぽろと涙をこぼした。レイフェリアは黙るしかない。この少女にとって自分から慰められることが、一番辛いことになるだろうから。

「でも……でもね! やっぱりだめだったわ。今まで私が泣いて頼めば、思い通りにならなかったことはないのに……だめだった。一昨日からずっと泣いているのに、何にもいいことがないの!」

 そのままカラカは泣き続ける。レイフェリアが黙って寄り添っていると、ややもして少女は急に顔を上げた。

「でも馬鹿馬鹿しいから、もう泣くのはやめにするわ!」

 乱暴に頬をぬぐいながらカラカは無理に微笑もうとする。レイフェリアはただ見つめるばかりだ。

「だからこんな石、もういらないわ」

 カラカが上着の隠しから何かを取り出した。

「待って! それは……もしかして、あの時の?」

 守り袋のような小さな袋はレイフェリアの興味を引き付ける。

「ええ。宝石どころか、ただの赤い石よ。捨てようと思ったんだけど、初めて自分で得たものだから、なんとなく持っていただけ」

 カラカは投げやりに言った。

「捨てる前に見せてもらってもいいですか?」

「こんなものを? 変な人ね」

 カラカは小さな袋を逆さに降った。小さな石がぽとりとレイフェリアの手のひらに落ちる。

「宝石じゃないけど、ちょっとだけ綺麗でしょう?」

 レイフェリアは、用心深く自分の手布(ハンカチ)を手に巻いて赤い石をつまみ上げた。それは川で洗われて角の取れた小さな普通の石だ。しかし、レイフェリアには同じようなものを書物で見た記憶があった。

「これ……もしかしたら辰砂(しんしゃ)と言われる石かもしれない」

「しんしゃ? なぁに? それ」

 カラカが不思議そうに覗き込む。

「顔料になる赤い石のことです。カラカ様、これずっと素肌につけていらした?」

「ええ、見つけたあの時だけは。あとは服の隠しに入れて持ち帰ったの。お城に帰ってからはこの袋に入れたわ」

「それなら大丈夫でしょう。この石がもし辰砂なら有毒だと言われています」

「ええっ!」

 カラカは心底驚いて、石から身を遠ざけた。

「いえ、口に入れたりしない限り大丈夫ですよ。それに少量なら薬にもなるようです」

「そうなの? よくご存知ね」

「鉱物には興味があるんですよ。本当は自分でも色々探しに行きたいくらいです。だからカラカ様の勇気には感心したんです」

「この石が毒なら、これでお姉さまを殺すことができる?」

 カラカは袖に包んだ石をつまみ上げて言った。

「ええ、粉にして食べ物に入れたら多分死んでしまうかも」

 レイフェリアは真面目に答えた。

「じゃあ、いつかこっそり使ってみようかしら。姉様、邪魔なのよ。お姉様さえいなければ、私がティグ兄様の花嫁様になれたのに」

「ええ、そうでしょうね」

「私が、兄様を返してってと言いたら、姉様はどうする?」

「取り上げた覚えもないものは返せません」

「もう! 私がこんなに意地悪を言っているのにどうしてもっと怒らないの? お母さまからも散々酷いことをされたのでしょう? 憎いでしょう?」

「さぁ、自分でもわかりません。私はあまり情が深くないのかも」

 レイフェリアは相手の気を挫くように平坦に答える。

「兄様はそうではないわ。あまり欲を人に見せないけれど、気に入ったものはとことん大切にする人よ。そのお兄様あがなぜ、出会ったばかりの姉様に執着するのかしら?」

 カラカはこの少女にしては珍しく探る目をして言った。

「心当たりがある?」

「……私たちは昔に出会っていたようなのです。私は忘れてしまっていたのですが」

「忘れてしまっていたの? あんなに素敵な人なのに? 所詮(しょせん)そんな程度の想いなのではなくて?」

「ええ。でも、時間を(さかのぼ)って私は見つけてしまったのです。私のたった一つの友達だったティーを」

「ティーですって?」

「ええ。ティー。私の大好きな可愛い子猫」

 歌うように言ってしまってからレイフェリアは後悔した。カラカがなんとも言えない悲しそうな顔でうつむいてしまたからだ。

「兄様は姉様の前では素直になるのね」

 カラカの気持ちは女としてわかる。でも、こんな場合に何を言っていいのかわからない。その意味ではレイフェリアとティガールは似ているのかもしれなかった。

「私がいると不愉快でしょうから、もう行きますね」

 レイフェリアが四阿の外に出ようとすると、服の背中が掴まれる。

「私からここに来たんだから、もう少し意地悪の相手をしてちょうだい。このままでは胸が苦しすぎるの。この石を見つけたのは偶然ではないのよ。きっと私こそが今、毒そのものなのだわ」

 どこまでも正直な娘だと、レイフェリアは思った。

 自分の正の感情も負の感情も全部さらけ出してしまう。自分にはなかなかできないことだ。

「ティグ兄様は赤夏(せっか)の宴で、姉様を正式にこの国の人たちにお披露目するんじゃないかしら?」

「よく知っていますね」

「ええ。きっと紅玉はその時に捧げられるのね。羨ましい」

「まだわかりませんわよ」

「まぁ、素直におなりになったらいいのに」

「私はいつでも素直ですよ」

 女同士の応酬に、レイフェリアはちょっとだけおかしくなって笑った。

「嘘おっしゃい! 最初はお兄様に何の興味もないそぶりでいらしたわ。私の恋心を聞いても澄まして聞いてた!」

「あの頃は、本当に自分の気持ちが定まっていなかったのです」

「でも、嫌いではなかったのでしょう?」

「苦手だとは思いましたよ」

「でも、だんだんと好きになったのよね」

「そうなると思います」

「だったら、私のことが嫌いにならなかったの? お母様のこともあったし」

「……正直、初めはカラカ様のことを無邪気過ぎるお嬢様だとは思いましたけどね。でもナドリネ様とカラカ様は別の人ですし、私はあなたの……」

「……」

「恋敵になる気は……なかったのです。信じられないでしょうけど」

「ええ、信じられないわ」

「でも、確かに今から思えば、なんだか心の底に割り切れない思いがあったように思います。だから私はお城の外に出たのです。お金を稼いで自分の生き方に意味を持たせるために」

「私は守られてばっかりの甘ったれな女の子だと言いたいのね」

「そう思ったことは否定しないけれど」

「……」

「でも、カラカ様は素直な心をお持ちだと思いますわ」

 レイフェリアはぐっしょり濡れた豊かな髪を払おうともしない少女を見て言った。

「ええそうよ。本当はまだお兄様のことがまだ大好きなの。だから、本当は姉様のことは嫌い」

「そうでしょうとも」

「……好きだったの、本当に大好きだったの。一生懸命綺麗になって、勉強もして振り向いてもらおうと頑張って……」

「……」

「だけど、お兄様は花嫁は私じゃないっておっしゃった! 私、本当は気づいていたのかもしれない。いくら上手に甘えても、女らしく見せても、お兄様は優しくしてくださったけど、いつも他人行儀だった。私を真正面から見てはくださらなかった。時々お一人で北の空を見あげていらしたの。憧れるような不思議な目をして」

「北の空を?」

「ええ、そうよ。でも今ならわかるわ。あれは姉様のことを想っていらしたのね。やっぱり私なんかよりもずっと昔から、お二人の運命は繋がっていたんだわ」

 カラカは少女らしく、感傷的な言葉を使った。

「運命なんて私にはよくわから無い。でも、私も……ティガール様を好きになってしまったの……だから謝らないわ」

「謝って欲しくなんかないわ。いくら欲しくても、どうしようもないことがあるってわかったから。今までずっとお部屋で泣いていたけど、もうそろそろ涙も底をついたのよ」

「……」

「聞いているかもしれないけれど、私は赤夏の宴の前にお母様と一緒にここを出るの。宴で姉様が兄様に紅玉を捧げられているところなんて見たくもないから」

「ええ」

「西方領土のお父様のところに行くのよ」

「そう。私は西方のことは何も知らないの。どんなところ?」

「実は私もあまり知らないないの。向こうではお城の奥で暮らしていたし、街に出たこともないの」

「私も似たようなものだわ。両親が亡くなってからずっと一人で暮らしていたの」

「でもこれからは違うでしょ?」

「……そうなるのかしら?」

 レイフェリアは、いつの間にかカラカと対等な話し方をしている自分に気がついた。そう、二人は同等なのだ。二人の間にあった壁がなくなってしまっていることを、お互いに感じている。

「ごめんなさい……お幸せとは言わないわ。私は悪い子だから」

「それでいいのよ。でもちょっとだけ待っていて」

「なぁに?」

「すぐよ」

「え? な、なに?」

 言葉の通り、レイフェリアは身を翻して雨の中に駆け出すと、しばらくしてすぐに戻ってきた。カラカの目には、まるで地を低く飛んでいるように見えたのだ。

「川を渡った時もそうだったけど……すごく跳べるのね。びっくりしたわ」

「我が家の伝統でね。ほらこれを」

「……?」

 レイフェリアの手からぽとりと落とされたのは、透き通った青い石だ。

「綺麗……」

「差し上げましょう。北の地で採れる輝石よ」

「……紅玉の代りという訳ね」

「いいえ、違うわ。それは碧石。握ると涙を吸い取ってくれて、心が鎮まり強くなるわ」

 それはたった今レイフェリアが作ったつくり話だった。しかし、偶然にもその青い石は涙の形に似ており、中に気泡が浮いて本当に涙のように見えた。

「よかったら持って行ってちょうだい」

「……ありがとうお姉様。じゃあ、これはもういらないわ……えいっ!」

 カラカは細い腕を振りかぶると、赤い石を遠くに投げた。音もしなかったが、どこかの植え込みの間に落ちただろう。

「なんだが、すっとしちゃった……もう行くわ」

「ええ、さようなら。すぐに体を温めてね。風邪をひくから」

「姉様は風邪をひいて、宴に出られなくなったらいい気味だわ」

 カラカは初めて微笑んだ。

「じゃあ、さよなら」

 そう言うと、カラカは雨の庭へと消えて行った。


「……行ったか?」

 しばらくして四阿にのそりと入ってきたのは、雨の庭に似つかわしくない風貌の派手な男である。

「いつからそこにいたの?」

 レイフェリアは振り向かずに尋ねた。

「あなたがここに来た時から。ずっと俺を避けていたろう」

「ええ、そうね。今はあなたが少しだけ嫌いだから、会わない方がよかったかも」

 頑なにこちらを見ようとしないレイフェリアに業を煮やして、ティガールが肩を掴む。

「なぜだ?」

「女心をわかってないから」

「わかりたくもない。あなた以外の女の気持ちなど」

「……」

「フェリア、これを」

 そういうとティガールはレイフェリアの手をとって膝をついた。雨に濡れても見事な頭髪を伏せられる。そしてここから見えない手のひらに、重く冷たいものが落とされた感覚。

「これが……」

 掌の上には鳩の卵ほどの透き通った赤い石が、ごつごつした石の中心に収まっていた。

「俺の見つけた紅玉だ」

「綺麗……」

「早速職人に磨かせよう。何に加工する? 指輪か、髪飾りか」

「そうね……それも素敵だけど、やっぱりこのままがいいわ。宝石が守られているようで」

「そうか。あなたがいいならそうしよう」

「ありがとう、ティー」

 そういって見上げる額に、レイフェリアは一つ口づけを落とした。






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