45 帰城
ログウッドに着いた時は雨が降っていた。雲のようにけぶる霧雨だ。
この地方での雨がはじめてだったレイフェリアは、冷たい北の雨と違ってふんわりと降る暖かい雨に驚きながらも、ティガールの上着を掛けられて馬車から城に入る。馬も人も城も滲んで、まるで水の中にいるようだった。
「これが雨期と言うものなのね?」
レイフェリアは城門から雨に霞む街を見下ろしてティガールに尋ねた。
春の終わりにあんなに熱かった大気は今、ひんやりと重たいものに変わっている。まるで季節が逆戻りしてしまったようだ。
「ああ、これからほぼひと月の間、主に午前中は雨になる。今はこんな霧雨だが、そのうち滝のような大雨に変わるぞ。それが終わったらいきなり夏が始まる」
「南方では季節の変わり目がはっきりしているのね」
「ああ。うっとおしい季節だが、これでこの地方で一年間に使う水が賄えるから、民にとっては恵みの雨だ」
「これも太陽の慈しみなのだわ。私は美しいと思う」
霧雨は水滴が細かい分、布地を通して肌まで染み通ってくる。レイフェリアは体がぐっしょりと濡れるのにもかまわずに、鮮やかな街の色合いが彩度を落とした風景にうっとり魅入っていた。
「これからは嫌というほど見られる。さぁ、行くぞ」
「はい」
城内に入ったレイフェリアは自分に与えられた場所である、城の裏の小屋に一人で向かおうとした。帰りを知らせていないので、ルーシーもマヌルもここまで迎えに出てきてはいない。
「あなたは俺と来るんだ」
一人で行こうとしたその肩をティガールががっしりと掴む。
「いえ、でも私は」
「今から一緒に親父殿のところに行く」
「ご領主様に? でも私……酷い格好だわ」
レイフェリアはフードを背中に落としながら言った。
いくら裏革の合羽にくるまっていたとはいえ、髪は湿って額や首筋にぺったりと張り付き、服装は平民の女の旅装である。とても、貴人に会える身なりではない。
「構わん。親父殿は気にしないだろう」
「主様。私は、ウンピョウと次の間に控えています。ご用がありましたら、いつでもお呼びください」
ヒューマはそう言って、少年とともに先に城に入っていった。
「……」
ティガールはレイフェリアの腕をつかんで、どんどん城の奥に進んでいく。奥に行くにしたがって装飾は赤く美しくなっていく。前は城の外から入っただけのレイフェリアは情けないが急に心細くなった。
以前リューコに会って話をしてから、自分はなにも変わっていない。ひたすら目立たぬよう、迷惑をかけないようにしていただけだ。
なのに、ティガールと特別な関係になってしまった。あの鋭い目を持つ領主にはそんなことなど、すぐに見抜かれてしまうだろう。責められるのは必然だ。だが、どうすればいいのかわからない。
「大丈夫だ。俺から伝える。あなたがいなければ、あいつらを一網打尽にはできなかった。安心して俺のそばにいろ」
本丸のホールに入った途端、歩みの遅くなったレイフェリアを振り返ってティガールは腕を放して、改めて手のひらを差し出す。薄暗いホールに彼の豪華な髪がきらきらと映えた。
「行こう」
「……わかった」
意を決したレイフェリアがティガールの手を取った時、奥の方から軽い足音が響いてきた。カラカである。
「ティグ兄様ぁ! お戻りになっていらっしゃったのね! お帰りなさぁい」
「カラカか。今戻った」
弾むように駆けてきたカラカの細い腕がティガールの腰に回される。
「嬉しいわ! 兄様。今度の巡察は短かったのね、よかった! 雨期に入ってしまったから私、心配してたのよ」
「問題ない。濡れるから離れていろ」
「平気! でも、レイ姉様もご一緒だったのね?」
カラカは旅姿で、びしょ濡れのレイフェリアに意外そうな視線を送ってきた。本当に知らなかったらしい。
「はい、故あってお供をいたしました」
「……どぉして? 私、お母様にしばらく外へ出るなって厳しく言われていたから、なんにも知らないの。なにがあったの?」
カラカは可愛い眉に不信感を漂わせている。
「なにか理由があって、レイ姉様は兄様とご一緒に行かれたの?」
「戦えるからだ」
「え?」
「え⁉︎」
驚いたのはレイフェリアも同じである。自分の能力は普通の人間より高く跳べるだけで、戦闘能力などはない。
「今回、一風変わった悪人がいてな。レイフェリア殿に協力を願ったのだ」
──ええええ? 尤もらしい理由をとってつけたんだろうけど、ごまかしの言い訳としてはかなり苦しいのでは?
レイフェリアが内心冷や汗をかいていると、好奇心満々でカラカの視線が絡みつく。
「まぁ、レイ姉様ってお強いの? 戦うの?」
「え? ええ……少しなら。でも、大したことは全然なくて……」
かなり無理してレイフェリアは微笑んで見せた。嘘をつくのは昔から苦手だ。
「まぁ、すごいわね! ますます好きになっちゃいそう! ねぇ兄様! お願い、姉様を私の侍女にして欲しいって母上にお頼みしていただけないかしら?」
「侍女だと?」
ティガールの声が鋭くなった。
「そうなの、母上は姉様の良さをわかってくれないの。だから兄様からお願いしてもらえば……」
「なにを誤解しているのかはしらないが、レイフェリア殿はお前の侍女などにならない」
「……え?」
カラカはやんわりと解かれた自分の腕を扱いかねたように、呆然とティガールを見上げた。
「なにを騒いでおるのじゃ?」
その時、奥から侍女たちを引き連れたナドリネが現れた。
「おお! これはティガール殿か! 雨の中よう戻られた! なにやら国境で物騒な噂が流れておったようだが、ご無事のお帰りなによりじゃ。さ、まずはゆるりと休まれよ。キティ、上の居間に茶の支度を申しつけて参れ。火も焚いておるな? カラカや? そなたも着替えくるがよい」
「はい! お母さま」「かしこまりました」
カラカは侍女と奥へと戻りかける。
「茶も火も必要ない。俺はこれから親父殿のところに報告に行く」
「左様か。それもそうかの。ではその後にでも……おや? こなたがなんでここにいるのじゃ!」
ティガールが面倒ごとを避けるように背後に控えていたレイフェリアの腕を取った途端、打って変わって叩きつけるような言葉がナドリネから浴びせられた。
「そんな汚いなりで床が汚れるわ。さっさと自分の小屋にお戻り!」
「……黙れ、ナドリネ」
静かな、しかしたっぷりと怒りを含んだ声がナドリネの舌を凍りつかせる。
「部屋に戻るのはお前だ」
「ティ、ティガール殿?」
「聞こえなかったか? ナドリネ、カラカを連れて下がっていろ。お前たちの声も、意見も聞きたくない。俺は急ぐのだ」
そう言うと、ティガールはさっさと大階段を上って行く。
手を引かれたレイフェリアが振り返ると、怒りに燃える目をしたナドリネと、青ざめた顔のカラカが自分達を見上げていた。
「親父殿、入る」
「戻ったか」
案内も乞わずにティガールは、ずかずかと領主の私室に入って行く。レイフェリアは好奇心を抑えられなかった。
この二人が対峙するところを見るのは初めてである。先ほどよりも雨は強くなっていた。部屋には足の悪いリューコの為か、暖炉に小さな火が焚かれているので空気は乾いていた。
「国境のいざこざを収めてきた」
「ご苦労。先ずは体を拭け」
リューコは無造作に長椅子の背に掛けられた布を指した。レイフェリアのことは無視である。
声をかけられてもいず、それどころか視線すら送られていない。ここは黙って腰を折り、床を見つめるしかなかった。髪から滴り落ちた雫がぽたぽたと床に落ちる。
その頭にふわりと布が掛けられる。ティガールが自らレイフェリアの髪をぬぐってくれたのだ。体は冷えていたが、心の中に暖かいものが広がった。
「着替えさせてやれなくて済まない。こっちに来て暖まれ。大丈夫だ、後で風呂に入れてやる」
ティガールはレイフェリアを暖炉のそばの椅子に座らせる。その様子をリューコは黙って見つめていた。
「親父殿、やはり東方だった」
やがて彼はリューコに向き直った。
「東か」
「そうだ、姑息な手段で民を扇動しようとしている現場を抑えた。工作員たちは東の砦に繋いである。奴らは芸人を装って村人達を扇動していたが。笛や鉦を使った妙な曲で、なんというか……心の不安を煽っていたのだ。俺も、フェリアがいなかったら危ないところだった」
「ほう」
「今、きゃつらを尋問しているから、もう少しなにか聞き出せるだろう」
「そうか……わが父の時代から東は面倒だの。下っ端どもの言うことなど、知らぬ存ぜぬで押し通すだろうて」
「おそらく彼らは首魁が誰かは知らされていない。だが、前回の野盗騒ぎも、おそらく東の差し金だ。爺さん同士の戦で失った領地を取り戻そうとでも言うのだろう」
「ふん……それにしてはこのところ多いの? やることが性急すぎる。他になにか原因は考えられるか?」
「さぁ……わからん。あの男が領主の座に着いてしばらく経つが」
「東がぞろぞろ動き始めたのは、お前が北へ旅立ってからとほぼ同じ時期ではないか?」
「どう言う意味だ?」
北へと言うのはティガールがレイフェリアを迎える旅のことだ。
「わからんか? まぁいい……ところで、そこに座っている見栄えのしない娘をどうするつもりだな?」
リューコが顎をしゃくった。レイフェリアは内心の動揺を押し隠し、殊勝げに視線を落としている。
「フェリアは俺の花嫁になる。俺のつがいだ」
「ほぉ? つがいとな」
「そうだ」
「……」
リューコの金色の瞳が面白そうに瞬いた。話を続けろと言うのだろう。
ティガールはレイフェリアの知る限り、最も話の下手な人間である。しかしこの場合は、自分が口を出す筋合いのものではない。ただ、かしこまって向かい合う父子を見つめているばかりである。
「レイフェリア殿と俺は、子どもの頃に王都で出会った。その時、俺はずっと獣の姿だったが、強烈に彼女につがいを感じていた。しかし、北方領主エイフリークが奇禍に遭われ、レイフェリア殿は連れて行かれた。その時の俺にはどうすることもできなかったのだ。だから成人を迎えてすぐに彼女を迎えに行った」
「……ほう」
「俺の勘に間違いはなかった。彼女は内に誇り高い鷹の血を宿す、北方領主の直系だ。東の手先どもの術中にうっかり囚われて我を忘れた俺を正気に戻してくれた。今回の手柄は全てレイフェリア殿のものだ」
ティガールは訥々と語るのをレイフェリアは黙って聞いている。
「……なるほどのぅ」
「だから親父殿、これ以上邪魔をするな」
「邪魔をした覚えはないがの」
リューコはのんびりと答える。息子の切迫に少しも動じる様子はない。
「覚えがないだと? なら、なんで本丸から追い出した?」
「まぁ、そうだがな。その娘は少しも困っていなかったであろ、な?」
初めてリューコの視線がレイフェリアを捉えた。レイフェリアも静かに見つめ返す。その紫瞳に暖炉の炎がちらちらと映り込んだ。
「聞けばそなた、なかなかの商売上手だそうだな」
「自分で自分を賄うことは、私の信条でございますので」
「城北の森で薬草を栽培しているそうだの。なんの薬だな?」
「主に熱取りと、痛み止め。あとは消化器系の薬草です。鎮静剤も少し」
「鎮静剤とは珍しいの」
リューコは興味深そうに言った。
「いずれも北方ではよく使われるものです。この度の視察にも持って行って、村の人々に配りました。毒でないことはティガール様達が証人です」
「いやいや、毒だとは申してはおらんではないか。全く、情のこわい女子じゃ。鎮静剤が必要なのはそなたではあるまいか?」
「……」
レイフェリアは顔を赤くして黙った。自分では冷静なつもりだったが、リューコの煽りにうっかり乗ってしまったと知ったからだ。
「親父殿」
「なんだ」
「雨期が明けたら夏の宴を開くのだろう? そこで俺はレイフェリア殿、いやフェリアに紅玉を贈る」
「紅玉?」
レイフェリアが尋ねた。赤い石は南方ではありふれたものだが、紅玉と呼ばれるものは真紅に限りなく近く、また透明度が高い石にのみ使われる名称なのだ。大きなものになると非常に高価な宝石である。
「妻問いの捧げものだ。あなたに相応しいものを探す」
「は……はい」
言葉が足りないのでよくわからないが、この国の儀式のようなものなのだろう。あとでマヌルに聞いてみようとレイフェリアは思った。
「明日の朝発つ」
「これはまた性急なことだ。戻ったばかりだというに」
リューコがからかう。
「これ以上待てない。だから親父殿。もう不必要な手間をかけさせるな」
「そうかな? 私が手間をかけさせたからこそ、おぬしたちは懇ろになれたのであろうが」
「……っ」
ティガールがぐっと詰まる。やはり見抜かれている、とレイフェリアは伏せた頬に血が上るのを感じた。
「二人とも聞くが良い。南方領土は豊かである故、昔から国境ではその富を狙って小競り合いが絶えなかった。代々の領主の采配で大きな戦にはならなんだが、我々は常に警戒を怠らない。また、良好な王家との関係も維持せねばならない。そしてまた」
リューコは一旦言葉を切って、若い二人を強く見つめた。
「己の中に住まう獣を飼い慣らさねばならん。もう知っておろうな、レイフェリア殿」
「はい」
「我ら四方侯は始祖の王より、獣の力を授けられたと言われている。北方領主家の紋章は鷹であったな」
「はい。でもそれはただの伝説だと思っておりました」
「まぁ、それはそうであろうよ。事実は多分逆で、始祖王は特殊な能力のある一族の者を選んで四方侯に据えたのだろうな。そなたにも覚えがあろう」
思わずレイフェリアは自分の足に触れた。今まで自分の血の能力についてあまり深く考察したことがなかっただが、リューコの言葉には説得力がある。
「話が逸れたな、ともかく我が領地は一見平和で豊かだが、それは様々な努力の結果だということだ。そしてそれを維持せねばならない。そのためにはあらゆる苦労を厭わぬ強い精神力が必要なのだ。仕事が好きで、腰が軽く、何より打たれ強い女子は我らの階級にはそうはいない。そなたは最初から気がついていたのだろう? 私がわざと様々な試練をそなたに与えていたことを」
「そうかもしれないとは思っておりました。でも、リューコ様は南方領主家の血を守りたいと強くおっしゃられておりました。そちらの方が説得力があって、私は諦めようとしていたのです。ティガール様の妻になることを」
「俺は諦めなかったがな。喰えない親父殿の言葉のおかげで引っ掻き回されたのだ」
「ほう。だが、そなたの態度もなかなか無様だったではないか。オセロットが嘆いておったぞ」
「それは……確かにその通りだった」
ティガールは素直にうなだれた。
「ははは! まぁ、報告を受ける限りではどちらも意地っぱりであったことは否めぬな。でもレイフェリア殿、商売まで始めようとしたのには流石の私も驚いたぞ。金は溜まったか?」
「お陰様で。ささやかではございますが、宴の衣装を整える程度には」
「さすがは我が花嫁だろう」
あっさり立ち直ったティガールが、胸を張る。
「ふむ、今から尻に敷かれよるか、倅よ。まぁ良い、初めからわかっていたことだ。レイフェリア殿」
「はい」
「そなたは強い。強くて賢い。北の鷹の娘よ。我ら南の虎の血を鎮めるつがいにふさわしい女である」
言いながらリューコは領主の座から立ち上がった、衣をさばいてゆっくり進むと、レイフェリアの側で膝を折る。
「よく我が試みに耐えた。倅を頼みます」
皺深い手がレイフェリアの頬を撫でた。ティガールと同じ色の目が何かを探すようにレイフェリアの紫の瞳を覗き込む。返す言葉もなく、レイフェリアは首を垂れた。
「しかし、そなたにはまだ、やり遂げるべきことがあるのではないか」
リューコが探るような目つきで言った。やはりこの人は面白がっているとレイフェリアは思う。しかし、正直な答え以上に、この人物を納得させる言葉はないと、もう思い知らされているから迷いはなかった。
「仰せの通りにございます。私は父の無念を晴らしとうございます」
「では王都に行け。ゼントルム王に調査を願い出るのだ」
「王都に」
それはレイフェリアの望むところだ。
傍のティガールを見ると、彼もわかっていたことのように頷き返してくれたのだった。
長くなってすみません、うまく描写できたいるでしょうか?




