43 つがい
「虎……と言うのね?」
「そうだ、聞いたことはないか?」
「ない……と思うわ。北の城にあった本には正確な姿かたちや名前は載ってなかったし」
レイフェリアは卓に置かれた軽食をつまみながら答えた。
かなり空腹だったので、話を聞く間も食べる手が止まらない。体を拭いて身だしなみを整えて、やっと一心地ついたところである。なにしろ朝食後から昼過ぎまで、ずっと離れに引きこもって好きなようにされていたのだ。
いつもなら世話を焼きにくるヒューマも顔を出さなかったところをみると、男二人の間でなんらかの約束が取り交わされていたに違いないと、勘ぐるレイフェリアである。
しかしこれで、ようやく二人だけの話ができる。今がその時なのだ。
「なぜ今まで思い出してくれなかった?」
「それがわからないの。あんなに毎夜遊びに来てくれて、私のたった一人の友達になってくれたのに、どうしてか思い出せなかった」
「……」
「私は賢くて綺麗なあなたに夢中だったわ。名前をつけようとして、あなたが気にいる名前を考えた。カイ……サム……ピール、いろんな名前を試したっけ」
「覚えている」
「それで、いくつも考えて、偶然ティーって呼んだ時に、あなたは嬉しそうに鳴いて私の指を舐めてくれたのよ。だからティーと呼ぶことにしたんだわ。でもあの時から指を舐めるのが好きだったのね」
「ああ、俺の名を呼んでくれてすごく嬉しかった」
「でもすっかり忘れていたのね。私、子供の頃から物覚えはよかったはずなのに。なぜかしら?」
「さぁ……わからない」
ティガールもしきりにその頃のことを思い出そうとしている。
「多分その頃、私の父が反逆の疑いをかけられた挙句に亡くなってしまったから、その時の混乱で記憶が飛んでしまったんじゃないかって……」
「そうだ。俺はその日もこっそり忍び込んで、庭で泣いているフェリアを慰めようとした。そしたら、見知らぬ男達がやってきてあなたを無理やり連れて行こうとしたんだ。俺は男の腕に噛み付いた。残念ながら振り払われてしまったが」
「そうね。あなたがヒューマの腕に噛み付いたのを見て、私は思い出したの。偶然だろうけど、全く同じような場面だったのよ。よっぽど強く記憶に焼きついたのね。それで一気に記憶が蘇ったのだわ」
「ヒューマに噛み付いたから、俺はやっと思い出してもらえたのか……」
ティガールは複雑そうな顔をした。
「ごめんなさい。ヒューマには気の毒だったけど、私にしてみればよかったわ。だってあなたは私を守ろうとして男の腕に噛みついてくれたのよ。今まであんなに大人しくて可愛かったティーが! あの光景はすごくよく覚えていて一気に記憶が蘇った」
「……」
「でも……それじゃあ、前にあなたの言っていた猫好きの女性って……もしかして……私?」
「今頃気がついたのか? この鈍感娘」
「だって、本当にわからなかったんだもの。ごめんなさい……ごめんね」
レイフェリアは食べる手を止めて、向かいに座る男の方に腕を伸ばした。固くて滑らかな頬。その手触りはあの獣とも、遠い日に頬を寄せ合った猫とも、似ても似つかない。
聞きたかったことの一つがこれであっさりわかった、
ティガールは黙って、パンくずのついたその指先を舐めた。
「でも、私はとても嬉しかったの。王都では友だちがいなかったし、親戚とは疎遠だし。一人ぼっちで庭にいたら、にゃあにゃあ膝の上によじ登ってきてくれて可愛くて……毎日楽しみにしてた」
「……最初は俺の屋敷で会った。北方からの客が来ていた」
「そう父上とリューコ様は私的な交流があったのかしら」
「あった。王都での滞在が重なった時には、時々互いに屋敷を訪問していた」
──そうか。だったら、リューコ様は父上の名誉回復に力を貸してくれないだろうか?
レイフェリアはふとそんなことを考えた。しかし、リューコは自分をティガールの花嫁にとは望んでいないのだから、あまり都合のいい期待はできないと思いなおす。
「だけど、ティーはどうして普通の子どもの姿で会ってくれなかったの?」
「子どもの頃は獣化の制御が難しいからな……月が昇ると体が勝手に反応して獣になっていた」
「ああ……そうなのね」
これでまた一つの疑問が解決する。
──こうやってどんどん話を重ねていけばいいんだわ。
「あの頃のティーはずっと王都で過ごしていたの?」
「いや? 親父殿が元気だった頃は訳も分からず、領地と王都を往復していた。王都ではあちこち連れ回されていたな。俺が北方屋敷に忍び込んだことも多かった」
「偶然、私たちは同じ時期に王都で過ごすことが多かったってことなのね」
「あなたの父は南方の風物に興味があったらしいな。その頃は親父殿も社交的で、小さな夜会なども開いていたようだ」
「ええ、大きくて風変わりなお屋敷に連れて行ってもらった覚えがあるわ。珍しい服装の外国人もいたような……」
親同士の交流があって、一緒に夜を過ごすうちに少女と猫(虎だが)は仲良くなっていったのだ。
「それから父上があんなことになったのね。あの時、私は母とともに、どこかに閉じ込められてた。毎日暗くて怖くて……悲しかった」
「そうだ。あなたは屋敷の隅に閉じ込められて泣いていた。だから俺は夜になってから忍び込んだんだ。こういう時は猫……いや、虎でよかったと思った」
「ええ、あの頃の私は人が信じられなくなって、猫のティーだけが心の慰めだったわ。ずっと待ってた」
「俺はあなたの涙を舐めた……」
「それは覚えてないわ。ごめんなさい」
レイフェリアはおもわず笑ってしまう。その頃からこの人は自分を舐めるのが好きだったのか。
「でも、急に別れがやって来たのね。誰が連れに来たのか覚えがないんだけど」
「俺にもわからない。だがあなたは連れていかれる前に俺に言ったんだ」
「……私はなんと言ったの?」
「……」
「いじわるしないで教えて? そのために私たちが今こうしているのでしょう?」
「フェリアはこう言った。『私はティーとずっと一緒にいたい。ティーが大好き。私はティーの……』」
「……ティーの?」
レイフェリアは恐る恐る尋ねた。
「お嫁さんになる」
「……」
「だから俺はっ! それを信じて、ずっと!」
「ごめんなさい。それは全然覚えてない」
レイフェリアは正直に言った。ティガールはすっかりむくれて渋面を作っている。
「そんなこと言ったかなぁ……ごめんね」
「……ふん、そんなこったろうと思っていた。所詮その程度だったんだ、俺の存在は」
益々ふてくされた男は行儀悪く、卓上に着いた腕に顎をうずめた。
「忘れてしまったのは、あの時の混乱のせいだと思うけど。父が亡くなったり、城を追い出されたりして、私は王都でのことをほとんど忘れてしまった。でも変ね? いとこのアリーナのことは割と覚えてたのに……なんであなたや南方のことをすっかり忘れていたのかしら?」
「だからその程度だったってことなんだろうさ」
「もう! 大きな体で拗ねないで。ほらパンを食べて!」
レイフェリアはバターをたっぷり塗りつけた大きな切れ端を男の口に押し込んだ。
「もしかしてパンより、お肉の方がよかった?」
「肉より、フェリアの方がいい」
「私はお茶のおかわりをしよう」
完全に無視してレイフェリアは、まだ熱い茶器から自分の茶を注いだ。濃くて果物の香りがする南方の茶だ。
「だから俺はずっと待っていた。自分が大人になるのを」
レイフェリアが茶を飲み終えるのを待ってティガールが再び口を開く。
「大人? もうずっと前から、あなたは大人でしょう?」
「この国の男子の成人は十八歳だろう?」
確かにそうである。この大陸では女子には成人年齢は決められていないが、男子が成人、つまり一人前だと制度的に認められる年齢は十八歳であった。
「だから」
「え? ちょっと待って。と、言うことは……もしかしてティーの年齢って、えっと、まさか」
「だから十八歳だと」
「わああ!」
──そんな! 私よりも二つも年下だったなんて!
レイフェリアの頬に一気に朱が上る。ずっと年上だと思い込んでいたのだ。
そのことに特に根拠はないが、最初会った時の落ち着き払った印象と、寡黙な性格。そして少年と言うには程遠いその雄渾な体格に、自分より上だと思い込んでいたのである。
「な、なんだよ?」
「今初めて知った! どうして言ってくれなかったの⁉︎」
「別に隠したつもりはないが」
「私は二十歳なんです」
「知っている」
「そうですかー」
それがどうしたとでも言うようなティガールに、レイフェリアは気まずくて顔を上げられない。
「だから俺は、十八になって直ぐに王都のゼントルムに会いに行ったんだ。あなたと婚姻の約束を取り付けることに承認をもらおうと」
「えっ?」
「え?」
「あなた、国王様から北と南の交流を回復させるために、私が推奨されたって言ったわね?」
「ああ。体裁のためにそう言うことにしておこうと、王が言ったんだ」
「な……私には何も知らされなくて……」
「すまん。せっかく会えても、あなたは俺を全く覚えていなかったし……義務だからしようがないって態度だったし、俺も意地になってしまって……」
「だからって、一言教えてくれたら私だって……」
言いかけて、レイフェリアは思い当たった。
だからティガールは北に着いた日の夜に獣の姿を見せたのだ。あれが暗黙の告白だったのだ。彼は彼なりに、伝えようとしてくれていたのだ。
──私が、忘れていたから……。
「すまない。あなたが俺を好きじゃなさそうだったんで、どうしていいかわからなくなった」
「いいえ……私こそ、捻くれた目であなたを見ていたから。王様に言われたので仕方なく私を迎えに来たんだって思っていて……密かに傷ついて、心だけは明け渡さないぞって密かに頑張ってた」
また一つのわだかまりが解けていく。
「だから俺に冷たくした?」
「冷たい? カラカ様に遠慮があるわ、リューコ様には釘を刺されるわで、必死に壁を作っていたんだけど」
「あなたはひどく俺に冷たかった」
「……だから、あなたは怒っていたのね」
「……」
派手な頭が大きく下げられる。
「でも一方で、わかりにくかったけど、あなたの優しさに惹かれている自分もいたの。でもどうすればいいかわからなかった」
「カラカのことは尊重はしている。でもただの親戚の娘だ……それに俺もフェリアにするべき配慮を怠っていた。あなたがカラカを見てもなんの動揺もしないから、がっかりして慣れないフェリアを放ってさっさと城を離れてしまったし」
「ええ」
「だから……混乱するのも無理はない。許してくれ」
「許します。私たちはお互い言葉が足りなさすぎたのね」
レイフェリアは唇を噛み締めた。
「そうだ。圧倒的に足りなかった。フェリア、あなたは俺のつがいだ」
「……つがい?」
「ああ。俺たち南方領主の直系の男は自分の妻のことをそう呼ぶ。俺のつがいはあなただ。フェリア」
「……あなたのつがいでよかった」
その言葉を噛みしめるようにレイフェリアは微笑んだ。
「くそ! 胸がかきむしられる……この気持ちをなんと呼ぶ?」
「わからない……でも、私の知ってる一番近い言葉は」
「それは?」
「……愛」
「!」
男は小さな卓を飛び越えて、自分のつがいを抱きしめた。
「愛している」
たくさんの???が、わかってきました。残りの???も次第に明らかになります。




