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謁見室を退室してまず真っ先にやらなければいけないことはシャイロックへの説明だった。湖岸に立って、閉じた睡蓮宮を見ながらなにから話すか考えていた。
でもさ、と努めて明るくシャイロックが声を上げる。
「フランフィールが無事でよかった」
フランフィールは思わず彼のほほを引っぱたいた。なぜ叩かれたのか、シャイロックはまるで分からず困惑している。その目がまたフランフィールをいらだたせた。
「あそこには、レーデシェスカたち10人くらいが閉じ込められている。食べるものも、着替えもない。ただ連絡することしかできない。このままだと死んでいくのを待つだけ」
シャイロックが絶句する。
ついで畳みかける。信仰の象徴である睡蓮宮の花が閉じるということがどれだけ大事件かということ。流言に踊らされれば国が傾きかねないこと。主様が心を閉ざしたとなれば、どれだけの人が疑心暗鬼に囚われるのか。
「わたしは主様のもとへ赴く。シャイロックの世話係は誰かに引き継ぐことになる」
「俺を見捨てる?」
「いいえ。いえ、そうかもしれない。わたしはもうここには帰ってこないから」
シャイロックの宝石みたいな紫色の瞳をじっと見つめる。いつもきらきらと輝いていたその瞳は困惑に満ちている。それでもそらさずにいてくれることを、不覚にもフランフィールはありがたく思った。可哀想だなんて思われたくなかった。
「主様のもとへ赴く、っていったいなんなんだ。あんたがそれを口にしてからずっと乙女さんたちが怯えていた」
怯えさせてしまったのか。勝手にすることだからと思っていったものの、ひょっとしたら次は自分かもしれないと思った子もいたのかもしれない。そうならば申し訳ないことをした。
「舟で、神域までいく。そのまま主様のところへ沈んでいく。それだけ」
「そんなことして、死んだりしない?」
「そのとおり。わたしは、主様のところへ人柱に行く」
だから帰ってこないと続ける前に腕を取られる。シャイロックの顔が真っ青になっていた。ぱくぱくと口を開閉し、そうして泣きそうな顔をしている。
「なんであんたが」
「主様が苦しんでいるのなら、どうにかしたい」
「俺は反対だ。フランフィールの命はあそこの10人よりずっと重い」
「わたしは、そうは思わない。もとよりこの命は主様に捧げた身」
「そんなこと言うの乙女さんの中でもフランフィールだけだ!」
シャイロックの爪が腕に食い込む。痛い、呟いても話してもらえない。眉はしかめられ、もう片方の腕も取られた。逃がさない、態度でそういっているようだった。
ふいに笑いたくなった。ほほは動かないけれど、気分が高揚する。充分じゃないかフランフィール。どこからきたか知らない青年だけど、死を惜しむ人がひとりここにいる。
名残惜しくなる前に早く離れなければ。
「わたしはすぐにここを立つ。誰か好みの乙女を捕まえて世話係を頼んでほしい」
「フランフィール。フランフィールがいい」
「わたしは主様のところへ行く」
「だったら俺も行く」
勢いに任せての言葉みたいだった。言った本人が一番呆然としている。目が丸くなって口を開けたまま止まってしまう。腕をつかむの力も抜けた。
するりと彼の手から逃げる。
「その気持ちだけで充分。さよなら」
フランフィールは急いで寮へ帰る。ベッドサイドに飾られた少ししおれた花冠にまた少し気分が高まる。
急いでメモ帳を開き、レーデシェスカへの簡単な言葉をつづる。ずっと一緒だった一番の友達。きっと悲しんでしまうだろうから。
花冠を手に取る。舟まで行けば、そこにはシャイロックが待っていた。
「本気?」
「……せめて沈むまで見送らせてほしい。舟に乗せて」
「いいよ」
青年の全身から力が抜けるのが見て取れる。フランフィールとしても、岸辺に舟を戻す手が欲しかった。これは乙女たちの備品なのだから。
閉じた睡蓮宮の横まで来る。あの巨大な睡蓮が好きだった。花が開いた様を見るだけで嬉しくなり、あそこでのお勤めは一日中幸せだった。目礼して通り過ぎる。
「フランフィール。大事な話がある」
「なに?」
「結婚して」
「お断り」
「それが無理なら、俺の言うところへ向かって」
シャイロックを見れば、紫色の瞳がいままで見たことないくらい真剣な色をしていた。そうして指さすのは神域のはずれ。フランフィールが向かおうとしたところとは方角が少し違う。
「あんたが死んじゃう前に、教えなきゃいけないことがあるんだ」
切羽詰まった声で、シャイロックの方が死にそうだった。フランフィールは少し考える。湖からの客。彼はなにかを隠していたのは察していた。それをいま、教えようとしている。
「分かった」
本当は一刻も早く主様のもとへ赴きたかった。けれど、そんなすがるような視線を受けて、後悔の色をにじませながら懇願されれば、折れざるを得ない。
櫂を操る手を調整する。向きを変えて、彼の指示に従った。
どのくらい舟を漕いだだろう。たどり着いた場所には何もない。けれど、シャイロックは確信をもって水面に見入っている。
シャイロックは首の後ろに手をやってなにかごそごそとやっている。フランフィールはじっと待った。
服の下から出てきたのは、白色の大きな鱗に穴をあけ組みひもを通した首飾り。日に当たって輝くそれは遠目から稀に見える主様の色にそっくりだった。
「これを付けて」
渡されて困惑する。これは一体なんなのだろう。けれど約束は約束なのだ。組みひもを首の後ろで止めれば、シャイロックは頷いた。
「いまから湖の底まで降りる」
「待って。わたしはここでは沈めない」
「大丈夫、湖の精霊の加護がある。風の精霊の代わりに守ってくれる。決して死んだりしない。主様に誓う」
主様に誓う。シャイロックの口から出てきた言葉はごく自然で、いままで主様を知らずに過ごしていた人の発言とは思えなかった。それにこの鱗。湖の精霊の加護があるとはどういうことなんだろうか。
シャイロックの秘密というのは、とてつもなく大きなことなのではないか。足がためらう。
その間にもシャイロックは舟から降りて水に潜っていた。また水面に顔を出し、こちらに手を差し伸べる。
「いまだけでいい。信じて、フランフィール。あんたに恩を返したい」
櫂を引き上げ、舟から降りる。水はまだ冷たいが風邪をひくほどではない。
シャイロックの手を取れば、彼は水底へ向かって泳ぎだした。慣れた動きだ。少なくとも階段を上がるよりよっぽど繰り返してきた動きなんだろう。
フランフィールは思い切り息を吐く。気泡が上へとのぼっていって、代わりに湖の水が入ってくる。苦しくない。溺れていない。声が出る。目も開けられる。
この首飾りを借りられたら、もしかしたら主様とだって話ができるかもしれない。そしたら睡蓮宮を開いてもらうことをお願いできるかもしれない。
シャイロックの話が済んだら聞いてみよう。この首飾りを譲ってくれないか、と。
引っ張られ湖に沈みながら、フランフィールはじっと考えた。