プロローグ【日常】
本日の業務終了。
職員室で同僚に挨拶をして廊下に出た。
新学期が始まって一週間。入学式や始業式も終わり、慌ただしい日々は日常へと移り変わる。
向かうは俺にとってのアルカディア。面倒事も同居しているが細かい事は良い。
総人口約三万人にも及ぶ巨大な学園特区。
その中で普通科の生徒が通う白鳶中央学園。
学園特区の中心を示す巨大な時計塔を目印に位置するその学園で、俺は教師として働いている。
夕日で赤く染まった廊下を歩く。
すれ違う生徒たちと別れの挨拶を済ませながら、渡り廊下を過ぎ、古びた旧校舎へ。
いまや部室棟と呼ばれるようになった古びた校舎を歩く。
その二階の一番端に、俺が心休められる休息場ともいえる場所がある。
文芸部室。
入部希望者がいなくなり早数年。誰も来なくなったその場所は、去年まで俺の聖域だった。
授業の合間や昼休憩時に立ち寄って休めるオアシス。
校内で気を抜ける安息の地。
だったというのに。
ガラッと建付けの悪くなった扉を滑らせ部室に入る。
「お疲れっす」
夕日に照らされる室内で、ソファーに横になりながら本を読む女生徒が一人。
ブレザー制服の上着と学生鞄をローテーブルの上に放り出し、足をパタパタと揺らしている。
俺の平穏を壊した張本人、藤咲理心。
「お疲れさん。目悪くするぞ」
後ろ手に扉を閉めて電気を付けた。
部屋の奥の事務机に歩いていき腰掛けた。椅子が沈み、古いスチール材が軋む。
「どもっす。すっかり読み耽っちゃいましたね」
本から顔を上げずに、続きを黙々と読み進める理心。
真っ直ぐ切り揃えられた前髪。
肩口まで伸びた黒髪が垂れさがる。
気怠そうな瞳はゆっくり静かに文字を追う動きをしている。
理心が好むのは本格ミステリ系の小説だ。読んでる位置から察するに佳境に入って探偵が推理を披露する解決パートかもしれない。
邪魔しちゃ悪いな、ミステリ小説の醍醐味だろう。俺は事務机の横にある小型の冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してプルタブを開けた。小気味良い音を発して弾ける炭酸。
「…………」
理心は何も言わない。もう慣れた光景だからな。
校内で飲酒する教師に慣れた生徒ってのも、どうなのって感じだが。
缶ビールを呷って喉を潤す。ごくごくと喉ごしを楽しみながら一気に流し込んだ。
「……ぷはぁ」
はあ、癒される。労働の後はこれだよこれ。
机の引き出しから乾燥するめを取り出して封を切った。一気に部屋中にイカの匂いが充満する。
「……くっさ」
理心が本を読む顔を上げて顔をしかめた。猫のフレーメン反応みたいな顔をしている。
「すまん、俺もこんなに臭いとは思わなかった」
そう言いながらもするめの足を一本千切って噛む。嚙めば嚙むほど旨味がじんわりと滲み出てくる。
「…………」
「…………」
一生懸命するめを噛む教師と、静かに読書に耽る女生徒がそこにいた。
するめを飲み込んで残った酒を飲み干し、新しく冷蔵庫から取り出した。
また静かな部室に音が響く。
二本目からはゆっくり楽しもう。
スーツの胸ポケットからスマホを取り出してニュースを確認する。
天下五剣立川熾織、華道の歴史を語る――。
見出しに興味を惹かれてページを開く。華を活けてる女性の写真が表示された。相変わらず美人だな、立川熾織。ファンです。
雅な雰囲気と和服が映える綺麗な姿勢。日本男児としては憧れるだろ、こんな美人。
きっとすごい清楚でおしとやかな人物なのだろう。俺の知ってる天下五剣とは真逆の印象の人物に違いない。
名残惜しさを感じつつ次のニュースへ進む。
天下五剣柳生冬――
名前を追い切る前に次のニュースに飛ばす。
お前の事なんかどうでもいいんじゃ。
「ん――終わったぁ」
政治やら武刃やらのニュースに混じった飲食店のキャンペーン情報などを斜め読みしていると、理心が呻きながら背筋を伸ばした。
読み終わったらしい。疲れを滲ませているが、顔は満足気だった。
「面白かったか」
「久々の当たりでしたね。さすが大御所作家っす」
作家を褒めつつ、鞄からペットボトルのお茶を取り出して飲み始めた。
「食うか?」
俺はするめを差し出した。
理心は飲みながら「ええ?」みたいな反応を示した。
「お茶とするめいかって合うんすか?」
「知らねえ」
つまみとしてしか食ったことねえもん。
「じゃあ――一本貰うっす」
理心は立ち上がって俺の机まで寄ってくると、小さめの足を取って口に入れた。俺も一本取り出して噛み始める。
口の中でもそもそもにゅもにゅとするめを噛む音だけが鳴る。
「……」
「……」
お互いに一生懸命するめを噛む。
ごくん、と同時に飲み込んで俺はビールを、理心はお茶を流し込む。
「「ぷはっ」」
ビールとするめいか、合わないはずがない。一方理心は――
「……微妙っすね」
「そりゃ残念だったな」
「でもするめは美味しいっす」
もう一本、と手を伸ばす理心にするめを差し出す。今度はそこそこ大きな塊をごっそり持っていく。
「たまに食うと美味いよな。――こんなのもあるぞ」
引き出しを開けて次はチーカマを取り出した。
あむあむとするめを噛みながら理心が手を伸ばす。その手のひらにチーカマを三本置いてやる。
「ふぉふぉっふ」
謎の言語を発して理心はソファーに戻った。
理心は口にするめを頬張りながら指先でチーカマを開けようと四苦八苦している。
わかるわかる、チーカマって無駄に開けにくいよな。上等なやつはその辺工夫されているが、俺が買いおいていたのは昔ながらの切り口が微妙に切りにくいやつ。安いからちょうどいいんだ。
苦戦する理心の様子を眺めながらビールを一口飲んだ。
「あむあむあむ……あむっ」
両先端が潰れてどうしようもなくなったチーカマをぽいっと放った。
顔だけをこっちに向けて何か言いたげにするめを咀嚼し続ける。
なんだよ、その不貞腐れたチワワみたいな表情は。
「これ使え」
机上に出しっぱなしになっていた五徳ナイフを折りたたんで理心に投げ渡した。
パスっとソファーに着地したそれを使い、チーカマの外装に切れ込みを入れた。
無事に取り出せたそれをぷるぷると揺らして満喫していた。
「あむあむ」
「いつまで噛んでんだよ」
「あむあむあむあむむ」
不思議なことに、大きすぎたっすと言ってるのが伝わった。
確かにさっきの塊はそれなりにでかかった。理心の小さい口じゃ噛み切るのは大変なのかもしれない。
「あむ……ごくん。――口の中がイカ臭いっす」
「そりゃ……イカ食ってんだから当たり前だろ」
あとその言い方はなんかわからんけどやめて欲しい。
自分のきわどい発言を知ってか知らずか、理心は手に持ったままだったチーカマを一口齧った。
「あむあむ。味わかんにゃいっす」
長時間のするめとの攻防で味覚が麻痺したらしい。
理心は口直しの為にお茶を飲んで一服入れた。
「欲張って頬張るからだろ」
「大きいのが取れちゃったんだからしょうがないっす――ん、手までイカ臭いっす」
顔をしかめながら自分の鞄を漁ってウェットティッシュを取り出して指を拭いた。
さすが女子、俺はそんなもん持ち歩いたことないぞ。
にしてもするめ美味いな。手が止まらん。調子に乗って食うと次の日顎が筋肉痛になるんだよなあ。これでやめよう。
最後のつもりでするめを取って口に含んで噛む噛む。
「あむあむあむあ――あぐぅ!?」
理心の真似をしながら咀嚼していたら口の中を思いっきり噛んだ。
…………あ、だんだん血の味がしてきた。
「どうしたんすか?」
再び口を噛むリスクに怯えながらゆ~っくり咀嚼を続ける俺を理心が怪訝な顔で見てくる。
「口の中、噛んだ。痛い」
「どんまいっす」
興味なさそうに二本目のチーカマを開ける理心。ナイフのおかげで今度はスムーズに実を取り出していた。
「あー痛ぇ。これがあるからするめは危険なんだよ」
なんとかするめを飲み込んで、ビールで血を洗うように流し込む。
あとで腫れて、忘れた頃にまた何かを食べた時に噛むっていうループ性を孕んだ面倒な怪我なんだ口の中ってのは。
「欲張って頬張るからっすよ」
俺が理心に言ったことをそのまま返された。こいつめ……。
「先生、そろそろ帰ってもいいっすか?」
スマホの時計を確認しながら理心が口を開いた。三本目のチーカマはいつの間にやら食い終わっていたらしい。
俺も自分のスマホで時刻を確認する。午後7時を回っていた。
今日も今日とて、なんだかんだと時間が過ぎていた。
「わかった。忘れものすんなよ」
二人で立ち上がって帰る準備をする。
俺は机の上を整理し、食べかけのするめと缶ビール二本を、常備しているビニール袋に放り込んだ。
理心もきっちり上着を羽織り、本とお茶を鞄に押し込んだ。
「んじゃ行くか」
「うっす」
仕事を終えて部室に行き、部室で理心と過ごし、理心を女子寮まで送っていく。
一年前から続くこの日常は、こうして淡々と過ぎていく。
「いつも悪いっすね」
「生徒がかしこまるな。問題ねえよ。――忘れもんねえよな?」
「私は大丈夫っす」
「じゃあ電気消すぞ」
パチッと部屋の照明が落ちて、暗闇の帳が部室に下りる。
俺と理心は廊下に出て、自動照明が照らす通路を歩いた。
藤咲理心。初めて会った時は明智理心と偽名を名乗っていた女生徒。
色々と面倒を抱えるこの生徒を守る。そう決めたのは、去年の秋口だったかな――。




