2-2. 二秒
「本来なら、異世界人と私は直接関わることはないのだけれど……」
そう前置きして話し出した女神によれば、元々この世界への地球人の召喚は、三柱の神様間で取り決められたことだった。
爆発的な過剰エネルギーを持った異空を管理する神は、ダンジョンをつなげることにより、この世界にエネルギーを放出した。
ダンジョンによる世界崩壊を止めるために異世界人の力を女神は必要とした。
拡大し続ける宇宙空間を安定させるため、地球がある世界の神は異空の神の力を頼った。
三柱の需要と供給が一致し、はるか昔から地球人はこの世界に異世界人として送り込まれてきたと言う。
異世界人をここに召喚する際の決まりは、たった四つ。
一つ、
人口密度が一定数以上ある地域から喚ぶこと
一つ、
一回の召喚は最大十人を超えないこと
一つ、
召喚はこの世界にダンジョンによる危機が迫った時にのみ行うこと
一つ、
召喚対象者は、召喚先の成人年齢に達していること
「え?」
「ど……どういうこと?」
最後の決まりが告げられた時、ハルとイーズはそれぞれ戸惑いの声をあげる。
女神はハルを見たあと、今度は顔をイーズに向け、ゆっくりと口を開く。
「市川和泉さん。
あなたは本来であれば、召喚されるはずではありませんでした」
数秒、イーズは呆然とただただ女神を見つめた。
こちらを見つめ返す女神の目は驚くほどに無感情で、先ほどの言葉に謝罪の意思は含まれていなかったと気づく。
「で、では、なぜ。なぜここに……」
「それは、高田遥さん。あなたにも関係があります」
「お、俺?」
「――本来の世界線では、あなた方は同時にエレベーターに乗るはずではありませんでした。
本来であれば、高田遥さんがエレベーターに乗って――他の四名と一緒に召喚されて――市川和泉さんは、あのエレベーターには乗らないはずでした」
「で、ではなんで!」
「神の意志でしょうか」
「え?」
「あなた方の世界の神の意志によるものです」
どういうことか理解できない。
イーズが、和泉があのエレベーターに乗ることを、地球がある世界の神が決めた?
呆然と女神を見つめる視界の端、ハルが心配そうにこちらを見ているが、そちらを気にする余裕はない。
女神は、いつの間にかテーブルに置かれた紅茶カップから一口飲むと、優雅な仕草でそれをソーサーに戻す。
「市川和泉さん、あなたはエレベーターに乗らず、階段を使うはずでした。実際、あの時はあそこを去ろうとしていた。
高田遥さん、あなたは市川和泉さんがあの場を去った後に、高校生たちに声をかけるはずでした」
「……俺があの場に着くタイミングが早まった?」
「そうです」
イーズが召喚されたのは、ハルの行動が予定とは異なったから? でも、なぜ?
「――俺が、あの場に早く着く必要があった?」
少しの間の後、硬く緊張をはらんだ声でハルがつぶやく。
何かを知っている?
いや、何かに気づいた?
動きの悪い脳と首を何とか左に回し、ハルの張り詰めた横顔を見つめる。
「その通りです」
「それは、イーズに、階段を使わせないため?」
「その通りです。あの階段を使えば――」
「もういい! もう……いいです。分かりました」
ハルは女神の言葉を遮って怒鳴り、顔を下に向けて首を何度も左右に振る。
「ハル? 何が、もういいの? 何が、分かったの? ねぇ、ハル?」
イーズはまだ何も理解できていない。
膝の上で硬く握り締められたハルの拳に手を伸ばし、彼を揺さぶる。
「ねぇ、階段が、どうしたの? あの階段を使ったらどうなるの? ね、答えて? 答えてよ、神様!!」
「イーズ、よせ!」
「市川和泉さん、あなたはあの階段で、最上段から足を踏み外し、命を落とす予定でした」
ハルの悲痛な制止の叫びと共に、無慈悲な女神の言葉が、イーズの耳に届いた。
女神の言葉の後、自分の右腕に添えられたままピクリとも動かなくなったイーズの手を取り、ハルはふんわりと上から包み込むように自分の手を重ねた。
未だ呆然とするイーズを数秒見つめた後、女神の方へ向き直り、激昂の去った静かな声で女神に尋ねる。
「いくつか、聞いても?」
「いいわよ。そのために呼んだんだもの」
「先ほど、イーズが、市川君がこの世界に来たのはあちらの神の意志と。なぜかの神が市川君を助けたんですか?」
「助けたかったのは、市川和泉さんだけではありません」
「それは、俺も……?」
「そうです」
ハルも、あちらの神に助けられた?
気になるフレーズが耳に届き、イーズは下に向けていた顔を上げる。
女神はハルではない、どこか遠くを見つめる眼をしていた。
「私たちは――あちらの神は、召喚される方々を見守っていて気づいたのです。
ほんの少しの、たった二秒にも満たないすれ違いでこぼれ落ちてしまうカケラがある。
その二秒がなければ、市川和泉さんは階段を使わず、命を落とさずに済む。
そしてその二秒で、高田遥さんと一緒にエレベーターに乗れば、この世界に来ることができる。
逆に、高田遥さんがもし一人で、いえ、違いますね。あの四人だけと共にこの世界に来ていた場合、高田遥さんはあの召喚の場から逃げることはできない。
すでにある他の四人の絆、年齢の差、持っているスキルの差。
高田遥さんには、この世界で冷遇される未来が待っていました」
無感情な声で続く女神の説明に、今度はイーズがハルの手をぎゅっと強く握る。
確かに、あの召喚の場からは、イーズの隠密スキル無しでは逃げられなかった。そしてハルには戦闘系のスキルがない。つまり、ダンジョン氾濫を抑える即戦力とはならず、力のない異世界人として使い捨てられていただろう。
「市川和泉さんが開花させる可能性のスキル、高田遥さんのスキルとの相性。
二人の……命の行方。
あの世界の神は、二秒をゼロにすることを決めたのです」
イーズは、この地に召喚されなければ、命がなかった。
ハルは、イーズがいなければ、この地で生きていかれなかった。
神々が見た、たった二秒のすれ違いが招く、二人の命の残酷な結末。
「――俺たちの体は“地球産”と言っていましたね。そうすると俺を若返らせたのはあちらの神?」
「体を若返らせたのはあちらですが、そう私がお願いしました」
「理由は?」
「交換条件でした。本来であれば召喚されない市川和泉さんを受け入れることの引き換えに、高田遥さんの体を十四歳に戻して送ってもらいました。
理由は――神としての制約のためです」
女神の話によれば、神々はそれぞれの世界の住人との関わり方に関して、己に一定の制約を課す。
例えば、ある世界では生まれた時にのみスキルを与え、ある世界では生涯を通して様々な試練を課し、ある世界では神の声を他の幻想生物を通して届ける。
この世界の女神は、「干渉ができるのは成人の儀前の子供のみ」という縛りがあった。
二柱の神により運命が変えられた二人に接触するには、どちらも成人前の年齢でなければならなかった。
「市川和泉さんの成人は、召喚から十月以上先で、事情を伝えるには間が空き過ぎていましたし、成人の儀を受けに来てくださるかも分かりませんでした。
高田遥さんを十四歳まで若返らせれば、その理由を探り、成人の儀に気づく、そして教会に来るはずと思いました。
実際にあなた方はそのように考え行動し、ここでこうやって話をすることができました。
あとは……そうですね、十四歳の子と行動するには前の年齢より、今の年齢の方が楽でしょう?」
女神は、これまでの無表情を崩してふふっと楽しそうに笑った。
「えっと、そうですね。
三十オーバーで十四歳と行動したらどうしても、“俺が引っ張っていかなきゃ”とか、“守ってあげなくては”って気持ちが強かったと思います。
もちろん、今も、イーズの倍以上の年齢生きた経験がある人間として、それなりに守ってやらなきゃって思うんですけど……なんて言うのかな、うん。
若返ったおかげで、距離が近くなったというか、肩の力を抜いて異世界を楽しめるというか……だから、」
そう言って、ハルは椅子から立ち上がって女神をまっすぐ見つめ、
「若返らせてくれて、ありがとうございます」
ゆっくりと、深く頭を下げた。
「あ!」
イーズも慌てて立ち上がって横に並び、ガバリと頭を下げる。
「命を救ってくれて、ありがとうございました! それから、この世界に喚んでくれて、ありがとうございます!」
「ふふっ、市川和泉さんの命を救ったのはあちらの神よ。でも感謝の気持ちは嬉しいわ。
さ、難しい話はここまでにしましょう。
他にも話したいことは沢山あるの。
その前に。二人とも座って、美味しいお茶でも飲みなさいな」
パチンと両手を合わせて微笑んだあと、二人の前に温かな湯気を立てた茶器が二脚並ぶ。
ふんわりと香る紅茶の匂いに体の力が抜け、二人はそれぞれの椅子にドサリと腰を下ろした。
「んー、それにしても俺に、“ダメスキルを持った巻き込まれ召喚おっさん”になる危機があったとはな。
こりゃ、イーズにも感謝だな。
ありがと、イーズ」
「そんな! こちらこそ、あのエレベーター前で、高校生に声をかけてくれてありがとうございました!
本当にあの瞬間、階段の方に戻ろうとしていたのでっ、なのでっ」
紅茶を飲みつつ、こちらに向かって軽く頭を下げるハルに、イーズは体の前で両手をブンブンしながら、自分からも感謝を伝える。
話しているうちに、もしかしたら死んでいたかもしれないという実感がじわじわと湧いてくる。
あの時、あの階段の上に立った時に一瞬感じた恐怖が、忘れかけていた感情が込み上げてくる。
「あ……」
ポロリと、イーズの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
一滴、また一滴。
召喚されてから、毎日が楽しかった。
――でも、
怪我が治って嬉しかった。
――心の奥底で、
スキルを使えて嬉しかった。
――常にそこには、
でも死んでいたかもしれないと知って――
――恐怖があった。
「ふっ、うっ、うううう」
「――我慢、すんな」
下を向いた頭の上にポンっと重みが乗り、反動でポタポタと膝に水滴が落ちる。
「我慢、しなくていいから」
ワシワシと乱暴な仕草で、でもどこかしら温かみがある仕草でハルはイーズの髪を撫でる。
でも、そんなハルの声も泣き出しそうに震えていて。
「ハルも」
「ん?」
「ハルもだよ」
「ん」
ふひゃっと変な音を漏らして、ハルが泣く。
――変なの。
――でも、安心。
イーズは、細い腕をいっぱいに伸ばす。
ハルは、手を少し下ろしてイーズの頭を抱き抱える。
トン、とイーズの頭がハルの鎖骨に当たる。
コン、とハルの額がイーズの頭に当たる。
フルフルと震える体も、
サラサラと流れる涙も、
一緒だから。
だから、
もう一度、
市川和泉はイーズとして、
高田遥はハルとして、
ここで、この世界で、新しい一歩を踏み出そう。





