後篇
すごく強い力はとても怖いものに満ちていました。これが神というものなんでしょうか。ともすれば怯えて逃げ出しそうな足を叱咤しながら走ります。
こわい力にあと山ひとつ分くらい近づいてきたとき、そんな雪ん子にむかって鋭い声がひとつかけられました。
「止まれ」
次いで何かが雪ん子の右足に絡みつきました。それはぐるぐると生き物のように右足に絡みついてきたので、雪ん子は勢い余ってその場に転んでしまいました。
「痛い!」
「ここから先に通すことはできない」
低い冷えた声がどこからか聞こえてきます。姿は見えませんでしたが、足に絡みついている長い鎖は左手に森の方から伸びておりました。
「どうして。ねえ、あのね、あたしヤマガミさまに用事があるんだけど」
「……ここにヤマガミなんていない。いるのは禍々しくも凶悪な蛇の神だけだ」
雪ん子は目を瞠りました。
「蛇の神? ヤマガミではないの? ねえ、それって女の人?」
「違う」
雪ん子はその答えを聞いて肩を落としました。ヤマガミとは女の人であるはずです。ということは、ここにいる「こわいもの」はやはりヤマガミではないのでしょう。
無駄な時間を過ごしてしまったことに気づいた雪ん子はなんだか泣きたくなってしまいました。火塵はどうしているのでしょうか。怖いけれどあのとき、傍に居たほうがよかったのでしょうか。
「泣きべそかいてるぞ。おい、大丈夫か」
そのとき右手の森の方から声が聞えてきました。すると左手のほうから再度冷たい声が飛んできます。
「かまうな赤坊、そいつは雪女だ。雪女の情は根雪より深い。絡みついたら離れない。生きているものはできるだけ関わらない方がいい」
雪女。
そう言われて、はじめて雪ん子は自身が「雪女」になっているのに気が付きました。手足は先ほどよりももっと伸び、白い着物に包まれた胸元は大きく膨らみ、つややかな黒髪は膝の裏あたりまで美しく伸びておりました。
――……火塵。
それを自覚した瞬間、雪女の脳裏にあるのはあの片足片目の男の姿だけでした。ほんの片時であっても、一度うつした情は深く深く雪ん子の心に根付き、そうしてそれは雪ん子を雪女へと成長させてしまうほど強いものであったのです。
雪女は天を仰いで妖艶に笑いました。
火塵、火塵。
ああ、今ならまだ、間に合うかもしれない。
雪ん子の頃では纏えなかったような強い吹雪をまとい、瞬く間に火塵の元に戻ってきた雪女は、そこで今にも命のともしびが消えてしまいそうな男の姿を目にしました。
ヤマガミの姿はどこにも見えませんでした。
ヤマガミの贄とされた男は、ただ、飢えと冷気によって今にも死に絶えようとしていたのでした。
「火塵」
頬に手を添えて甘く名を呼ぶと、わずかに、ほんのわずかに男のまぶたが動きました。灰色ににごった左目が雪女の姿を捕らえます。
「よかったあ、生きてた」
雪女は純粋に微笑みました。
「間に合った」
死んでしまう前なら、魂が黄泉へ向かう前なら、雪女はその身体を魂ごと凍りつかせて永遠に自分の側に置いておけるのです。土へも還さず、天へも還さず。それはこの地に生きる生き物にとってなによりもの冒涜でした。
けれども雪女はそれを望んでしまうのでした。根雪のように深い情。それはさきほどの声が言ったように、関わらない方がよいほど深く昏いものなのでした。
雪女は男の唇に自らのそれを重ねようとしました。
しかしその瞬間、その男の唇がちいさくちいさく、動きました。
――またな、と。
ひたり。
雪女の唇は、それを聞いて一瞬だけ止まってしまいました。止まってしまったのでした。
「え……?」
その瞬間、ほんの瞬きほどの間。
呆然とする雪女の目の先で、男の命の火が消え失せました。
一度失ってしまった命はどうあっても取り戻せるものではありません。
雪女の接吻も、ただただその身体を凍りつかせるだけでもう何も捕らえることなどできないのでした。
だから雪女は、縄から解き放った男の亡骸を膝の上に抱いて、ひたすら氷の涙を流しておりました。ころりころりと零れるそれは、冷たい男の身体の上を転がって行きました。
情の深い雪女というあやかしの末路をご存知でしょうか。
雪女は根雪のような深い情を持つあやかしです。一度情をうつした相手がいるかぎり、その雪女はその相手を失ってはもう生きてはいけないのです。
ぽろりぽろりと泣くたびに、雪女の足の端から指の先から凍りつき、やがてはひとつの氷雪の一片となって消えてしまうのです。
この話を知っているものは多くはありませんが、少なくもありませんでした。
だからもしかしたら、火塵という男もそのことを知っていたのかもしれません。だからもしかしたら、残された雪ん子のことを憐れんでくれていたのかもしれません。
あやかしというのもが何故生まれるのか、それを知っているものは誰もおりません。
たとえばそれは、どこからでも生まれ出でるものです。水からでも、木からでも、雪のひとひらからでも。そしてそれは、生き物からでも。
けれどもどうして生まれるのか。その答えを持ち合わせているものなんてどこにもいないのです。
ひとが、自身がどうして生まれるのかを知らないように。
あるところに、長く艶やかな髪をもつ美しい雪女がいました。
そうして、その雪女はいつもひとつのあやかしに寄り添っておりました。
一つ目に一つ足の、それはそれは醜い姿をしたあやかしで、その姿を見た人間は恐怖のあまり心の臓を停めて死んでしまうとのことでした。
かつて山の神の生贄であったタタラ師であった男があやかしになったとも、その亡骸から生まれたとも言われているそれは、その生まれの所以ゆえ人々から「一本だたら」と呼ばれておりました。
冬の山には雪女と一本だたらが居る。
ですから人は、冬の山には安易に入ってはいけないとされているのです。