奈落へ送ってください
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それでは、どうぞお楽しみください。
日が沈むまで、鐘は鳴らなかった。
黒い鉄門の内側にある詰所で、俺は椅子へ縛られていた。窓は山側に1つだけあり、その向こうに雨で濡れた岩道が続いている。道の先は霧に隠れ、黒淵までは見えなかった。
南の採石場から、戦いの音だけが届いていた。固定式弩砲が放たれるたび、遅れて地面が震える。魔術師の攻撃なのか、雲の下が一瞬だけ赤く染まることもあった。そのたびに兵士が窓へ寄り、旗の色を確かめていた。
「第二杭列へ入ったらしい」
「外殻の傷へ2本刺さった」
「金位の魔術師が着いた。夜まで持たせれば勝てる」
俺の前では話さないよう命じられていたはずだが、戦況が動くたびに忘れるらしい。生贄で災厄を止める者たちが、軍の勝利を待っていた。
手首の布は赤黒く濡れていた。額の傷は血が止まったが、瓦を受けた背中は息を深く吸うと痛む。空腹で身体に力が入らず、椅子の脚が少し傾くだけでも視界が揺れた。
それでも、意識ははっきりしていた。
扉の外で、複数の足音が止まった。入ってきたのは、ヴァルター・ゲルン、司祭エイベル・ローデン、イレーネ・ヴァイスの3人だった。兵士たちが一斉に姿勢を正す。
イレーネは白い法衣を脱ぎ、下に着ていた軽い鎧を見せていた。腰には白銀の細剣と、巻かれた白い鎖がある。黒い手袋に持っているのは銀の数珠ではなかった。白布に包まれた、小さな鏡だった。
「全員、外へ」
ヴァルターが命じた。兵士が迷う。
「囚人の監視は」
「私がいる」
代官の言葉で、兵士たちは詰所を出た。
扉が閉まってから、イレーネが卓上へ白布を置く。包みを開くと、黒い系譜鏡が現れた。
2日前、俺の血を落とした鏡だ。亀裂は消えていたが、鏡面は以前より深い黒に見えた。
「報告を」
ヴァルターが言った。
「対象、レイ・クロウ」
イレーネの声は静かだった。
「系譜鏡による照合の結果、保管血との極めて強い一致を確認しました。直系に近い反応です」
エイベルが俺を見た。
「保管血とは、誰のものです」
「あなたが知る必要はありません」
「しかし、レイの血筋を理由に儀式を行うのであれば――」
「儀式は血筋を理由に行うものではありません。表向きは」
最後の言葉だけが、部屋の空気を変えた。エイベルの顔から血の気が引く。
「表向き?」
「聞かなかったことにしてください」
「できません」
「できます。あなたは3日間、そうしてきました」
エイベルの指が胸元の聖印を探した。行列の雨で濡れたままなのか、袖が震えている。
「私は、古い教えに従って……都市を救うために」
「あなたの信仰について判断する立場にはありません」
イレーネは鏡を包み直した。
「私の役目は、対象を確認し、処分を完了させることです」
「処分」
俺が言うと、3人の視線が集まった。
「浄化でも、生贄でもなくなったな」
イレーネは否定しなかった。ヴァルターが卓へ片手を置く。
「確認が済んだなら、予定通り進める。魔物は第二杭列で止まっている。軍が外殻を破るまで、あと半刻もかからない」
「魔物の討伐と投下は無関係です」
「分かっている」
エイベルが顔を上げた。
「分かっている?」
ヴァルターは司祭を見た。
「生贄で砕城犀が倒せるとは思っていない。だが、市民は信じている。魔物を軍が倒し、同時に空の器を落とせば、明日の朝には混乱が収まる」
「では、最初から」
「都市を守るには、魔物を倒すだけでは足りない。恐怖の行き先も必要だ」
エイベルは何かを言おうとした。声にはならなかった。
「今さら驚くな」
俺が言うと、司祭の目がこちらへ向いた。
「広場で俺を選んだときから、同じだ」
「私は……」
「薬をくれたことは覚えてる。文字を教えるのを許したことも」
エイベルの唇が震えた。
「だから、何をしても善人のままだと思うな」
部屋の外で角笛が鳴った。短く2度。間を置いて、長く1度。
窓際の兵士がいないため、誰も旗を確かめなかった。ヴァルターだけが意味を知っていた。
「外殻が破れた」
「そうか」
「今夜、砕城犀は死ぬ」
「俺もだろ」
「そうだ」
即答だった。
イレーネが鏡の包みを鞄へ収める。銀の数珠を取り出し、1つ目の玉へ指をかけた。
「対象の系譜を確認しました」
黒い手袋の指が止まる。
「――奈落へ送ってください」
ヴァルターが扉を開けた。外で待っていた兵士たちが入ってくる。
椅子の縄が切られ、代わりに両手を太い鎖でつながれた。7本の細縄は外されたが、足首にも短い鎖を巻かれる。
エイベルは動かなかった。
「司祭」
ヴァルターが呼ぶ。
「最後の祈りを読め」
「私が……読むのですか」
「3日間を始めたのはお前だ。終わらせろ」
エイベルは聖典を抱えた。指が滑り、1度床へ落とす。拾い上げても、俺とは目を合わせなかった。
詰所を出ると、雨は止んでいた。山の端に残った赤い光が、濡れた岩を照らしている。
鉄門の先の道には松明が並び、兵士が10歩ごとに立っていた。道幅は荷車1台分ほどで、左は切り立った岩壁、右は暗い谷だった。
黒淵へ近づくほど、風が冷たくなった。土や雨の臭いに混じり、焦げた脂のような臭いが下から上がってくる。
鳥の声はなく、虫も鳴いていない。兵士たちは誰も話さず、足元の鎖と鎧だけが音を立てた。
途中で、背後から叫び声が聞こえた。
「待って!」
足が止まりかけた。止まる前に、前の兵士が鎖を引いた。
「歩け」
「レイ!」
ミアの声だった。
振り返ると、鉄門の方から2人の兵士に腕をつかまれたミアが走ってきていた。淡い金髪は乱れ、頬には昨日の煤がまだ少し残っている。首の銀の鈴には、もう布が巻かれていなかった。
「離して!」
「行列へ近づくな!」
「返して! レイを返して!」
兵士がミアを道の端へ押し戻す。俺は鎖を引いた。前後の兵士が同時に構え、槍を向ける。
「ミアに触るな」
「進め、囚人」
「先に手を離せ」
「命令できる立場か」
兵士がミアの腕をひねった。小さく息を呑む音が聞こえた。
次の瞬間、俺は鎖を持つ兵士へ踏み込んでいた。足首の鎖が張り、転びかける。それでも肩からぶつかると、兵士の身体が岩壁へ当たった。
槍の穂先が首へ向けられる。
「止めてください」
イレーネの声が飛んだ。兵士たちの動きが止まる。
彼女は俺とミアを見てから、数珠を1つ送った。
「1分だけ認めます」
「巡察官殿」
「対象を抵抗させず運ぶ方が早いでしょう」
ミアの腕が放された。
走ってきた身体を受け止めようとして、両手が鎖につながれていることを思い出した。代わりに肩を向ける。ミアは胸へぶつかり、白い衣を両手でつかんだ。
「逃げよう」
最初の言葉がそれだった。
「もう遅い」
「遅くない。鎖なら、鍵を――」
「ここには兵士がいる」
「崖を下りる道を探す。私も行く」
「駄目だ」
「また勝手に決めるの?」
「そうだ」
ミアが俺を睨んだ。灰青色の目に涙がたまっている。それでも、まだ落ちなかった。
「3日で帰るって言った」
「覚えてる」
「待ってろって言った」
「覚えてる」
「じゃあ帰ってきて」
答えようとして、声が出なかった。
兵士の1人が時間を気にしてイレーネを見る。彼女は何も言わず、数珠へ触れていた。
ミアは腰の布袋から、小さな帳面を取り出した。掌より少し大きい。厚い灰色の紙を糸で綴じ、表紙に黒い布を貼っただけのものだった。端は不揃いで、急いで作ったことが分かる。
「持ってて」
「何だ」
「記録帳」
「見れば分かる」
「分からないって言うと思ったから、言ったの」
いつもの言い方だった。
ミアは帳面を開いた。最初の頁に、濃い筆跡で文字が並んでいる。
『あなたの名前はレイ・クロウ。』
その下に、少し小さな字が続いていた。
『18歳。灰鐘村の生き残り。』
『黒鐘養護院で、ミア・ベルと暮らしていた。』
『3日で帰ると約束した。』
「何でこんなものを」
「レイは、昔のことを覚えてないでしょう」
「それは7歳より前だけだ」
「黒淵で頭を打つかもしれない」
「死ぬとは思わないのか」
「思わない」
ミアは言い切った。
「死んだと思ってないから、待つ。帰ってきたとき、何か忘れてても困らないように書いた」
「字は読める」
「私が教えたからね」
帳面の後ろには、まだ白い頁が何十枚も残っていた。
「帰ってきたら続きを書く。レイがどこにいたか、何を見たか、全部」
俺は鎖につながれた両手を上げた。
「持てない」
「持てる」
ミアは俺の白い衣の襟を開き、帳面を胸元へ差し入れた。落ちないよう、腰の帯をきつく結び直す。帳面の角が胸骨へ当たった。
「痛い」
「生きてる証拠」
「乱暴だな」
「誰のせいだと思ってるの」
返す言葉はなかった。
イレーネが口を開く。
「時間です」
ミアが俺の衣を強く握った。兵士が近づく。
「ミア」
「嫌」
「手を離せ」
「嫌」
「養護院へ戻れ」
「嫌!」
声が山道へ響いた。
「戻って、俺を待て」
ミアの唇が震えた。
「それしか頼めない」
俺が言うと、握っていた指から少しずつ力が抜けた。兵士に引き離される直前、ミアが俺の胸へ額を押しつける。
「絶対、帰ってきて」
「分かった」
「今度は嘘じゃない?」
「帰る方法を探す」
約束できるのは、それだけだった。
ミアは兵士に両腕をつかまれた。俺は前を向く。
「レイ」
歩き出す。
「レイ!」
鎖が鳴る。
「お兄ちゃん!」
足が止まった。振り返れば、戻れなくなる気がした。それでも振り返った。
ミアは泣いていた。広場でも、兵士に止められたときも流さなかった涙が、頬を伝っていた。
俺はつながれた手を少し上げた。
「待ってろ」
それだけを言い、再び歩いた。
山道の終わりに、黒淵はあった。
巨大な裂け目だった。向こう側は松明の光が届かず、左右の端も霧に消えている。底から風が吹き上がるたび、焦げた臭いと、何かが擦れる低い音がした。
崖の先には、古い石の足場が突き出していた。足場の中央に鉄輪があり、そこから太い鎖が裂け目の中へ垂れている。何人もの兵士が同じ場所へ立ったのか、石の表面には靴の跡と黒い染みが重なっていた。
俺は足場の先へ連れていかれた。下を見ても、何も見えない。闇だけがあった。
エイベルが聖典を開く。
「七柱の御名において、地上の災いを空の器へ負わせ――」
声が震えていた。
「器を奈落へ返し、我らに安寧を――」
頁をめくる指が止まる。
「続けろ」
ヴァルターが言った。
エイベルは俺を見た。初めて、正面から目が合った。
「レイ」
「読むなら読め」
「私は、あなたを救いたかった」
「救ってない」
エイベルの顔が歪んだ。
「お前がしたことを、俺に軽くさせるな」
聖典が閉じられた。エイベルは続きを読めなかった。
ヴァルターが足場の横にある鉄のレバーへ手をかける。俺の足元には、四角い石板の継ぎ目があった。レバーを引けば板が開く仕組みらしい。
「最後に言い残すことは」
「ミアに手を出すな」
「それだけか」
「俺が戻ったとき、困るだろ」
ヴァルターは何も答えなかった。
南の空が白く光った。遅れて、今までで最も大きな咆哮が届く。山道の松明が揺れ、足元の小石が黒淵へ落ちていく。
角笛が鳴った。長く1度。続けて、短く7度。
兵士たちの間に、安堵が広がった。
「砕城犀、討伐」
ヴァルターが呟いた。
俺を落とす前に、魔物は倒れた。これで何も隠せないはずだった。それでも儀式は止まらない。兵士は配置を崩さず、エイベルは俯き、イレーネは黒い手袋で数珠を繰っている。
「災厄は終わった」
俺は言った。
「俺を落とす理由も」
「いいえ」
イレーネが答えた。
「あなたを地上へ残すことはできません」
「俺が何をした」
「まだ、何も」
「なら」
「何かをしてからでは遅いのです」
数珠の指が止まる。
「あなたを憎んではいません、レイ・クロウ」
「それで許されると思うか」
「思いません」
迷いのない返事だった。
ヴァルターがレバーを引いた。足元の石板が左右へ開いた。
身体が落ちる。
鎖が一瞬だけ宙で鳴り、すぐに上へ遠ざかった。松明の光が小さくなり、崖に立つ人影も闇へ溶けていく。
胸元の記録帳が浮き、帯に引っかかった。俺は鎖につながれた手で押さえた。
風が耳元で叫んでいる。崖の壁が見えたと思った次の瞬間には消え、上下も分からなくなった。身体が岩へ当たり、肩に激痛が走る。白い衣が裂けた。
それでも、帳面は離さなかった。
3日で帰ると言った。待ってろと言った。神に選ばれなかった俺が、誰の許しもなく帰ると決めた。
なら、落ちた程度で終われない。
闇の底から、無数の声が聞こえた。泣き声。呻き。言葉にならない囁き。そのすべてが、1つの音へ重なっていく。
――帰ってきた。
誰の声かは分からなかった。
黒い何かが、落ちる俺へ向かって口を開いた。
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