二本の鎌
ご覧いただきありがとうございます!
よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、どうぞお楽しみください。
足の裏の重さが、泥へ沈んだ。
虫の三角形の頭が、こちらへ向いた。次の瞬間、その姿が消えた。
右から風が来る。俺は反射的に採掘槌を上げた。甲高い音が弾け、鎌が槌の柄へ食い込む。木片が顔の横を飛んでいった。
速い。腕に衝撃が届いた時には、虫はもう3歩先へ着地していた。着地の音すら、ほとんどしなかった。細い脚が泥を押さえ、身体の向きだけがこちらへ戻る。
2本目が来る。俺は左前腕へ意識を集めた。皮膚が硬くなり、灰色の層が前腕を覆う。その殻で鎌を受けた。
受けたはずだった。刃は殻の表面を滑り、そのまま肘の上へ食い込んだ。
赤い線が走る。深くはない。だが、硬殻の上から切られた。蛙の舌は、この殻で止まった。同じ守りが、この鎌には半分しか役に立たない。
俺は槌を横薙ぎに振った。虫は身体を沈めるだけで避け、そのまま懐へ入ってくる。後ろへ跳んだ。胸元を鎌が掠め、服が斜めに裂ける。少し遅れて、裂け目の下に血が滲んだ。
痛みは後から来た。熱い線が胸を横切り、息を吸うたびに布が擦れる。
俺は太い根を背にした。ここなら、背後を気にせず正面だけを見ていればいい。
虫もすぐには来なかった。鎌を開き、左右へ小さく揺らしている。何を見ているのか、俺は頭から目を離さずに探った。呼吸を止めても、頭は動かない。肩を揺らしても変わらない。
足だ。最初に頭がこちらを向いたのも、俺が泥へ体重を移した時だった。泥を踏んだ時だけ、三角の頭が僅かに動く。こいつは地面の震えを拾っている。
俺は鎖の端を左へ投げた。重りが泥へ落ち、虫がそちらへ跳ぶ。
今だ。右から踏み込み、採掘槌を振り下ろした。
虫は鎖の重りへ鎌を振るう寸前で、身を捻った。槌が外殻を掠め、浅い傷が入る。
当てられる。そう思った直後、もう片方の鎌が下から跳ね上がった。採掘槌の柄が半ばまで裂け、握っていた指が弾かれる。槌が泥へ落ちた。
拾い直す暇はなかった。身体を反らしたが、鎌の先が右肩を裂く。治りかけていた傷が開き、腕から力が抜けた。
俺は左手で鎖を引いた。重りが虫の後脚へ絡む。引き倒すつもりだった。だが虫は、鎌を1度振っただけだった。
鎖の輪が断ち切られた。
手の中に残った端を握り直す。断面は斜めに光り、叩き割られたのではなく、削ぐように切られていた。鉄まで切るのか。短くなった鎖が、泥の上を滑って足元へ戻ってくる。
虫は追撃しなかった。切れた鎖へ口を寄せ、紫の茸の液が付いた輪を確かめるように触角を動かしている。毒の臭いに反応している。
右手の腫れを見た。指先には、まだ紫の液が残っている。熱を持った皮膚が、心臓の音に合わせて疼いた。
虫の頭が、俺の手へ向いた。食うために来たのか。俺ではなく、俺に付いた毒を。
どちらでも同じだった。手を狙って来れば、鎌は腕ごと落とす。
俺は近くの茸を蹴り折った。紫の液が泥へ飛び散り、虫の頭がそちらへ動く。その間に泥の中の採掘槌を掴み、反対側へ走った。3歩目で、背後の泥が弾けた。
追いつかれる。俺は太い根の隙間へ身体を滑り込ませた。幅は肩1つ分しかない。鎌が背中を追い、根の表面が斜めに削れた。もう一撃で届く。
腰の布包みを裂き、蛙の口を焼いた茸の欠片を根の外へ投げた。虫が止まる。欠片へ鎌を伸ばし、地面へ押さえつけている。
その間に、狭い隙間を這った。右肩が根へ擦れ、布の下で血が広がる。右脛を引きずるたび、白い糸が肉の中を這った。後ろでは硬い音が続いている。根を切っている。この太さでも、いつまでも保たない。
隙間の先は急な下りだった。黒い泥の溝が、さらに奥の暗がりへ続いている。縁を掴んで身体を滑らせ、数歩分落ちたところで横向きに転がった。
上から鎌が突き込まれた。先端が、頬のすぐ横の泥へ刺さる。
息を止めたまま、刃の根元を見上げた。その先で青黒い胴が根につかえ、それ以上は下りてこない。虫は鎌を引き抜き、別の角度から何度も差し込んでくる。俺は泥の斜面をさらに下がり、刃先が届かなくなったところで、ようやく息を吐いた。
勝てなかった。
力も速さも、奈落へ落ちた時とは比べものにならない。それでも、あの2本の鎌は俺より速かった。硬殻でも止め切れず、採掘槌の柄は半ばまで裂け、鎖は半分近くまで短くなった。腰に下げた毒も、もうない。
右肩を布で縛った。結び目を作ろうとすると、手が震えた。恐怖だけではない。毒と胞子が、身体の中で重なっている。強くなった熱に隠れていた痛みが、今になって戻ってきていた。
上では、茸を噛む音がしている。俺を追うのをやめ、餌へ戻ったらしい。やがて硬い足音が、根の上を遠ざかっていった。
俺は溝の泥に残った足跡を見た。大きな三つ叉の跡。その横に、同じ形の小さな跡が幾つもある。しゃがんで指でなぞると、深さは大きな跡の半分もなかった。
成体だけではない。幼い個体がいる。同じ速さではないはずだ。鎌も外殻も、あれほど完成してはいない。
「まず、小さい方だ」
勝てない相手へ、同じやり方で向かうつもりはなかった。戦える相手を狩り、動きを覚えてから、2本の鎌を折る。
裂けた柄へ布を巻き、残った鎖を二重に重ねた。強く振れば、どちらも次で壊れるだろう。右脛の包帯は黒く濡れていた。灰を押し当てた所の糸は止まっているが、その上では細い盛り上がりが膝へ向かって伸びている。長く休めば、毒が先に回る。
記録帳を開き、炭筆で書いた。
『大きな鎌虫。地面の震えを拾う。毒の茸を食べる。狭い根には胴が入らない。小さな足跡あり』
その下へ、『追う』と書き足した。
小さな足跡は、溝の底から太い根の下へ入っていた。
穴は、腰を屈めれば通れる高さだった。内側には青黒い殻の欠片と、噛み潰された紫の茸が落ちている。あの大きな身体は、ここを通らない。
入口の横へ小石を置き、鎖の端で弾いた。乾いた音が穴の奥へ転がっていく。すぐに、奥で細い脚音が止まった。
1つではない。右の壁際で2つ。さらに奥で1つ。
俺は採掘槌を地面へ置いた。裂けた柄では、狭い穴の中で振れない。代わりに入口へ布を1枚広げ、その上へ泥を薄く塗った。踏めば足が沈み、わずかでも速さが落ちる。
穴の外へ下がり、鎖で根を叩いた。1度、2度と音を送る。3度目で、青黒い影が飛び出した。
大きさは俺の膝ほどだった。三角形の頭と2本の鎌は成体と同じだが、外殻は薄い。脚も細く、着地した時に泥へ深く沈んだ。
幼体は、音を出した鎖ではなく俺へ頭を向けた。細い触角が左右へ揺れている。地面の震えだけではない。血か、紫の液の匂いも拾っている。
俺は動かず、紫の残る右手を布で隠した。幼体の頭が1度迷う。その隙に小石を左へ投げると、泥へ落ちた振動を追って幼体は横へ跳んだ。
やはり、足元の震えが先だ。
鎖を引いた。泥を塗った布が後脚へ絡み、跳び直そうとした身体が傾く。2本の鎌が布を挟んだが、1度では切れなかった。
成体より弱い。
採掘槌を拾い、左足だけで踏み込んだ。距離は2歩。頭がこちらへ戻る前に、平らな鉄頭を背へ落とす。殻が割れた。だが、幼体は止まらなかった。
身体を捻り、右の鎌を俺の足首へ振るう。鎖を放して左へ退くと、刃の先が靴の表面を裂いた。踏み込みに使えない右足を狙われた。偶然ではない。
幼体が低く身を沈め、後脚を縮めた。鎌の先までは1歩半。飛びつけば、さらに1歩伸びる。
俺は左前腕を前へ出し、殻を張った。同時に、幼体が跳んだ。
最初の鎌が左前腕へ当たり、表面を滑った。2本目は遅れて、内側から閉じてくる。俺は腕を引かず、そのまま幼体の胸へ押しつけた。2本の鎌が腕の外側で閉じ、関節までは届かない。
空いた右手で、採掘槌の尖った側を頭と胸の境目へ突き込んだ。柔らかな手応えがあった。脚が泥を掻く。俺は槌を抜かず、根へ押しつけ続けた。
殻の内側で、何かが1度潰れた。2本の鎌が開き、身体から力が抜けた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《討伐結果》
討伐対象:ヴェノムマンティス幼体 1体
討伐吸収が完了しました。
微量の力の残滓を蓄積しました。
能力値の変化はありません。
魂の形成が未熟です。
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ヴェノムマンティス。あの大きな個体と、この幼体の名だった。
強くはならない。それでも、初めてあの鎌の形をした相手を倒した。
硬殻を解くと、殻の跡に白い傷が2本残っていた。幼体の鎌でも、同じ場所を何度も受ければ割られる。
穴の奥に残っていた2つの脚音は消えている。逃げたのか、待っているのかは分からない。俺は死骸の後脚へ鎖を巻き、入口から離れた根の陰まで引いた。口には紫の液が付いている。
腹は成体より柔らかかった。幼体の鎌の先を折り取って殻の隙間へ入れ、押し広げる。薄い刃は2度目に根元から欠けたが、腹の膜は開いた。中から、紫と透明の2つの袋が出てきた。
紫の袋には、噛み砕かれた茸が残っている。透明な袋から漏れた液は、近くの白い菌糸へ落ちても何も起こさなかった。
採掘槌の先へ紫の液を少しつけ、透明な袋の中へ入れた。
濁った色が、ゆっくり薄くなっていく。
毒を避けているのではない。身体の中で変えている。あの成体が毒の茸を餌にできるのも、この袋のせいかもしれない。
俺は記録帳へ書いた。
『ヴェノムマンティス。幼体も毒茸を食べる。腹に2つの袋。片方で毒の色が消える。鎌は内側へ閉じる。触角は匂い、脚は振動』
書き終える前に、穴の奥で殻が擦れた。俺は帳面を閉じた。
2匹目は出てこない。入口の暗がりに、細い触角だけが見えている。
触角は動かなかった。俺が先ほどと同じ音を出すのを、待っていた。
お読みいただきありがとうございました!
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、画面の下(または目次ページなど)にある**【ブックマーク登録】と、【★★★★★評価】**で応援していただけると本当に嬉しいです!
感想や「ここが良かった」といったご意見もお待ちしております。
それでは、次回の更新でお会いしましょう!




