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老いた聖板持ち

頭巾(ずきん)を膝から取ったが、被らなかった。被れば手配書の形に戻り、被らなければ紙の上の顔が灯りの下に出る。広場の板には俺の顔が貼られ、門は明日の日没の鐘で開く。1年までは、夜が明ければあと3日だった。


「知ってる」


床屋は、フィンの出した銅貨を受け取って前掛けにしまった。刃を布で拭(ぬぐ)い、俺の後ろに並んでいた巡礼者を呼んだ。売るとも黙るとも言わず、広場の方へは最後まで顔を向けなかった。


頭巾(ずきん)は丸めて、外套(がいとう)の内側へ押し込んだ。広場へ流れていく人の背を避け、灯りの少ない裏の通りを町の外れまで歩いた。フィンの袋に残った銅貨は、明日のパンを買えば底が見える数だった。


外れの粉屋の裏に、車輪の取れた荷車が1台、壁に寄せて置いてあった。3人でその下へ潜り込み、地面に外套(がいとう)を敷いた。フィンはすぐに寝息を立て、宗方(むなかた)は壁に背を預けて目を閉じた。


背中の包みの奥で、光が小さく灯った。


『髪が、短くなりました』


「見えるのか」


『包みの口から、あなたの首の後ろが見えます。前より、多く見えます』


「寒い」


『首の後ろの髪は、体を温める役に立っていたのですね』


「たぶん、立ってない。気分の問題だ」


『それは、さっきも聞きました』


「なら、記録しておけ」


『記録しました。首が寒い、と』


光が消えた。荷車の板の隙間から、広場の松明がまだ揺れているのが見えた。俺は額の傷を指でなぞり、その手を下ろして目を閉じた。


夜明け前に目が覚めた。町の外れの井戸には、もう巡礼者が何人か並び、順番に桶(おけ)を下ろしていた。俺は頭巾(ずきん)を出さないまま列の最後につき、前髪を指で額へ下ろした。


フィンは井戸の左の柵にもたれ、通りの先を見張っていた。宗方(むなかた)は俺のすぐ後ろで、水筒を2本抱えていた。腹の中には昨日の芋のかけらも残っておらず、立っているだけで胃が鳴った。


順番が来て、縄を引いた。縄はささくれていて、手の内側に細かく刺さった。この町の井戸の縄は、誰も替える気がないらしい。


右手は縄の重さを遅れて返すので、左手を上にして引いた。上がってきた桶(おけ)の水で顔を洗うと、冷たさが額の傷の上で一度止まった。顔を上げたとき、井戸の向こう側に老人が立っていた。


腰の曲がった、白い髭(ひげ)の老人だった。布で包んだ平たい物を脇に抱え、足元に桶(おけ)を1つ置いていた。その目は、俺の額の傷で止まっていた。


「板の絵より、若いな」


柵の方で、フィンの手が外套(がいとう)の内側へ入った。俺は老人と、その後ろの通りを見た。兵の姿はない。老人の足なら、走れば俺たちを追ってはこられない。


「人違いだ」


「額の傷も、顎(あご)の傷も、人違いか」


答えなかった。宗方(むなかた)が水筒を下ろし、俺と老人の間へ半歩出た。


「おじいさん、関所の方ですか」


「40年、門で板を持っとる。いまは夜番の明けだ」


老人が脇の包みを少しめくった。中は灰色の石の板で、角がすり減って丸くなっていた。川の町の組合で手を置かされた板を、俺は思い出した。


「兵を呼ぶ気なら、絵を見た晩に呼んどる」


「じゃあ、何の用だ」


フィンが柵から離れずに言った。


「金なら、ねえぞ。見りゃ分かるだろうけどな」


「金はいらん。手を1つ、この板に置いてくれ」


「なぜだ」


「確かめたい。川の町で板が光らなかった若いのがおった、と上ってきた商人が話しとった。光らなかった空(から)の器だ、とな」


老人は、井戸の縁に板を寝かせた。


「わしらの間じゃ、光らん手をそう呼ぶ。中に何も入っとらん器だ」


俺は右手を出した。左手は外套(がいとう)の内側に入れたままにした。老人が俺の手首を取り、板の上へ導いた。


老人の指は乾いていて、温かかった。ミアが俺の傷に布を巻いたときも、指は温かかったはずだ。それがどんな温かさだったのかは、どこからも出てこなかった。


板は、灰色のままだった。老人は少し待ち、それから自分の親指を板の角に掛けた。板の内側に白い光が薄く浮かび、指を離すと消えた。


「……空(から)だな」


「そう言っただろう」


「お前さんが言ったのは、人違いだ」


柵の方で、フィンが小さく息を吹いた。笑ったらしかった。


宗方(むなかた)が黙って袖をまくり、自分の手を板に置いた。板はやはり光らなかった。


「あんたもか」


「自分も、光ったことがありません」


老人はしばらく、光らない板の上の手を見ていた。


「40年で、光らん手を何人見たか、もう数えとらん。光らなかった子は、教会の馬車に乗せられていった。どこへ行くのか、わしは一度も聞かなんだ」


老人は板を包み直し、俺の額をもう一度見た。


「黒淵(こくえん)から戻った、と兵が言うとった」


「戻った」


「底は、どうだった」


「暗かった」


老人は、喉の奥で短く笑った。


老人は井戸の縁に腰を下ろし、谷の上の門の方へ顎(あご)をしゃくった。


「今夜は祭日だ。日没の鐘で門を開けて、朝まで通す。板持ちは3人で、門の灯は2つしかない」


「2つ? 夜通し開けて、2つかよ」


フィンが柵から身を起こした。


「油を出すのは関所で、関所は毎年それを惜しむ。灯は真ん中と右の板に寄せる。一番左の、わしの板は灯の外だ」


「暗ければ、手の甲は見えませんね」


宗方(むなかた)が、俺の外套(がいとう)の左手の辺りを見た。


「見えん。兵が見とるのは、板が光ったかどうかだけだ。光るかどうかなら、暗い方がよく見える」


「光らなかったら、そこで終わりだ」


老人はまた、包みの上から親指を板の角に掛けた。布越しに、白い光が薄く透けた。


「わしの親指が角に掛かっとれば、板は光る。灯の外からじゃ、誰の手で光ったかは分からん」


誰もすぐには口を開かなかった。井戸の向こうで、巡礼者が桶(おけ)を引き上げる音がした。


「爺さん、それ、見つかったら」


フィンが言いかけて、口をつぐんだ。俺が後を引き取った。


「見つかったら、どうなる」


「板を取り上げられる。それで済めば、いい方だ」


「済まないでしょうね」


宗方(むなかた)が静かに言った。


「今夜は審問隊が門にいます。手を貸した人間を、黙って家へ帰すとは思えません。自分なら、帰しません」


「いらない」


老人の顔は見なかった。俺は井戸の水面を見ていた。


「壁を越える」


「その膝でか」


フィンが、俺の左膝に目をやった。


「越える」


「壁の上には、夜通し見張りの火がある。祭日の夜は、いつもの倍だ」


老人が言った。


「越えた先で見張りと揉めりゃ、誰かが谷へ落ちる。あんたか、見張りか」


右手が、外套(がいとう)の中で拳になりかけた。握った感覚は、少し遅れて指の腹へ返ってきた。揉めれば、ミアに頼まれたことを門の前で破ることになる。


「どうして、そこまでする」


「光らなかった子を、40年、灯の下へ並ばせてきた」


老人は包みを膝に抱え直した。


「1人くらい、灯の外を通してみたい」


フィンが、柵から井戸の方へ歩いてきた。


「礼は、聖都から戻ったら払う。いまは本当に、銅貨が数枚しかねえんだ」


「戻る気があるのか」


「俺は、金の勘定だけは忘れねえ」


老人が、髭(ひげ)の奥で笑った。俺は水面から目を上げ、老人の手を見た。乾いた親指の爪が、板の角の形にすり減っていた。


「条件がある」


「言ってみろ」


「親指を掛けるのは、俺とこの人のときだけにしてくれ。通ったら、すぐに板の前を離れろ。交代でも、腹の具合でもいい」


「年寄りの腹は、急に悪くなるもんだ」


老人は自分の桶(おけ)を拾うより先に、俺の使ったつるべを井戸へ下ろし直した。汲(く)み上げた水を、俺の水筒へ黙って注いだ。


胸の奥で固まっていたものが、少しだけ緩んだ。剣も拳も使わずに門の向こうへ抜ける道があると分かって、俺はほっとしていた。


水筒の水を一口飲んだ。昨日の谷川の水より、鉄の味が強かった。この町の井戸は、縄だけでなく底の石も替える気がないらしい。


宗方(むなかた)が自分の水筒を満たし、フィンは老人の包みを持ち上げかけて、重さに眉を寄せた。


「こんな物、40年も抱えてたのか」


「だから、腰が曲がった」


老人は桶(おけ)を提げて立ち上がり、谷の上の門へ続く坂の下で振り返った。


「鐘が鳴ったら、わしは一番左に立つ。列の後ろの方に並べ。前の方は、まだ兵の目が新しい」


「立ってなかったら?」


フィンが聞いた。老人は包みを脇に抱え直した。


「そのときは、並ぶな。わしが、しくじったということだ」

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