神に選ばれなかった生贄
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それでは、どうぞお楽しみください。
朝の鐘は、七度目の前に止まった。
黒鐘養護院の裏庭で薪を割っていた俺は、斧を切り株へ食い込ませたまま顔を上げた。
いつもなら七柱の神へ一度ずつ、間を置いて鳴る。
だが今日は、六度目の余韻が消えるより先に、城壁の方角から低い警鐘が重なった。
屋根の上で鳩が一斉に飛び立った。
続いて外壁の向こうから、石を引きずるような音が響いた。
足の裏までかすかに揺れた気がしたが、他の孤児たちは誰も動けずにいた。
「レイ」
裏口からミアが走ってきた。
肩までの淡い金髪が乱れ、首の銀の鈴が細かく鳴っていた。
片手には、まだ湯気の残る黒パンを二つ抱えている。
「何があったの?」
「分からない。中へ入れ」
「分からないのに?」
「警鐘が鳴ってる」
俺が斧から手を離すと、ミアは裏口ではなく俺の隣へ来た。そうすると思っていた。
表の通りから怒鳴り声が聞こえた。戸を閉めろ、井戸に並べ、中央広場へ行け。
命令が混ざり、どれに従えばいいのか誰にも分からない。
やがて白い法衣を着た修道女が庭へ駆け込み、息を切らしながら全員を礼拝室へ集めた。
俺だけは入口の外に立たされた。
「レイも一緒でしょう」
ミアが言うと、修道女は唇を結んだ。
「神印を持つ子を先に確認します」
「ここで暮らしてるのは同じです」
「ミア」
俺が呼ぶと、振り返った顔はもう怒っていた。
黒パンの一つを俺の胸へ押しつけてから、ミアはようやく礼拝室へ入った。
扉が閉まる直前まで、灰青色の目が俺を見ていた。
パンは固かった。半分だけ食べ、残りを上着へ入れた。
通りへ出ると、城塞兵が家々の扉を叩いていた。
黒鐘城塞都市ベルガルドの外壁近くは、鉱石を運ぶ荷車と労働者でいつも騒がしい。
今日は荷車がすべて道の端へ寄せられ、代わりに太い杭と丸太が西門へ運ばれていた。
荷台の一つには、黒い鉱石が山のように積まれていた。倉庫へ入れる向きではない。
城外へ出す列だった。
「見てないで歩け、ゼロ持ち」
兵士が槍の柄で俺の肩を押した。
「どこへ」
「中央広場だ。全住民への命令だ」
俺が歩き出すと、兵士はすぐ後ろの家へ向かった。
逃げないと思われているのか、逃げても構わないと思われているのかは分からなかった。
石畳には、昨夜までなかった亀裂が走っていた。
西門に近づくほど幅が広がっている。
露店の男たちは品物を片づけながら、山で見たという魔物の話を互いに叫んでいた。
「八歩はある角だった」
「外殻に矢が通らなかったらしい」
「白金位だ。騎士団の主力もいないのに、どうやって止める」
魂蝕獣砕城犀。
その名だけは、広場へ着くまでに何度も聞いた。
黒灰色の鉱石をまとった巨体が山道を下り、ベルガルドへ向かっている。
全長は八メートル。額の角は城門を砕き、前脚を落とせば地面が割れるらしい。
話すたびに魔物は大きくなった。最後には、外壁より高いと言う者までいた。
中央広場は人で埋まっていた。
七柱神の像が囲む祭壇の前に、銀色の板が七枚並べられている。
聖板にはそれぞれ異なる印が刻まれ、薄曇りの下でも表面だけが白く光っていた。
見覚えがあった。
年に一度、子供たちの神印を確かめるときに使うものだ。
胸や腕に刻まれた印と聖板が呼応すれば、どの神の加護が強いか分かる。
俺が九歳のとき、触れるよう命じられた板は一枚も光らなかった。
その日から、名前より先に「ゼロ持ち」と呼ばれるようになった。
「レイ!」
人混みの中からミアが手を上げた。俺が近づくより早く、二人の兵士が間へ入った。
「レイ・クロウだな」
「そうだ」
「祭壇の前へ」
兵士の声は確認ではなかった。左右から腕を取ろうとしたので、その前に歩いた。
腰の剣へ手をかけていた兵士が、わずかに息を吐いた。
人々が道を空けた。俺から遠ざかるためなら、混み合った広場でも動けるらしい。
肩が触れそうだった男は子供を抱き上げ、老婆は口元で七柱の名を唱えた。
祭壇には司祭エイベル・ローデンが立っていた。
養護院の責任者で、俺が熱を出したときに薬を持ってきたこともある。
穏やかな声で祈りを教え、孤児が食事を残せば自分で理由を聞く男だった。
今日は俺を見なかった。
その隣には、濃紺の軍服を着た城塞代官ヴァルター・ゲルンがいた。
背筋を伸ばし、広場のざわめきにも眉一つ動かさない。
元軍人だという話に似合う、飾りのない長剣を腰へ下げていた。
「静粛に」
ヴァルターの一声で、兵士たちが槍の石突きを地面へ打ちつけた。
乾いた音が連なり、広場は静まった。
エイベルが巻物を開いた。
「西の山岳より、高位の魂蝕獣砕城犀が迫っています。斥候の報告では、明日にもベルガルドの監視域へ入り、三日のうちに西門へ到達する見込みです」
誰かが泣き出した。別の場所では、主力騎士団を呼び戻せと男が叫んだ。
エイベルは巻物を握る指に力を入れ、声が収まるのを待った。
「古き教えには、地上へあふれた災厄を鎮める道が記されています。七柱の加護を受けぬ空の器を奈落へ返すとき、災厄もまた黒淵へ引かれる、と」
今度は、誰も声を上げなかった。
視線だけが俺へ集まった。
「空器選定の儀を行います」
選ぶための儀式ではない。俺がここへ連れてこられた時点で、答えは決まっていた。
そう言おうとして、広場の端にミアを見つけた。
兵士の腕を抜けようともがいている。
今ここで俺が抵抗すれば、あいつも祭壇まで来る。
エイベルが最初の聖板を示した。
「手を」
俺は右手を置いた。冷えた銀の感触だけが掌に残った。
祈りの言葉が終わっても、板は光らなかった。
二枚目も同じだった。
三枚目へ移ると、群衆から小さな息が漏れた。
四枚目では「やはり」と誰かが呟いた。
五枚目に触れたとき、石が飛んできて俺の背中に当たった。
振り返ると、投げた者は人の影へ隠れていた。
六枚目は沈黙したままだった。
最後の聖板だけは、薄い金色の筋が表面を走っていた。
祈るときにもっとも多く名を呼ばれる神の印だ。
俺が触れた瞬間、その光まで消えたように見えた。
広場の空気が変わった。
遠巻きだった恐れが、形を得た。石を握る手。唾を吐く音。子供の目を塞ぐ母親。
俺は聖板から手を離し、何も刻まれていない自分の掌を閉じた。
エイベルが宣告文を持ち上げた。目は紙に落ちたままだった。
「レイ・クロウ。汝は七柱すべてから拒まれた、空の器である」
歓声は上がらなかった。
代わりに、長く止められていた息が広場のあちこちで吐き出された。
選ばれたのが自分ではなかった。それだけで、人は安心できる。
「違う!」
ミアの声が響いた。
一人分の声なのに、さっきまでのざわめきよりはっきり聞こえた。
兵士の間を抜けたミアが祭壇へ走ってくる。
銀の鈴が鳴り、伸ばされた手を避けて石段の下まで来た。
「選んでない。レイが光らないって、最初から知ってたでしょう!」
「下がりなさい、ミア」
エイベルが初めて巻物から顔を上げた。
「嫌です。去年も、その前も光らなかった。今日だけ調べる意味なんてない」
群衆の視線がミアへ移った。好意的なものではなかった。
近くにいた女が「空の器の仲間だ」と呟き、その言葉が周囲へ広がった。
俺は石段を下りた。
兵士が槍を横へ向けたが、止まらなかった。
あと二歩進めば切っ先が胸へ触れる位置で立ち、ミアを背中へ隠した。
「戻れ」
「戻らない」
「養護院へ戻れ」
「レイはどうするの」
「三日で帰る」
口にしてから、嘘としては下手すぎたと思った。
ミアも分かっていた。俺の上着をつかんだ指が震えている。
それでも泣かずに、背中越しにヴァルターを睨んでいた。
「生贄で魔物が止まる証拠はあるんですか」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
その視線は俺でもミアでもなく、広場を囲む建物の屋根を順に見ていた。
兵の配置と、人々の動きを確かめているようだった。
「城塞を守るため、使える手段はすべて使う」
「答えてません」
「十五歳の子供へ、軍議の内容を説明する義務はない」
遠くで車輪の音がした。広場の脇を、杭を積んだ荷車が西へ進んでいく。
続いて、弩砲の部品らしい太い鉄の腕が布をかけられて運ばれた。
魔物を止める準備は、別に進んでいる。
なら、俺は何のために落とされる。
「レイ・クロウを拘束しろ」
ヴァルターの命令で、四人の兵士が動いた。
ミアが俺の前へ出ようとした。俺はその肩をつかみ、後ろへ戻した。
兵士の一人が腕を伸ばしたので、自分から両手を差し出した。
「レイ、だめ!」
「こいつには触るな」
「お前の立場で条件を出せると思うか」
「俺が歩けば、拘束する必要もない」
兵士はヴァルターを見た。代官は俺とミアを見比べ、短く頷いた。
手首に縄が巻かれた。
抵抗しなければ痛くはなかったが、結び目は固く、指先へ血が通いにくくなった。
ミアは縄をほどこうとした兵士の手を叩き、俺の袖をつかんだ。
「勝手に決めないで」
「決めたのは俺じゃない」
「受け入れるかはレイが決めてる!」
言い返せなかった。
ミアの言う通りだった。俺はいつも、選べないふりをして先に諦める。
そうすれば誰かを巻き込まずに済むと思っていた。
だが今は、広場中の目がミアへ向いていた。
俺を庇った少女として覚えられれば、俺がいなくなった後も何をされるか分からない。
「問題ない」
「それ、問題があるときに言う言葉でしょう」
「よく知ってるな」
いつものように呆れた顔をすると思った。ミアの唇は動いたが、声は出なかった。
エイベルが祭壇から下りてきた。俺の前で足を止めても、やはり目は合わなかった。
「これより三日間、七印浄化を行う。一日目は罪の告白。二日目は断食と祈り。三日目は鎮災の行列を巡り、その夜、黒淵へ器を返す」
「俺に告白する罪があるのか」
エイベルの喉が動いた。
「すべての人は、罪を持って生まれる」
「神印は持たず、罪だけ持って生まれたらしい」
後ろの兵士が縄を引いた。
手首に食い込んだが、俺はエイベルから目をそらさなかった。
「司祭様」
ミアが低い声で呼んだ。
「レイが九歳のとき、文字を教えてもいいって言いましたよね。働いた分の食事を渡すようにしてくれたのも、熱を出した夜に薬を持ってきたのも覚えています」
エイベルの指が、胸元の聖印を握った。
「だから聞きます。本当に、これが正しいと思ってるんですか」
答えはなかった。
兵士に促され、俺は広場を横切った。来たときより道は広く空いていた。
罵声を浴びせる者もいたが、多くは黙っていた。
俺と目が合う前に顔を伏せ、祈るように指を組んだ。
祭壇の前では、七枚の聖板が再び淡く光り始めていた。
俺が触れたときだけ沈黙した板。
神が俺を拒んだ証だと、誰もが信じていた。
広場を出る直前、背後で銀の鈴が鳴った。
振り返ると、兵士に止められたミアが両手で何かを抱えていた。
朝、俺が上着へ入れたはずの黒パンだった。縄をかけられたときに落としたらしい。
「レイ!」
足が止まった。
「三日で帰るって言ったからね!」
群衆の前で、ミアは泣かなかった。
俺も頷かなかった。戻れる見込みのない約束を、軽く扱いたくなかった。
それでも、もう一度歩き出す前に言った。
「待ってろ」
三日後、俺は黒淵へ落とされる。
その底に何があるのかは知らない。
生きて戻った者はいないと、子供の頃から聞かされていた。
だからこそ、決めた。
神に選ばれなかった俺が、誰の許しもなく帰る。
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