第1話 契約の日
誠光ハウス不動産開発事業部部長の、青山隆之は、四十七年の人生で一度も「詰めが甘い」と言われたことがなかった。
登記簿謄本は必ず自分の目で三度確認する。相手が本人であることを示す印鑑証明と実印は、光にかざして透かしまで見る。契約前日には必ず一晩、書類を寝かせる――それが青山の流儀だった。堅すぎる、慎重すぎると陰口を叩かれても、二十年近くこのやり方で大きな失敗はしてこなかった。
だからこそ、今回の案件には自信があった。都内一等地、五百坪超の一等地。所有者は八十を超える高齢の女性で、長年空き家になっていた土地を手放したいという話だった。仲介に立った不動産コンサルタントは物腰柔らかく、資料も一分の隙もないほど揃っていた。登記簿、印鑑証明、固定資産税の納税証明。すべてが本物に見えた。
面談の日、所有者本人だという老婦人と対面した。品のいい着物姿で、少し耳が遠いのか、質問には付き添いの”甥”が丁寧に答えてくれた。青山は違和感を覚えなかったわけではない。老婦人の受け答えが、あらかじめ用意された台本を読んでいるように滑らかすぎる気がした。だがその日は、体調が優れないだけだろうと自分に言い聞かせた。
「青山さん、この案件、他社も動いてます。決断が遅れると、確実に他に取られますよ」
コンサルタントの声には、いつもの交渉にはない切迫感があった。本来なら、青山はここで一晩置く。だが本社からの開発計画の締め切りが迫っていた。上司からは「今期の目玉案件にしろ」と発破をかけられていた。
――今回だけは。
その一瞬の判断が、すべてを狂わせた。
手付金として振り込んだ金額は、数百億の単位だった。契約書に判を押した瞬間、青山は確かな達成感を覚えていた。自分のキャリアの中でも最大級の案件を、無事にまとめ上げたのだと。
異変に気づいたのは、その二週間後のことだった。
本物の土地所有者――本当の老婦人本人から、会社に一本の電話が入った。
「うちの土地を売った覚えなんて、一度もありませんけど」
青山の頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
登記簿は精巧な偽造。印鑑証明も、実印も、すべて別人が用意したもの。面談に現れた”所有者”は、なりすましの女優だった。コンサルタントを名乗っていた男も、既に連絡が取れなくなっていた。
典型的な、地面師詐欺だった。
会社は青山を切り捨てはしなかったが、社内での立場は事実上終わった。始末書、減給、左遷の噂。何より耐え難かったのは、あれほど自分に課してきた「絶対に見抜く」という自負が、根こそぎ砕かれたことだった。
あの日、老婦人の受け答えに覚えた違和感。あの一瞬の「変だ」という直感を、なぜ自分は押し殺してしまったのか。
夜、会社を出た青山は、自分がどこを歩いているのかも分からないまま、ふらふらと歩き続けていた。信号の色も、車のクラクションも、耳に入ってこなかった。
気づけば、車道の真ん中に立っていた。
ヘッドライトが、まっすぐこちらに向かってくる。
ああ、と青山は思った。
最後まで、俺は「詰めが甘かった」んだな――。
次の瞬間、視界が真っ白に染まった。
目を覚ますと、そこは知らない場所だった。
見上げた空は、地球のものより一段濃い青をしていて、太陽が二つ浮かんでいる。周囲には見たこともない植生が広がり、遠くには石造りの村らしきものが見えた。
(――これは、まさか)
自分の体を見下ろすと、着ていたはずのスーツはなく、粗末な布の服に変わっていた。手足の感覚はある。年齢も、恐らくあの日のままだ。子供に戻ってやり直す、というよくある類のものではないらしい。
異世界転生。ネットの記事や小説で、聞いたことがある言葉が頭をよぎる。
しかし青山の胸に湧き上がったのは、高揚感でも冒険心でもなかった。
(また、誰かに騙されて終わるんじゃないだろうな)
その疑念こそが、転生後の最初の感情だった。
村と思しき方向から、こちらに歩いてくる人影がある。人の好さそうな笑みを浮かべた、中年の男だった。
「おお、行き倒れかね。大丈夫か、うちで休んでいくといい」
親切な言葉。無償の申し出。
――ここで、青山の中で何かが弾けた。
(無償の親切。都合のいい話。契約前の”いい人”ほど、疑ってかかれ)
脳裏に蘇るのは、あの日の老婦人の柔らかい物腰と、コンサルタントの人当たりのいい笑顔だった。
青山は静かに、しかしはっきりと男の全身を観察した。着ている服の質、手の荒れ具合、視線の動き方。不自然な点がないか、一つ一つ確かめるように。
「……すみません、お言葉はありがたいのですが」
青山は男から一歩、距離を取った。
「まず、あなたのことを何も知りません。名前も、この村のことも、何一つ」
男は少し驚いた顔をしたが、気を悪くした様子はなく、朗らかに笑った。
「そりゃそうだ。俺はゲオって者だ。この先の村の猟師だよ。何なら村長のところに案内しようか」
「案内していただけるのはありがたいです。ですが――」
青山は、心の中で誓いを立て直していた。
もう二度と、詰めを甘くはしない。
どれだけ善良に見える相手でも、どれだけ都合のいい話でも、裏を取り、保留を挟み、即決はしない。信じるのは、自分の目で確かめたものだけだ。
地面師詐欺で全てを失い、トラックに轢かれて死んだ男の、第二の人生。
その第一歩は、警戒感MAXから始まった。
「――案内、お願いします。ただし」
青山は男の目をまっすぐ見据えた。
「一つ一つ、確認させてもらいます。よろしいですね」
ゲオと名乗った男は、面食らいながらも、どこか楽しそうに頷いた。
「ああ、構わねえよ。慎重な兄ちゃんだ」
こうして、青山隆之の――もとい、名も知らぬ異世界での第二の人生が、静かに、しかし確かな警戒とともに幕を開けた。




