第12話:偽りのヒロインと壁の花 × 星空へのお持ち帰り
王宮の最も巨大で豪奢な「星降る大舞踏会場」。数千のキャンドルがシャンデリアを瞬かせ、オーケストラが奏でる優雅なワルツが、着飾った貴族たちを夢の世界へと誘っている。しかし、元公爵令嬢であるマリエッタにとって、この煌びやかな空間は公開処刑の場に等しかった。
(……息が詰まりそう)
壁際で一人、マリエッタは扇子を固く握りしめ、背筋を伸ばして立ち尽くしていた。フロアの中央で王太子カイルと腕を組み、誰よりも眩しい笑顔で踊っているのは、聖女リリアだ。
先日、カイル殿下から理不尽な婚約破棄を突きつけられ「聖女をいじめた悪役令嬢」という濡れ衣を着せられたマリエッタ〔 第6話〕に、ダンスを申し込む者など一人もいない。
家門の義務として出席せざるを得なかった彼女に向けられるのは、扇子の陰からの冷笑と、残酷な好奇の視線だけだった。
曲が終わり、割れんばかりの拍手が湧き起こる。カイル殿下が他国の賓客に挨拶へ向かうと、一人になったリリアが、ふとマリエッタの存在に気づき、小走りでこちらへ近寄ってきた。
「まあ、マリエッタ様。ずっとお一人で壁際にいらっしゃったの?」
純白のドレスを揺らし、心配そうに眉を下げるリリア。だが、至近距離で合う彼女の瞳の奥には、優越感と暗い嘲笑がギラギラと渦巻いていた。
「可哀想に……。私から殿下にお願いして、どなたかダンスのお相手を見つけていただきましょうか?」
周囲の令嬢たちが「まあ、聖女様はなんてお優しい」「それに比べてあの元婚約者は……」とクスクス笑う。
マリエッタは屈辱に唇を噛み締めながらも、決して目を逸らさなかった。ここで涙を見せれば、この計算高い腹黒い聖女の思う壺だ。
その、息の詰まるような悪意が最高潮に達した、まさにその時だった。大広間を見下ろす大階段の上から、不躾な気配が降りてきた。彼が貴族たちの輪へと歩みを進めると、そこに響き渡ったのは、華やかな舞踏会にはおよそ似つかわしくない、重鈍で荒々しい足音だった。
コツ、コツ、コツ。
磨き上げられた大理石の床を乱暴に叩くウェスタンブーツ。そして彼の胸元では、今日も「右上がり」の伝統的なレジメンタルタイではなく、反逆の象徴である「左上がり」のアメリカンストライプのネクタイが緩く結ばれていた。グランチェスター公爵家の異端児——テリーである。
彼の姿を見た瞬間、リリアの顔がパッと明るく輝いた。彼女は、かつてお茶会でワインをかけられた自分を、テリーが愛馬に乗せて連れ去ってくれた日のこと〔 第5話〕を忘れていなかった。(あの不良公爵令息も、私の魅力の虜になったのだわ)と、彼女は完全に思い上がっていたのだ。
「あ……テリー様!」
リリアはマリエッタを放置し、甘ったるい声を上げてテリーの腕にすがりつこうとした。「またお会いできて嬉しいですわ。あの海風のこと、私今でも……」
「気安く触んじゃねえよ」
氷のように冷たく、絶対零度の声。テリーはすがりつこうとしたリリアの腕を、汚いものでも払うように無造作に振り払った。
「えっ……?」
「勘違いすんなよ。俺は『集団でよってたかって一人を虐める』のが気に食わなかったから、あの時お前を外に出してやっただけだ」
テリーはポケットからZippoを取り出し、カチンと弄りながら、獲物を射抜くような鋭い目でリリアを睨み下ろした。「だがな、俺はそれ以上に、お前みたいな女が一番嫌いなんだよ」
「な、何を……」
「被害者ぶって男の裏に隠れながら、自分の手を汚さずに他人を蹴落として喜んでる性悪女。……その安い香水の匂い、鼻が曲がりそうだぜ」
静まり返った舞踏会場に、テリーの容赦のない言葉が響き渡る。「聖女」として被っていた完璧な化えの皮を、物理的な暴力ではなく、野性の直感で真っ向から引き剥がされたのだ。
リリアの顔面からサァッと血の気が引き、周囲の貴族たちも「えっ……聖女様が、裏で誰かを蹴落として……?」とざわめき始める。
「き、貴様! 私の愛しいリリアに何を言いがかりをつけている!」異変に気づいたカイル殿下が激怒して駆け寄ってくるが、テリーは完全に無視した。
彼は、醜い言い訳を始める王太子と顔面蒼白の聖女に背を向け、真っ直ぐに——壁際で呆然と立ち尽くしていたマリエッタの目の前まで歩み寄った。
「あ……テリー、様」
夜会での孤立無援の糾弾から自分を救ってくれた、あの夜と同じ、広く温かい背中。
テリーは、一人で嘲笑に耐え、決して涙を流さなかった誇り高き元公爵令嬢を見下ろすと、形の良い口元をニヤリと歪めた。
「こんな退屈な茶番、もう十分だろ」
テリーは自身の着ていた革ジャケットを脱ぎ、肩を出したドレス姿のマリエッタにバサッと無造作に掛けた。タバコと微かなバーボンの、野性的で安心する匂いが彼女を包み込む。
「抜け出さぞマリエッタ。星を見に行くぞ」
「えっ……あっ……!」
テリーはマリエッタの華奢な手首を強引に掴むと、そのまま歩き出した。「ま、待て! 貴様ら、王太子である私を前にして……!」
「勝手に踊ってろ、裸の王様」
背後で喚くカイル殿下を鼻で笑い飛ばし、テリーは群衆を割って進む。誰も彼を止めることなどできない。完全に崩壊した聖女の虚像と、ざわめきが止まらない舞踏会を置き去りにして。大広間の扉を開け放つと、そこには満天の星空が広がっていた。
「しっかり掴まってろよ」
下で待たせていた漆黒の愛馬に飛び乗り、テリーはひょいとマリエッタを自身の前に引き上げた。
パカラン、パカラン……!
高く澄んだ蹄の音が、王宮の夜空に響き渡る。マリエッタは、波打つ革ジャケットに包まれながら、テリーの力強い胸の鼓動と、吹き抜ける自由な夜風を感じていた。
「悪役」という濡れ衣も、家門の重圧も、今の彼女にはもう関係ない。ただ、この荒々しくも不器用な優しさを持つ彼にどこまでもついて行きたいと、マリエッタは心から笑って、その広い背中にそっと頬を寄せたのだった。
(第12話 完)




