春の嵐 - 2
待合室で程なくして名前を呼ばれ、医者のいる部屋に入った。病院特有の消毒液の匂いがする。
●「海藤奏斗の友人の平山秋と申します。彼の母から詳しい話を伺う許可をもらってまいりました。看護師さんにはお伝えしたので問題ないかと思うのですが…」
医者「ええ、そういう事でしたら問題ございません。ご家族の方の到着も遅れるそうなので。
まず容態についてですが、命に別状はございません。車との接触事故でしたので、まあ怪我はそれなりですが、見た目ほど酷くはありませんので、ご安心ください。」
●「そうですか、ありがとうございます。」
医者は存外冷たい口調で話を続けた。
医者「ですが、頭を打った為か記憶が曖昧なようです。大抵このような場合、時間と共に回復していくケースがほとんどですので、入院、経過観察といった流れになります。」
●「母親のことまで分からなくなるものなんですか?」
医者「一概には言えませんが、確かに多くの場合は事故前後の記憶の混濁程度でしょう。非常に稀、という訳ではございませんが、長い目でみてゆっくりと回復を待ちましょう。」
●「分かりました、ありがとうございました。」
医者の平坦で冷たい口調は、少しの苛立ちと、病院側からしたらよくあることなのかもしれないという安心感を与えるものだった。
大丈夫だ、時間が経てば全て元通りになる。自分に言い聞かせながら病室へと戻る。
奏斗と自分の信頼関係は、特別気が合うだとか、お互いがお互いを尊敬しあっているとか、そういったものでは無い。つまりそれは、幼い時から一緒だった時間によるものが大きいと考えている。だか、それが前者のような関係に劣るかと言えば全くそんなことは無い。過去には戻れない。時間こそ、最も手に入らない信頼関係の形なのではないだろうか。
今それが失われようとしている。
今まで意識したことのなかった奏斗への感情が、不安や焦りといった黒い形で膨れ上がっていく。
気がつくと病室の前にいた。いつの間に着いたのだろう。さっきまでの自分がどんな顔で歩いていたのか、全く思い出せなかった。
事態は良くない。だからこそ次の段取りを考えて行動すべきなのだが、俺はなにも考えずに再びその病室へと足を踏み入れていた。
奏斗の母の姿はなかった。恐らく看護師から何かしらの説明を受けているのか、家族に連絡をとっているのだろう。
病室の窓が開いている。柔らかな春の風が吹き込んだ。
さっきまで寝ていたその人は上半身を起こし、こちらを見ていた。
○「こんにちは。貴方は僕の家族の方ですか?」
酷く、懐かしかった。初めて会った時の奏斗はいかにも行儀がよいお坊ちゃんと言った感じで、確かこんな風だった。普段の調子なら似合わない口調に噴き出していただろうが、そこにいるのは最早別人だった。
昔の彼が大人になったら、こんな感じだろうか。いや、実際こうはならなかったのだが。
なんとも形容し難いが、例えるなら、平行世界と言った感じだろうか。そこにいるのは自分の知っている海藤奏斗ではなく、自分の記憶の深いところに眠っていた別の彼なのだ。
俺はわけも分からず泣きそうになった。
ただ、この柔らかく暖かな悪夢がまだ暫くは覚めないことだけが分かっていた。
●「こんにちは、俺は君の友人でした。何か聞いておきたいこととかない?そこそこに長い時間一緒にいたから、君のことは教えられる。俺でよければいくらでもいるから、なんでも聞いてくれ。」
ぶちまけたいことを全て押さえ込んで、俺は彼のベッドの横の椅子に腰掛けた。
○「そう言って貰えると助かります。えっと…貴方の名前を聞いても?」
●「平山秋です。君からは秋と呼ばれていたよ。
俺たち幼なじみなんだ。同い年の23歳。敬語も使わなくていいから。」
○「そっか、ありがとう。母…お母さん?が家族に電話してくれているみたいで、とりあえず戻ってくるまで貴方の事を教えて欲しい。」
●「君の事じゃなくて?」
○「なんかよく分からないけど、貴方の事を知る方が僕のことがよく分かる気がするから。」
そういうと彼は今まで見たことないくらい柔和な顔で微笑んだ。春の暖かな日差しがキラキラと色素の薄い目に注がれている。とてもよく晴れた美しい日だった。状況の最悪さと相まってちょうど不気味に思えるくらいに、美しい日だった。いつになったら覚めるのだろうか。いやまだ始まったばかりなのだろう。




