すれ違いの恋 SIDEーA
「おはようございます」
東京発新大阪行き、のぞみ213号。
彼女は窓際の席に座っている。
三人掛けの指定席、僕が座るのはいつも通路側だ。
彼女と僕の間にある席は、二人の荷物置き場になっている。
手を伸ばせば届くけど、肩が触れあうほど近くはない。この距離がどうにももどかしい。
彼女は同じ職場、同じプロジェクトを担当している先輩で、彼女がプロジェクトリーダー、僕はメンバー、歳の差は十歳になる。
彼女は仕事が抜群に出来る人で、お洒落で格好良く、上司としても、社会人としても、人としても尊敬できる憧れの人。それに同じ職場の誰よりも美しい……
僕は彼女の下で多くの事を学んでいる。
だけど、それだけじゃない。
僕は彼女に恋をしているのだ……
「おはよう、今日はよろしくね」
入社二年目の僕にとって、客先への出張は常に緊張を伴うものだが、彼女の微笑みは、心にぽっと火を灯してくれる。
「宜しくお願いします」
「なんだか、楽しそうね。良い事でもあった?」
彼女と一緒に出張へ行けるのは、僕にとって至福の時間、そんな思いが顔に現れてしまうらしい。
彼女は品川駅から新幹線に乗り、僕は新横浜で合流する。新大阪までの数時間、僕は彼女と二人きりの時間を過ごす。と言っても勉強熱心な彼女は本を読んだり、英会話の聞き流しをしていたりで、殆ど会話なんて無い。
横にいる彼女の仕草を気にしていると、時間と車窓の景色は流れていく。二人の間に漂う沈黙は気にならない。
彼女は、右手の人差し指と中指の間に栞を挟んで本を読む。ヘッドホンをしている時はコードを指に巻き付ける。考え事をしている時に中指を上下に動かしたり、名案が浮かんだ時に親指で鼻を触ったり…… 僕にしか気づいていない癖がたくさんある。
それくらい、僕は彼女の仕草を観察しているのだ。
名古屋駅を過ぎたら缶コーヒーを2本買う。1本はブラックで、もう1本は砂糖とクリームがたっぷり入った甘いやつ。ブラックが僕で、甘い方が彼女。
何も言わずにプルタブを引き、ドリンクホルダーに置いておくと、彼女は何も言わずにそれを飲み、飲み終わった後にひと言呟く
「タキ、コーヒー買ってきたの?」
「はい、そろそろ欲しくなる頃かなと思って……」
「そんなところばっかり、気が効くようになっちゃって…… もう少し別の事に頭を使ったら……」
僕の名前は相澤玉樹、先輩が言うには僕は間抜けらしい。それで、タマキ、の、マ、が抜けてタキと呼ばれている。
僕が彼女にとって出来の悪い後輩である事、それに彼女に弄られている事、それは承知しているが、それでも、あだ名で読んで貰えるのは嬉しい。
だって彼女から、あだ名で、呼び捨てにされている後輩は、僕だけだから……
彼女には交際中の彼氏が居る。結婚間近だと言う噂も耳にしている。
だから僕の恋はきっと実らない。
それでも好きになってしまったものは仕方がない。彼女の恋愛対象になる事も、僕の気持ちを打ち明ける事も出来ない、切ない恋だが、好きでいられると言うだけで、今は心が満たされている。
今日は大阪の客先でのプレゼンテーションが予定されている。
僕が作った資料を使って、初めて僕が担当するプレゼンテーション。だけど、実際のところ半分以上は彼女の手直しが入っているので、僕が作ったとは言えない。
彼女は仕事に厳しいから、僕はいつも叱られてばかり。
その厳しさに耐えきれなくなって、辞めてしまった部下も少なくないと聞く。
僕も正直なところ辛い、彼女に認めて貰えるよう頑張っているつもりなのだが、期待に応えられない自分が不甲斐ない。
ようやく巡ってきたチャンス、何とか期待に応えたい、僕はそう思っていたのだが……
プレゼンテーションは失敗に終わった……
あんなに期待して貰って、たくさん指導して貰って、僕の為に沢山の時間を割いてくれたのに、駄目だった。
僕の心には、失望が波になって押し寄せる。
「先輩、すみませんでした……」
いつもはおどけた態度を取るのだが、さすがに今日はそれしか言葉が出てこなかった。
客先を出たのは、午後五時を少し過ぎたところだった。
帰りの新幹線を手配しようと思ってスマートフォンを操作し始めた時、彼女がそれを取り上げた。
「今日は帰らないよ、泊まるからホテルを手配して……」
そう言って、彼女は僕から取り上げたスマートフォンを付き返して来た。
その日は、大阪に泊まることになった。
落ち込んでいる僕を、彼女は食事に誘ってくれた。
だけど慰めの言葉なんかは、掛けてくれなかった。そういう事を言う人じゃない事は分かっている。
だから叱って欲しかった。
「もっと頑張れ、才能がないんだから人の十倍働け……」、そう言って欲しかった。
だけど彼女は沈んだ顔で、黙々と食事をして、黙々とお酒を飲んだ。
いつもは気にならない沈黙が、気になって仕方なかった。
きっと僕の出来なさ加減に呆れ果てて、とうとう叱る事もバカらしくなちゃったんだ。
彼女は、いつも以上にハイペースでお酒を飲んでいた。少し荒れ気味だった。
やっぱり僕のせい…… もうこれ以上、彼女を苦しめる訳にはいかない。
僕は覚悟を決めた。
二軒目、三軒目と、はしごをした彼女は、四軒目のバーでついに酔いつぶれた。
僕は彼女を抱えてホテルに戻り、ベッドに寝かせた。
ベッドに横たわっている彼女の顔が、疲れきっているように見えた。
僕の目に涙が浮かぶ。出張から帰ったら、僕は会社を辞めよう……
こうして一緒に出張するのも、これが最後だ。
そう思ったら涙が溢れ出してきた。
「すみませんでした……」
小さな声で呟き、部屋を出ようとした。
すると、部屋の中から声が聞こえた。
「タキ……、キスして……」
僕にはそう聞えた。
ベッドに近づき、上から見下ろすと彼女は目を瞑ったまま、静かな寝息を立てている。
少し、顔を近づけてみたが、微動だにしない。
僕の聞き間違え立ったのか……
じっと彼女の顔を見つめていたら、ピンク色の唇が妙に艶かしく思えた。
もう少し顔を近づける。
それでも彼女は動かない。
ゆっくりとさらに近づく……
僕の中の何かが弾け、微かに唇を重ねた。
僕の心臓は飛び出してしまいそうなほどドキドキし、それと同時に途轍もない罪悪感が押し寄せてきた。
僕は慌てて部屋を出た。
廊下に出て、扉の前に立ち、「ごめんなさい」、と謝った。
自分の部屋に戻ると、止め処も無い涙が流れ落ちた。
どういう涙なのかは分からないが、いつまで経っても涙が止まらなかった。
翌朝、僕はメモを残してホテルを出た。
「先に帰ります、色々とすみませんでした」
僕の片想いは、終わった。