すれ違いの恋 SIDEーB
「おはようございます」
東京発新大阪行き、のぞみ213号。
窓際の席に座って新聞を読んでいると、彼がやって来た。
三人掛けの指定席、彼が座るのは通路側で、私と彼の間にある空席はいつも荷物置き場になっている。
指定席の予約を取るのは彼の役目、別に隣同士でも良いのだけれど、何故か彼はひとつ席を空ける。
私に対する配慮なのかもしれないが、そこに気遣いをする必要は無い。
彼は、私の下で仕事をしている。歳の差は10歳、特別出来る子では無いが、出来ないと言う訳でもない。
彼の良い所は生真面目さと根性。
色々と気が効く所は、仕事の面ではあまり役に立たない。
それでも、人として、男としての評価では、いくらかプラスになっている気がする。
私にとっての彼の存在は、弟のような、子犬のような……
従順で健気な彼に、私は密かに期待している。
叩かれても、叩かれても、へこたれずに這い上がってくる彼のような男は、いずれ大化けする。
彼を大きく育てる為に、私は厳しく接している。
名古屋駅を過ぎると、彼は缶コーヒーを買ってきてくれた。
砂糖とクリームがたっぷり入った甘いやつ、私の好みを熟知している。
プルタブを引いて、黙ってドリンクホルダーに置いてくれる彼、そう言う健気な優しさに私は心をくすぐられるのだ。だけど、それをいちいち褒めると調子に乗るので敢えて放っておく。
私には付き合っている男が居る。だけど、きっともうすぐ別れる。
「私の考えを聞き入れてくれないのなら別れる……」、そう言う意思を伝えておいたので、もうじき返事が来るだろう。
隣に居る彼とは違って自信家で、気が効かない傲慢な男だ。
だけど仕事は抜群に出来るようで、会社の有望株らしい。
もっとも自分で言っている事だから本当かどうかは怪しいが……
そんな男から一ヶ月前にプロポーズされた。
私にとって結婚は一つのステイタスだったから嬉しかったが、仕事を辞めるのが条件と言われ失望した。
結婚に条件を付けられた事だけで腹が立つのに、その条件が仕事を辞める事……
そう言う古典的な発想に余計腹が立った。
それからの一ヶ月は言い争いの連続だった。
お互いを暗に否定しあい、それがエスカレートし、やがて罵り合うようになった。
三年間交際していたから良い時だってあった。
腕を組んでディズニーランドを歩いたり、ワイキキの高級ホテルで甘い時間を過ごした事だって……
そんな楽しかった思い出を振り返ると、二の足を踏みたくもなったが、これ以上揉めていたら良い思い出が、真っ黒の絵の具で塗り潰されそうな気がしたので、割り切る事にした。
今日はこれから客先でのプレゼンテーションが予定されている。
担当は隣でウトウトしている彼で、私は付き添い。
未熟な彼をフォローしてあげなければならないのだが、正直、今はそんな気分になれない。
いつ来るか分からない彼からの判決に気を揉んでいるから……
客先に到着した途端、判決が下りた。
そしてプレゼンテーションは失敗に終わる……
彼の未熟さもあったが、それを上手にフォロー出来なかった私の責任が大きい。
プレゼンテーションの直前に届いた返事に、私の心が乱れたのが原因だ。
「分かった、別れよう」
かつて私を愛していた男から届いた知らせは、これだけだった。
プレゼンテーションに失敗した彼は、珍しく落ち込んでいた。
私は良心の呵責に苛まれている。
今日は、彼にとってのデビュー戦。何とか成功させてあげたかったのだが、プライベートに影響されて、今ひとつ力になってあげられなかった。
仕事とプライベートを綯い交ぜにするのが一番嫌いだった私にとっては、汚点だ。
落ち込んでいる彼をこのまま帰すのは申し訳ない気がして、大阪に泊まることにした。
飲みに連れて行って、慰めようと思った。
そういう心遣いが苦手なのは、自分が一番分かっているのに……
優しい言葉を掛けてあげたいのに、そういう言葉の選び方が分からない私は、とにかく彼にお酒を勧めた。彼は私のグラスが空いていると、どんどんオーダーを入れる。
大した会話を交わす事無く、沈黙を酒の肴に飲むものだから、ペースがどんどん上がっていった。
「よく頑張ったよ……」、「期待しているのよ……」、「フォローしてあげられなくてごめんね……」
そんな簡単な言葉すら掛けてあげられない私は、自分に苛立った。
私の顔色を伺いながら反省の態度を取る彼が、捨てられている子犬のように見えてきて、不意に抱きしめたくなった。だけど私はそういう事を出来るタイプじゃない。
最後のお店を出て、すっかり酔っ払ってしまった私は、彼に介抱されてホテルへ戻った。
頭ははっきりとしていたけど、身体が思うように動かなかった。
ベッドに寝かされた私は、自責の念を感じながら、眠ったふりをした。
部屋を出て行こうとしていた彼から、呟くような声が聞えた。
「すみませんでした……」
胸がキュンと痛んだ。
悪いのは私なの、あなたは一生懸命、頑張ったわ……
あなたの頑張りは私が一番分かっている……
あなたが私の事を大切にしてくれている事は分かっているの……
だから、すみません、なんて謝らないで……
口に出せない思いが次から次へと込み上げて来た。
そして私が口にしたのは、「キスして……」、だった。
思いも寄らない言葉に動揺し、どうしようもない恥じらいに襲われた。
そんな事、言うつもりはなかったのに……
ベッドサイドに戻ってきた彼。
私は目を瞑り、眠っているふりをした。
彼の顔が近づいているのを感じ、女としての欲求が湧きあがる。
いいのよ、キスしても…… 男でしょ……
心の中で囁いた。
次の瞬間、唇が微かに触れた。
柔らかくて、優しい感触、そして爽やかなペパーミントの香り……
そうだ、彼はいつも食後にペパーミントのガムを噛んでいた。
きっと私の事を気遣って……
彼の優しい気持ちが心に溶け込んできて、身体が火照っていくのを感じた。
抱きしめたい…… 目の前にいる愛しい人を……
だけど私にはそれが出来ない
彼は静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる音がした瞬間、私の目から涙が溢れ出した。
この胸の高鳴りは何? もしかして私は彼に恋をしているの? まさか?
自分への問い掛けに、思わず苦笑いが零れた。
胸の鼓動が、終わりの音にも、始まりの音にも聞える。




