第十二節『2020年8月15日』
目の前で、スマホのアラームが鳴っていた。
規則的に繰り返すバイブレーションと機械音。
液晶を見ると、6:30と表示されている。
「……………」
その場に起き上がり、ベッドの縁に腰掛ける。
それに伴い、全身を襲う疲労感と倦怠感。
体の節々が痛い。
と言うのも、何故か俺はワイシャツとスーツという格好で寝ていた。
これが原因か…………。
加えて、慢性的な眼精疲労と肩こりで、頭の中心が脈拍に合わせて痛む。
それは典型的な偏頭痛の症状に他ならない。
「……………」
長らく味わってなかったその痛みに顔をしかめながら、俺はゆっくりと周りを見回す。
六畳一間のワンルーム。
大学の頃から住んでいるため、俺にとっては見慣れた部屋だった。
折りたたみ式の小さいテーブルには、無造作に置かれた社員証とクシャクシャのネクタイ。それに、毎日飲んでいる頭痛薬。
「………………嘘だろ」
それは俺にとって紛れもない現実。
何てこと無い日常。
そう、23歳の俺にとっては。
体感では久々に見るその光景に、しばし目を奪われる。
何度見回しても、そこは実家の俺の部屋ではなくて。
起こしに来る母さんの声は聞こえない。
「戻った………のか…………?」
23歳に。
にわかには信じがたい、いや、信じたくない事実を口に出す。
混乱していた。
そして、落胆していた。
あの現実離れしていた小5の夏から一転、無情な現実に叩き落とされた。
「夢……………………?」
いや、違う。
絶対に違う。
自分で出した可能性を即座に否定する。
記憶は――――――――――ちゃんとある。
思い出そうと思えば、鮮明に浮かんでくる、あの夏の日々。
全部、全部覚えている。
むせかえるような暑さ、焼けたコンクリートの匂い、静かに揺れる陽炎――――――――――。
五感があの時、あの瞬間を確かに感じていた。
そして。
あさひの笑顔。
太陽のように眩しくて、でも、今の俺には絶対に届かない…………。
「今いつだ…………?」
依然けたたましく鳴り、朝の到来を伝えているアラームを止め、スマホをいじる。
「2020年…………8月、15日」
今日の日付。
落胆の色が濃くなるとともに、俺は小5に戻る前の状況を少しずつ思い出していた。
そうだ。
お盆休みが無くて…………、ずっと働いていた。
スーツで寝ていたのもきっと激務からのものだ。
家に帰ってきて、そのまま寝てしまったんだと思う。
そして、今日も…………、もちろん仕事…………だよな。
でも…………。
心の整理がつかない。
あれは現実だったのだろうか。
それとも、仕事に疲れた俺が現実逃避に見せた幸せな夢だったのか?
そんなはず無い。
しかし、自分で何度も何度も否定するが、証拠がない。
「っ…………!」
寝癖だらけの頭をガシガシとかく。
何か、確かめる手段は………!
もしくは証拠。
夢オチだった、なんて絶対に認められない。
認めちゃいけない。
しかし、今この状態から何かができるわけでもない。
完全に八方塞がりなこの状況に、意味も無く焦ってしまう。
「取りあえず顔でも………」
洗うか、と洗面所に向かうべく立ち上がる。
と、不意に。
右ポケットに違和感が生じる。
「…………!」
違和感、とは言ったものの、俺はその正体にほとんど直感的に気づいていた。
なぜならば。
俺はコレを貰ってから読むまでずっとポケットに入れていたから。
いや。
だとしても、どうしてここに入っているんだ。
震える手でポケットの中を確認する。
「…………!」
想像通りの感触に、冷や汗が浮かぶ。
外に出す。
「これは……………」
ポケットに入っていた違和感の正体。
それは。
少しクシャクシャになってしまった、見覚えのあるピンク色の便せんだった。
*****
「暑い…………」
容赦なく照りつける陽光の中、歩みを進める。
傍らではミンミンゼミがけたたましく鳴き、余計に暑さを助長している。
恨めしい太陽を睨めつけるべく空を見上げると、真っ青な中に浮かぶ一筋の飛行機雲が視界に入った。
8月の中旬と言えど、まだまだ夏の色を至る所に残しているようだった。
今朝アパートで目を覚ましてから、俺は今日明日と有休を取り、地元に帰ってきていた。
正直、休みを取るに当たって、チーフからはかなり文句を言われた。
会社も現在進行形で忙しい時期だったし、休んだ分だけ後で苦労するのは目に見えていた。
しかし、今回の一件に関しては、妥協するわけにはいかない。
今回なんとしても帰りたい理由があった。
二人がかつてそこに存在したのだと。
同じ時を共にした時間があったのだと。
少しでもいい、そんな欠片を集めたかった。
全くの無駄骨に終わるかもしれない。
何も見つからずに、ひょっとして今俺は、ただただ意味の無いことをしているのかもしれない。
でも、俺は今何もせずにはいられなかった。
あの夏の残滓を、俺は探していた。
「とは言ったもののなぁ…………」
実家で昼飯を食った後、こうして色々な場所を回っているが、なかなかどうして当時のままである場所は多くない。
先ほどもわざわざ母さんの車を借りて街のゲーセンに行ってみたが、更地になっていて、もはや跡形もなくなっていた。
覚えている場所が無くなっていたり、逆に見覚えの無い場所に新しい建物が建っていたりする。
近所の駄菓子屋も昔ほどの活気はないし、この街唯一のカラオケボックスも閉店してしまったらしい。
あさひと帰った通学路のゴールデンレトリバーもいなくなってしまっていた。
10年でここまで変わってしまうなんて、時の流れは残酷だと思う。
俺の体感では、ほんの数日前まで普通に目にしていたものだ。
普通に俺の身近にあって、その中で俺は普通に暮らしていた。
何もかも普通だったんだ。
「…………ここはまだあるんだな」
視界に入ってきたのは、俺とあさひの待ち合わせ場所。
最寄りのバス停。
…………なんか、小さくなってないか?
いや、俺がデカくなったのか。
サイズ感で自分の成長を実感するのも悪くない。
俺って、本当に背が小さかったんだな…………。
バス停自体もサビが前よりも酷くなり、時間の経過を感じた。
「ここで、毎回あさひを待ってたんだよな…………」
暑い暑いと悪態をつきながら。
虫かごと虫取り網を持って待っていたことも、もはや懐かしい。
そして、こっちからあさひがやってくるんだよな。
俺の家とは真逆の方向。
そっちから、あさひは毎回ちょっとだけ遅刻してくるんだ。
遅刻の理由は、大抵日焼け止めでさ…………。
「早めに塗っておけばよかったのに」
それも今更か。
思わず笑みが漏れた。
***
二人で涼んだ小川…………。
***
何度も通った、あさひの団地…………。
***
初めて喧嘩した公園…………。
***
それから、俺は別にあてもなくブラブラと歩いた。
目に映る場所全てに、思い出があって。
記憶に鮮明に刻まれていて。
「……………」
焼けたアスファルトの匂い。
彼方に漂う陽炎。
微かに聞こえてくる夕暮れのヒグラシ。
あの頃と何も変わっちゃいない。
あの夏は……………、まだ……………。
***
遠くで祭り囃子の音が鳴っている。
視線を空へと移すと、若干藍色を帯び、夜の色が濃くなっていた。
目の前には朱色の鳥居と、その奥には人々の喧噪。
こんな偶然もあるのかと驚いたが、本日8月15日は朱犬神社の祭り最終日。
体感では実に数日ぶりに訪れることになるのだが、奇妙な感覚だ。
何よりも数日前とは目線の高さが違う。
あんなに大きく見えた、人も、屋台も、これほどまでに小さかったのかと驚いてしまった。
屋台の数自体も、気持ち少なくなっているような気がする。
この数年で規模縮小が図られたのか、はたまた訪れる人の数が少なくなってしまったのか。
元々過疎が進んでいる地元ではあるが、その余波をこんなところで感じることになるとは。
「早く! 走ってよ!!」
「焦んなくても大丈夫だってば~~~」
目の前を駆けていく男の子と女の子。
男の子は早く屋台の方へ行きたいようで、鮮やかな浴衣に身を包んだ女の子の手を引き、拝殿の方へと向かっていく。
見慣れたようなシルエットがどうしようもなく、いつかの二人と重なった。
***
「一体…………、どんだけ、上ればいいんだよ…………」
傍らに灯籠が点々と置かれた階段を一歩一歩登り進めていく。
頂上が見えたところで、ドッと疲労感が押し寄せてきた。
やっぱりこの階段はいつまでも馴れないな…………。
改めて、あさひという存在が異常だったことを認識する。
いや、俺に体力がなさ過ぎるのか?
デスクワークが中心の生活を送っている身としては、日常で体を動かす事の方が少ない。
とは言ったものの…………。
「300段も絶対にいらないだろ…………」
昔と変わらず、悪態をつきながら一歩一歩足を出し、間もなく本殿に出た。
「はぁ……はぁ…………」
額に伝った汗を手で拭う。
何というか…………。
子供の体とはまた違った疲れがあるな。
精神的にはもちろんのこと、腰と膝へのダメージが甚大だ。
明日の筋肉痛の心配をしつつ、ゆっくりと辺りを見回す。
「相変わらずだな…………」
記憶の中の本殿と同じく、ぼんやりと微かに灯りがついているだけで、人っ子一人見られない。
まぁ、俺にとってはそっちの方が都合がいいけど。
頂上の階段に腰掛け、スマホで時間を確認すると、画面には19:00と表示されている。
少し早く来すぎたかな…………。
定刻まで大分時間がある。
「………少し休もう…………」
今日一日歩きっぱなしだったのと、最後の階段300段が運動不足の体にトドメを刺した。
でも。
疲れたには疲れたけど、それ以上に俺の心はスッキリしていた。
何というか………、満足した……のか…………?
うまく言葉にできない。
だけど、地元を回っていて、一つ確信したことがある。
俺は、きっと。
いつまでも。
――――――――あの夏を、忘れることはない。
やり直せると思っていなかった、本当に奇跡のような時間。
本当にただの自己満足だ。
あの夏の経験があれば、俺はきっと、これからも進んでいける。歩みを止めないことができる。
俺の人生を支えてくれる大切なものとして、ずっと輝いているだろう。
…………そう。
絶対に、大丈夫。
大丈夫なんだよ。
何度も、何度も、何度もそう強く自分に言い聞かせてポケットにゆっくりと手を入れる。
そこにあるものの存在を確かめるように指で感触を確かめた。
「っ…………」
手を出す拍子に引っかかってしまったのか、地面に向かって落ちていく便せん。
ヒラヒラと宙を舞い、やがて階段の傍らに着地した。
それも、今になって考えてみると何かに導かれていたのかもしれない。
「これ…………」
便せんを拾うべく手を伸ばしたその先。
正確には便せんの奥に、見覚えのあるものがあった。
大分薄くなってしまっていたが、それが何なのか、俺には分かった。
…………理解することができた。
階段の隅っこに書かれている、―――――――小さな相合い傘。
右側は読めるか読めないか分からない汚い字で、「涼介」と。
そして、左側には―――――――。
見覚えのある可愛らしい字で、「あさひ」と書いてあった。
『ちょっと、涼介君、字が下手っ…………!』
『字書くの苦手なんだよ…………』
『ノートの文字も凄かったもんねっ…………!』
不意に脳内を駆け巡るやり取り。
楽しげに笑う君の笑顔。
やっぱり……あの夏は…………確かに……………。
『涼介君』
『ありがとう』
胸にどうしようもなく熱いものがこみ上げてくる。
…………嫌だ。
今日地元に帰ってきたのだって、本当はただのワガママだ。
これから前に進むための確認、なんてただの建前で。
もしかしたら…………。
もしかしたら、ここに、あさひがいるかもしれない。
あさひと会えるかもしれない。
そんな子どもじみた甘い期待を持っていた。
いるわけがないのに。
そんなことあるわけがないのに。
俺はきっと、何も変わっちゃいない。
小5に戻ってしまう前と、全然変わっていない。
ぼんやりと視界が滲む。
あえて考えないようにしてきた。
でも、ダメだ。
―――――――俺はもう、前に進めない。
後悔と自責だけの人生だった。
何よりも自分のことが大嫌いだった。
他人と正面から向き合うことができずに、初めから壁を作り。
ただただ惰性で空虚な日々。
一滴、二滴と雫が瞳から滴る。
…………でも、俺は。
あの夏をやり直すことで、知ってしまった。
喪失の痛みと悲しみを。
あさひのことを知れば知るほど、怖くなっていった。
この幸せは長続きしない。
いずれ手放さなければならないものだと。
そして、いつの時からか考えないようにしてきた。
怖いから。
悲しすぎて、どうしようもなくなるから。
俺は強い人間じゃない。
納得した振りをするのが上手いだけだ。
「うっ…………、ぐ………」
あの夏をやり直すことに、意味はあったのだろうか。
こんな思いするくらいなら…………。
「っ…………!!」
ぐしぐしと涙を拭い、その場に立ち上がる。
止めどなく溢れてくるものを喉の奥で押し込め、頬を叩く。
明らかな空元気だった。
でも…………、いつまでもふさぎ込んでもいられない。
気晴らしになればと、本殿の境内へと歩みを進める。
「静かにしていると…………、ダメだな」
色々と考えてしまう。
楽しかったこと、幸せだったこと。
これまでの人生が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。
しかし、そのどれもが輪郭を伴っていないようで、ハッキリしない。
境内へと視線を向けると、灯籠やら提灯に灯りがともり、幻想的な雰囲気を醸し出されていた。
すすけた朱色の鳥居がぼんやりと照らされているのを横目に奥へ。
本殿も見る限り、あまり変わっていないようだ。
元々古いため、風化による変化も分かりにくくなっているんだと思う。
今現在の精神状態も相まって、昔とあんまり変わっていないものは、とても落ち着く。
いつかの虫取りしたときのように、本殿の横を通り過ぎ、御神木の方へと向かう。
裏側で誰もこんな所に来ないはずだけれど、僅かながら明るい。
どうやら気持ち程度の灯りがついているようだった。
森林特有の静けさの中、砂利を踏みしめる音だけが辺りに響く。
角を曲がると、お目当てである朱犬神社の御神木が眼前に表れた。
と、同時に。
「…………?」
御神木の前にぼんやりと浮かび上がるシルエット。
心許ない明るさのせいで、それが人影と分かるのに大分目を凝らさなければならなかった。
境内に人がいるというのも驚きだが、何よりもこの御神木に人が訪れているというのも珍しい。
それこそ近所の小学生くらいしか…………。
「…………!」
もしかして。
生きてる人じゃない…………?
不意に突拍子もない考えが頭に浮かぶ。
お盆と言うことで、時期的にもそう言う類である可能性も充分にあり得る。
加えて、子供の頃に戻る、と言う訳の分からない体験をしたばかりであるため、そういうオカルトじみたものも簡単に信じることができてしまう精神状態だ。
「っ…………」
少しずつ後ずさりをして距離を取ってゆく。
何かは分からないが、あまり関わらない方がいいだろう。
元々そう言う系は苦手なんだ…………。
状況も相まって唐突に怖くなってくる。
息を潜め、少しずつ少しずつ…………。
「っ…………!」
もはやお約束と言っていいだろう。
唐突に石につまずき、その場によろめいてしまった。
「えっ…………、誰っ…………!?」
…………!
人影が声を発する。
女の人の声。
普通に生きてる人……!?
「あ…………、えっと……! 俺は怪しい者じゃ…………!!」
言ってすぐに後悔した。
こんな時間に、こんな場所にいる段階で怪しくないわけがない。
しかし、それは相手も同じ。
「ちょっと、御神木を見に来て…………、ごめんなさい、俺……帰りますね…………!」
その場から離れるべく、急いで踵を返して小走りで立ち去ろうとする。
しかし。
「え…………」
近づいてきたその女の人に手首を掴まれた。
柔らかい感触と、微かに鼻腔をくすぐる甘い匂い。
突然のことに思考が停止する。
一体、何が起こってる…………?
「あのっ………、ちょっと…………」
振り返ると、すぐ目の前にその人はいた。
下を向いていて、その表情はうかがい知れないが、俺よりも頭一つ小さい。
「っ…………!!」
一体何なんだ。
俺に何か用があるのか。
急激に心臓の鼓動が速くなっていく。
「涼介………君…………?」
瞬間。
全身が強ばった。
心臓の鼓動がさらに早まり、体温が一気に上昇する感覚。
熱い。
背中を汗が伝う。
何も考えられない。
頭は完全に思考を放棄していた。
ただ、手首を握られている感触があるだけ。
「っ……………………!」
ゆっくりと女の人が顔を上げる。
交錯する視線。
それは。
始めて彼女の顔をちゃんと見たときの感覚に近かった。
髪を切ってもらった、と。
少し恥ずかしそうに頬を赤らめていて。
どうかな、と上目遣いで返事を待っている。
そんなあの子。
俺は、そんな彼女のことを、可愛いと思い。
そして、好きになった。
俺の目の前には。
―――――――三井あさひが、いた。




