第40話 相棒が泣いてるぜ
「影の主役……司令塔……」
治の言葉を反芻するように、光彦は繰り返した。
地味だと思っていた。不要だと思っていた。ベースがそれほどまでに重要な楽器だったなんて、まったく知らなかった。治が言ったように、光彦は今の今まで、ベースという楽器を派手に誤解していたのだ。
どうせ目立たない。失敗しても影響なんかない。そう思い込んだままステージに立ったのが恥ずかしくなる。
「ほら、見てみろよ」
そう促す治の視線は、光彦をすり抜けてその後ろに向いていた。
「お前の『相棒』が泣いてるぜ」
「えっ……」
怪訝に思いながら、光彦は治の視線を追った。
ベンチの端に立てかけてあった彼のベース……そのボディ部分に、一筋の雫がまっすぐに滴り落ちていた。
たぶん、光彦が流した涙が何かの拍子でベースに跳ねたのだろう。
まったくの偶然だった。しかし治が言ったように、まるで本当にベースが涙を流しているかのようだった。
「っ……!」
そこで光彦は、気づいた。
このベースにだって、悪いことをした。
力量不足で、満足に演奏できなかった。ステージの上で、ちゃんと鳴らしてあげられなかった。そればかりか、『地味』だの『不要な楽器』などと貶す言葉を投げかけた。
このベースを手に入れるために、死に物狂いになった日々を光彦は思い出す。これまで以上に早起きして、これまではやらなかった家の手伝いを覚えて……苦心の果てに手に入れた宝物で、かけがえのない大切な相棒だった。
その相棒に、自分は何ということをしたのだろうか……そう考えると光彦は胸が苦しくなって、また瞳に涙が浮かび始めた。
「今、お前は分かれ道に立ってるぜ」
光彦はベースから、治へと視線を移す。
「ここで諦めて相棒とお別れするか、それとも死に物狂いでここから這い上がろうとするか……どうする?」
諦めるということは、このベースを捨てるのと同義であるように思えた。
治の真剣でまっすぐな眼差しに、光彦は何も言えなくなってしまった。彼ができたのは、ただ俯くようにして、またボロボロと涙をこぼすことだけだった。
「なあ、一緒に猫を助けた時のこと、覚えてるか?」
答えることはできなかった。
しかし、光彦はもちろん覚えていた。治と縁を繋ぐきっかけになったあの出来事を、忘れるはずはなかった。
「お前、言っただろ? グラウンド二周のペナルティを受ける羽目になったけど、あの猫は助かった。それを考えればこんなこと、どうってことないってさ」
そんなことを、たしかに言った。
光彦は黙ったまま、小さく頷いた。
「あれはつまり、自分より猫のことを大事に思ってるって証拠だろ? あの時俺さ、お前がすごくカッコいいって思ったんだよ。スパイダーマンみたいだなってさ」
「スパイダーマン……?」
不意に話題に上った名前に、思わず顔を上げた。
「人助けのために時間を守れなくて、ペナルティを喰らっちゃう場面があるんだよ。スパイダーマンにもな」
もちろん、光彦もスパイダーマンを知っていた。
見たこともあったはずだが、もうかなり昔のことだったので、具体的にどんな場面なのかは思い出せなかった。
「やっちさんがお前にベースを勧めたのは、ただ俺達のバンドにベーシストが欠員していたからじゃないんだぜ?」
光彦がベースを始めたのは、康則に勧められたからだった。
あのスタジオにはギターなど、他にも多くの楽器があったが、康則はほぼ迷いなく光彦にベースを提案してきたように思えた。その理由をいずれ訊いてみたいとは思っていたが、現時点では考えても分からないままだった。
「やっちさんが飲み物持ってきた時……お前、率先して配ろうとしただろ? 奈々やリアムの名前もすぐに覚えて……俺、感心したんだ。すごく周りを見渡せて、気配りができて、堅実で努力家で……それに優しい奴だなって思ってさ」
「そんな、自分はただ……」
褒められるようなことをしたつもりはなかった。
光彦はただ、ああするのが普通だと思っただけだったのだ。
「やっちさんも、お前のそういうところに感心してベースを勧めたんだと思うぜ? お前なら『司令塔』が務まるって、そうピンと来たんだと思うよ」
「っ……」
そんなふうに思われていたなんて、光彦は思ってもみなかった。
「お前は、これからどうしたい?」
治が投げかけてきたのは、核心に迫る質問だった。
もう諦めます、ベースを辞めます。ほんの数分前の光彦ならば、そう答えていたかもしれない。しかし治の言葉の数々に、彼の心は激しく揺れ動いていたのだ。
分かれ道に立っていると治は言った。そしてどちらの道に進むのか、光彦自身がそれを決める時だった。
「上手く、なりたいです。ベース……!」
涙交じりに絞り出した答えだった。
「上手くなれるさ、お前なら」
後日、光彦は近くのレンタル屋でDVDを借りた。治が言っていた、ドラえもんが未来に帰ってしまうエピソードが収められたDVDだった。
降りしきる雨の中、ボコボコにされてもなお闘志を失わずジャイアンに飛びかかるのび太の姿に、思わず拳を握りしめた。
見終わった時、のび太に対しての認識が反転した。
「かっこいい、かっこいいなのび太……」
友達のために死に物狂いになれるのび太。
治が言っていたとおりだった。
テレビを消して、光彦はスタンドに立てかけられたベースに向き直った。
「ごめん、あんなこと言って……ほんとごめん……!」
地味な楽器、必要のない楽器……光彦は『相棒』を抱きしめながら、数々の失言を心から詫びた。
自分はずっと負け犬だった。
でも、今日から変わろう。負け犬にだって牙はある……心から、そう思った。




