第38話 初ライヴは大惨敗
学校で『のび太』と呼ばれるようになったのは、いつからだっただろうか。詳細な時期は、もう光彦自身にも思い出せなかった。
短い髪形、それに眼鏡という出で立ちが、間違いなくそのあだ名の由来だった。しかしそれ以上に、光彦自身の『色々と残念』な要素が大きな理由だっただろう。
成績は控えめに言ってもペケで、テストは毎回ほぼ最下位の点数だった。授業で当てられても簡単な問題すら解けず、間違えて皆から大笑いされるのが常だった。
残念なのは勉学のみならず、運動に関しても同様だった。
数メートル走っただけでもすぐに息を上げてしまい、逆上がりもできず、光彦の運動音痴ぶりは、他のクラスでも話題になるほどだった。
バカにされるのは、日常茶飯事だった。
だけど光彦はいつも笑って受け流し、何とも思ってないように取り繕ったものだった。優秀な面で周りの気を引ければよかったのだが、それは絶対に不可能だと理解していたのだ。
人間に当たりとハズレがあるのであれば、自分はハズレの人間だ。ハズレの人間は何をしようがダメなままで、どんなに努力をしようとも、当たりの人間の足元にも及ばないのだ――そう自身に言い聞かせることで、光彦は心の平衡を保とうとしていた。
だが、痛みや悔しさを完全に殺してしまったわけではない。
のび太と言われるたびに、授業で間違えたり体育で失敗してバカにされるたびに、光彦の身内に膨らんだ痛みや悔しさは大きさを増していった。
もちろん、そんな気持ちは誰にも見せず、よく学校帰りに土手の草むらに座り込んで、川や空をぼんやりと眺めたものだった。そうしていると、幾分か気持ちも楽になった。
――もういっそ、何も感じないようになってしまいたい。
そう考え始めるのに、さほどの時は要しなかった。
しかし、それはできなかった。許されなかった。
バンドメイトとなる治や奈々、リアム。それに、ベースという光彦が心から頑張りたいと思える楽器との出会い。
それらはやがて、長らく胸に押し殺してきた思いを爆発させる出来事へと、光彦を導いていくこととなったのだ。
◇ ◇ ◇
「え、ライヴ? 自分がですか?」
治の提案に、光彦は眼鏡越しに目を丸くした。
俺達と一緒にライヴに出ないか。唐突にそう言われたのは、光彦が自分のベースを手に入れて練習に打ち込むようになってから一月も経っていない頃のことだった。
家ではゲームもしなくなり、その時間をすべてベースの練習に費やした。ミュージックハウス翼では治や奈々やリアム、それに康則からのアドバイスを受け、日々鍛錬に励んできた。彼らに言われたことを、とにかく些細なことまですべて、専用のノートに書き留めておくほどの熱の入れようだった。
勉強も運動もできない自分が、必死に打ち込めること。上手になりたいと心から思えること――それがベースだと光彦は感じていたのだ。
その甲斐あって、治からライヴの出演を打診された時にはすでに、数曲ではあれど弾けるようになっていた。フレットの数か所しか使わないような簡単な曲ばかりではあったものの、種からほんの少し芽が伸びたくらいの腕前に成長し、『ベースなら、自分でもできるかもしれない』と思えていた。
しかし、治の提案に光彦は返答に困った。
治達とセッションしたことは幾度かあったものの、ライヴに出るなんて……人前でやるだなんて、時期尚早だと感じたのだ。
「い、いや……それはさすがにまだ早いんじゃ……」
光彦は渋った。
しかし、治はその後も光彦をライヴに誘い続けた。奈々やリアムも同じだった。
「何事も経験だぜ、ライヴに出れば、それを機にもっと上手くなれるかもしれないぞ」
やんわりと断り続けていた光彦だったが、治のその言葉に少しばかり気持ちを動かされた。
――もっと上手くなれるかもしれない。ライヴに出られるほどの実力はないと思いつつも、上手くなりたいと思う気持ちは間違いのないものだった。もっと上手くなって、治や奈々やリアムとバンドを組んでも恥ずかしくないくらいに成長したいと、光彦はいつも思っていた。
彼が楽器に触れ始めた時期は、他の三人より数年遅れている。スタートが違う以上、たくさん練習して早く追いつきたいと思っていたが、それだけでは不十分だと感じていた。今以上に実力を伸ばせる何かが、どうしても欲しかったのだ。
治が言っていたように、ライヴに出ることが成長への足掛かりになるのかもしれない。
ためらいを完全に振り切ったわけではなかったが、光彦はついに治の誘いを受けた。
それから数日後、ミュージックハウス翼で定期ライヴが開催された。緊張と不安と、そして少しばかりの期待を胸に、光彦は初めてベーシストとしてステージに立った。
ライヴ自体は定期的に開催されている発表会のようなもので、少しばかりの入場料を支払えば誰でも観覧することができた。有名アーティストのライヴでもないんだし、見に来る人はそこまでいないのだろうと光彦は思っていた。しかし、それは間違いだった。
ミュージックハウス翼に子供を通わせている両親や、康則の友達。ここで音楽を学ぶ子供達や、その友人――開催されたのが日曜日ということもあって、ステージの前の観覧スペースにはざっと数えただけでも三十人ほどが集まっていた。それは、光彦の予想を大きく超える人数だったのだ。
治も奈々もリアムも、こういう場で演奏するのは慣れているようだった。しかし、光彦はそうではなかった。初めてステージに立つのだから、当然だろう。
向けられる視線に、光彦はとてつもないプレッシャーを感じた。何人もの目を向けられている中で演奏するというその状況は、普段の練習とはまったく違うものだったのだ。
出演するバンドが多かったので個々の持ち時間は短く、セットリストに入っていたのはほんの数曲だった。しかし、光彦がまともに演奏できたのは皆無と言っていいほどに、散々な結果となった。
出だしの一曲目からすでにタイミングを誤り、光彦はその後も何度もミスを繰り返した。会得したと思っていた曲ですらまともに弾けず、早く出番が終わってほしい、早くステージから降りたいと思い続けるほどだった。それはまさに、『さらし者』になった気分だった。
やっと出番が終了した時、観覧スペースにいた人達は大きな拍手をくれた。
しかし、光彦に喜びはなかった。あるのは不甲斐なさと情けなさと、みじめな気持ちだけだった。
「最初は誰も上手くなんてできないんだよ、あたしもそうだったし……気にしちゃだめ」
控室に戻った時、一番最初に奈々が光彦を励ました。
治も頷いて彼女に同意を示し、リアムは黙って視線を外した。
その時、光彦は胸に様々な気持ちが突き上がるのを感じた。痛み、悔しさ、劣等感――感じたことのない痛みに胸が苦しくなり、いても立ってもいられなくなった。
「すみません、ちょっと……!」
励ましてくれた奈々のほうを向こうともせずに、光彦は逃げるようにその場を駆け出した。念願の相棒だったベースは、その片手に握られたままだった。
行き先はなかった。人気がなければ、どこでもよかったのだ。
幸いにも、うってつけの場所はすぐに見つかった。片隅に自動販売機と観葉植物が設置された、通路の最奥に位置する小さな休憩スペースだった。そこに設置されたベンチに座り込んで、光彦は顔を伏せて押し黙っていた。
ライヴになんか、出なきゃよかった。やっぱり、早すぎたんだ。
そんなことを考えても、もはや後の祭りだった。だが、そう思わずにはいられなかった。初ライヴは大惨敗――自分のせいで、奈々やリアムや治に迷惑をかけてしまったことを考えれば、それでは済まなかった。
その時ふと、誰かが自分の肩に触れるのを感じ、光彦は顔を上げた。
――そこに立っていたのは、治だった。
「なあお前、大丈夫か?」




