プロローグ
その日は、肌を突き刺すように寒い一月の夜だった。
「くそ〜、もう12時じゃねえか」
その日はクソな上司に仕事を押し付けられ、帰るのが夜中になっていた。
幸い、会社から家までは自転車で十五分ほどの距離にある。終電を気にしなくていいのは助かるが、それをいいことに上司はたびたび俺に仕事を押し付けてくる。
いつか、あのでっぷり太ったオークみたいな腹に蹴りを入れてやる。
俺は心の中で呪詛を吐きながら、夜道を自転車で飛ばしていた。
その日は、楽しみにしていたゲームの発売日だった。
一秒でも早く帰りたくて、ろくに安全確認もせず、道の角を全速力で曲がってしまう。
「やば!」
そう思った瞬間にはもう手遅れだった。
突然、目の前に子供が現れる。
思い切りブレーキを握ろうとしたが、間に合わない。
ガッシャーーん!!
派手な音を立て、自転車ごと体が投げ出された。
「痛ぇぇ!」
激しく地面に打ちつけられたせいで、頭から血が流れているのが分かった。
だが、それどころではないことを思い出し、慌てて子供に駆け寄ろうとして――
「は?」
体が固まった。
街灯に照らされていたのは、自分が轢いたはずの子供ではなかった。
そこにいたのは、緑色をした何かだった。
「ゴブリン……?」
その姿は、ゲームや小説によく出てくるゴブリンというモンスターにそっくりだった。
唖然として、頭から血が滴っているのも忘れ、その場に立ち尽くす。
「グギャ!! グギャーーー!!」
怪物は奇声を発しながら立ち上がり、こちらを睨みつけてきた。
自転車に轢かれたせいなのか、右腕は変な方向に折れ曲がり、頭からも血を流している。
救急車? 慰謝料? ゲーム? ゴブリン?
混乱した頭で必死に考えるが、思考が何一つまとまらない。
とりあえず、声をかけてみる。
「だ、大丈夫か?」
「グゥゥ……!! グギャ!!」
次の瞬間、こちらを睨みつけていた怪物は、骨が折れていることなどお構いなしに襲いかかってきた。
「待て! 悪かった!」
「グギャーーーー!」
そのまま押し倒され、めちゃくちゃに殴られる。
小さい体からは想像もつかないほど力が強い。
俺は恐怖で体がすくみ、ただ耐えることしかできなかった。
殴られながら、頭の中でひたすら同じことを考えていた。
――なぜ、こんなことになっているんだ?
今日の朝までは、いつも通りの日常だった。
眠い目をこすりながら、面倒くさいと思いながら会社へ行く、いつも通りの一日。
「グギャ! グギャ! グギャ!」
最初は必死に頭を守っていたが、終わらない暴力に、だんだんと力が抜けていく。
(意識が朦朧としてきた……)
(俺が何をしたって言うんだ……)
思えば、平凡な人生だった。
普通の両親のもとに生まれ、何事もなく成長し、小学校に入学した。
神童や天才と言われるような子供でもなく、学校が終われば放課後に友達とゲームをするために集まったり、鬼ごっこや虫取りをして遊んでいた。
今考えると、この頃が一番楽しい時期だったのかもしれない。
将来のことなんて考えもせず、無邪気に笑っていられた。
中学校に入学してすぐ、いじめられた。
幸い、いじめはすぐに終わった。
だが、このことがきっかけで、人を信じられなくなってしまった。
大人になって振り返ると、子供の頃に受けるいじめなど可愛いものだったのかもしれない。
それでも、当時の自分にはショックが大きく、ひどく塞ぎ込んでしまった。
高校は教師に勧められた場所にした。
行きたい学校もなかったので、適当に決めた。
周りは漠然とでも将来のことを考えていたが、俺にはやりたいことなんて何もなかった。
受験勉強をする奴や、部活に打ち込む奴を見て、何をそんなに必死になってるんだと心の中で笑っていた。
本当は、熱中できるものを持っていることが羨ましかった。
だが、当時の俺はひねくれていた。
何の努力もせず、ゲームや漫画を読みながらダラダラと過ごしていた。
やりたいことなどなかったので、高校卒業と同時に就職し、平々凡々と過ごすうちに、もう二十三歳になっていた。
今までを振り返ってみると、俺の人生はひどく薄っぺらで、数分もあれば語れてしまうようなものだった。
(ああ……これが走馬灯か)
人間は死ぬ瞬間になると走馬灯を見るというが、あれは本当だったんだな。
そんなことをぼんやり思っていると、視界も少しずつ薄れていく。
俺の人生、ここで終わりなんだな。
――――――――――
(本当に?)
本当に、このままでいいのか?
何も成し遂げたことのない人生。
彼女すらできたことのない人生。
全くもって平凡なだけの人生。
(でも……死にたくない!!)
それは生き物としての本能だったのだろう。
「うぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
体の底から湧き上がる力のまま、目の前の怪物に向かって腕を振り回す。
喧嘩などしたこともないので、傍から見ればただ駄々をこねているようにしか見えなかっただろう。
だが、振り回した拳が偶然怪物の顎に当たり、怪物は後ろに倒れた。
相手は突然の抵抗に驚いたようだった。
だが、無我夢中になっていた俺は、そのまま怪物にまたがり、拳を振り下ろす。
(死にたくない!)
(死にたくない!)
「グギャ! グゥゥガー!」
痛む拳などお構いなしに、一心不乱に怪物を殴り続ける。
「グギュ……グギャ……グゥゥゥ……」
徐々に怪物の声が弱々しくなり、やがて目の前の怪物は動かなくなった。
「はぁ、はぁ……助かった……」
肩で息をしながら、俺はその場にへたり込む。
するとその瞬間――
〜〜〜〜レベルアップしました!〜〜〜〜
突然、軽快な音とともに、昔遊んだRPGのレベルアップ音のようなものが頭の中で鳴り響いた。
同時に、目の前の空間に「レベルアップしました」の文字が浮かび上がる。
「一体、何が起こってるんだ……」
呆然と呟く。
この日から、ただの会社員だった弘前一篤の人生は、終わりを告げた。
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