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プロローグ

---


冬の午後、天津(てんしん)にあるとある大学。


七海はキャンパスのベンチに座り、膝の上にノートパソコンを載せていた。


画面の文書は、もうかなり後ろのほうまで進んでいる。


七海は静かに読み進めていたが、ふいに、マウスが止まった。


「……八海」

「ん?」


陳汪瑶(ちんおうよう)はちょうど近くのコンビニから戻ってきたところで、手にはまだ温かい飲み物を二本持っていた。


七海は画面を見つめている。


「ここ」

「どこ?」

「消して」


陳汪瑶(ちんおうよう)は一瞬固まり、身を屈めて画面を覗き込んだ。

そこに書かれていたのは、ごく普通の描写だった。


――七海が笑うと、小さな八重歯が覗く。


その次の行。


――かわいい。僕は好きだ。


陳汪瑶(ちんおうよう)は黙った。

七海が顔を上げた。


「これは何?」

「……描写」

「最後の一文も?」

「作者の感想」

「いらない」

「でも、結構大事だと思う」


七海は陳汪瑶(ちんおうよう)を二秒ほど見つめたあと、そのまま下へスクロールした。


――それに、実物は写真で見るより少し小さい。


七海が止まった。

陳汪瑶(ちんおうよう)はふいに、嫌な予感がした。


「八海」

「……うん」

「これは?」

「客観的事実」

「消して」

「でも――」

「消・し・て」

「……はい」


七海はようやく満足そうに画面へ視線を戻した。


陳汪瑶(ちんおうよう)は隣に座り、飲み物の一本を七海の手元へ置く。


冬の風が、キャンパスの道のほうから吹き抜けていった。

ベンチの脇には、数日前に降った雪がまだ少し残っている。

通り過ぎる学生たちはみんな首をすくめ、普段より少し足早だった。


七海はマフラーを少し引っ張る。


「天津(てんしん)、寒すぎない?」

「今さら?」

「八海、前はこんなに寒いって言ってなかったじゃん」

「毎日ここにいるから、もう慣れてるんだよ」

「ずるい」

「それのどこがずるいの?」


七海は答えず、温かい飲み物を手に取り、そのまま続きを読み始めた。


しばらくして。


「ここの日本語も不自然」

「また?」

「うん」

「どこ?」


七海は指で画面を指した。


「普通の日本人はこう言わない」


陳汪瑶(ちんおうよう)はため息をついた。


「もう三回直したんだけど」

「だから私が必要なんでしょ」

「七海、だんだん本当に先生っぽくなってきたね」

「もともと先生です」

「じゃあ、中国語の生徒は?」


七海は顔を上げた。


「私の中国語、もう上手だよ」

「本当?」

「もちろん」


七海は咳払いを一つすると、真面目な顔で中国語を口にした。


「今天晚上,我想吃火锅。」

<今晩、火鍋が食べたい。>


陳汪瑶(ちんおうよう)は少し待った。


「……終わり?」

「終わり」

「その文は確かに合ってる」

「ほらね」


七海はすぐに得意そうな顔をした。

陳汪瑶(ちんおうよう)はそんな七海を見る。


「でも、ただ火鍋食べたいだけでしょ」

「ついでに中国語の練習」

「完全に重点が逆でしょ」

「勉強は生活と結びつけないと」

「こういうときだけ先生っぽいこと言うんだね」


七海は笑った。

口元から、小さな八重歯が少し覗く。


七海は俯き、続きを読み進めた。

読み進めているうちに、また動きが止まる。

今度は、さっきより長かった。


「八海」

「今度は何?」

「これ、本当に書くの?」


陳汪瑶(ちんおうよう)は画面を見た。


「もちろん」

「……だめ」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

「でも、七海が自分から――」

「言わないで!」


七海は勢いよくノートパソコンを閉じる。

陳汪瑶(ちんおうよう)は二秒ほど固まったあと、結局吹き出した。


七海が睨む。


「何がおかしいの?」

「笑ってない」

「嘘」

「本当に笑ってない」


七海はしばらく陳汪瑶(ちんおうよう)を見つめていた。

けれど最後には、自分も我慢できなくなって口元を緩める。


二人はしばらく静かに座っていた。

また風が横を吹き抜けていった。


七海は、閉じたノートパソコンへ視線を落とす。


「八海」

「ん?」

「じゃあ、これから先にすごく恥ずかしいことが起きたら?」

「書く」


七海はすぐに顔を上げた。


「消して」

「まだ起きてもないのに消すの?」

「先に約束して」

「そんな約束、僕はしてないよ」

「じゃあ今して」

「嫌だ」

「八海」

「……嫌だ」


七海は目を細めて睨む。

けれど陳汪瑶(ちんおうよう)は、言い直さなかった。


二人はそのまま数秒、見つめ合う。

最後には七海のほうが先に視線を逸らした。


「最近、どんどん可愛くなくなってきた」

「誰が教えたの?」

「私はそんなの教えてない」

「そう?」

「もちろん」


七海はもう一度ノートパソコンを開く。

今度はそれ以上読み進めず、さっきのページで止めたままだった。


しばらくして、ふいに言った。


「でも」

「ん?」

「まだ、しばらく書くんでしょ?」


陳汪瑶(ちんおうよう)は少し考えた。


「たぶん」

「この先のこと、まだ何も起きてないもんね」

「だから、ゆっくり書くんだよ」


七海は答えなかった。

ただ画面を見つめている。


しばらくして、そっとノートパソコンを閉じ、隣へ置いた。


陳汪瑶(ちんおうよう)は七海をちらりと見た。


「もう読まないの?」

「今日はここまで」

「やっと?」

「『やっと』って何」


「……さっきから何個消したと思ってるの」

「消すべきものは消さないと」

「全部、七海が書かれたくないだけじゃん」

「それなら、全部いらない内容ってこと」


「どんな基準だよ」

「編集基準」

「いつから編集者になったの?」

「今」


陳汪瑶(ちんおうよう)はため息をついた。


七海は笑った。

そして、ポケットから片手を出す。


何も言わず、ただ陳汪瑶(ちんおうよう)のほうへ軽く揺らした。


陳汪瑶(ちんおうよう)は一度見て、ごく自然にその手を握る。


七海の手は少し冷たかった。

陳汪瑶(ちんおうよう)は手に少し力を込める。


以前は、こういう場所を写真で七海に送って見せるだけだった。


どの建物で授業を受けているのか。

普段どこを通るのか。

食堂はどちらにあるのか。

それから、どこに座って七海へ電話していたのか。


けれど今は、七海本人がここに座っていた。


「八海」

「ん?」

「じゃあ、ゆっくり書こう」

「うん」

「最後まで、私が直してあげるから」


陳汪瑶(ちんおうよう)は、繋いだままの二人の手を見下ろす。

少ししてから、小さく答えた。


「……うん」

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