入道雲
入道雲
その日の朝、穂香は教室に新しく入って来る全ての物音に敏感になっていた。
麻衣子たちと話をしていても、誰かが入ってくるたびに知らず知らずのうちに心が入り口のほうに奪われてしまう。そして何故か心は落ち着かないまま、また次の生徒が教室に入って来て、また心がそちらに奪われてしまう。何度もその繰り返しを続けているうちにまた誰かが教室に入ってきた。
「おはよ~」
チョッと気の抜けた挨拶だったが、その時もまた心がそちらに奪われた。
ただ、入ってきた人物が阿久津俊介だと分かった瞬間に、パッと心に日が射した。
穂香が阿久津俊介を見ると同時に、俊介もまた秋月穂香を見た。
阿久津俊介と目が合った。
直ぐに合った目を離した。
急に心に嬉しいトキメキが訪れるのを感じた。
阿久津俊介が教室に入ってからは不思議に、もう入ってくる物音に心を奪われる衝動は起きなくなっていた。
穂香は大輔からの連絡ノートを思い出した。
それは、昨日の内容で
『いい加減自分の気持ちに気がついてあげないとイケナイ気がします。勇気を持って、何の気持ちなのか考えて行動を起こしてみてください』
と、書かれてあった。
読み終わって直ぐに何を言おうとしているのかが、ぼんやりと理解できた。
最近の自分の気持ちの中にある‘落ち着きの無さ‘の原因が何によるものなのかは薄っすらと気がついていた。
しかし、それが何故なのか、これから先どうすれば良いのか全く分からなかったし、一過性のものなのか継続性のあるものなのかも分からない。
そもそも、この気持ち事態が何処からやって来て、これから何処へ向かうのか全く見当もつかない。つまり原因も未来の展望も分からないのに何をどう行動に移せというか、勇気を持って一体全体何をどうすべきなのか?
考えてみても何も答えが出ないばかりで頭の中で同じ思考だけが繰り返し、繰り返しループするだけだった。
そんな事を考えているうちに一時限目の授業が始まった。
いつもなら、休憩時間に他の事で気持ちを奪われたとしても、直ぐに気持ちを切り替えて授業に集中できるのに、その日は授業が始まっても自分の気持ちのあり方についてボンヤリ考えていた。
『原因の多くを占めるのは・・・』
教室の窓際の席から、廊下側の席の一つ前に座っている阿久津俊介の姿をボンヤリと眺めていた。
「秋月!?」
「秋月!?」
先生の二度目の声で我に返った。
自分では二度呼ばれた気がしたが実際何回呼ばれたのか全く分からなかった。
「はい!」
慌てて立った。
恐らく問題を当てられたのだと思ったが、どの問題か全く見当がつかなかった。
「え~・・・っと」
考えているふりをして時間稼ぎをして先生が問題を復唱してくれるのを待つ。
周囲の生徒が開いている教科書のページ、あるいはノートから問題を割り出さなければ、と焦っていると、先生はのんびりした口調で
「なんか見えるのか?」
と近づいてきた。
『マズイ!』
ここから自分が見ていた方向を眺められると一直線上に居る人物が誰なのか分かってしまう!
でも、どうすれば?
駄目何も思い浮かばない!
お願だから私の見ていた先のほうに…
そう!
『黄色い飛行船でも飛んでいて!』
穂香は半分絶望的に阿久津俊介の頭の向こう側にある何かを捜し求めた。
私が、こんなに絶望的な状況なのに阿久津俊介は窓の外をのん気そうに眺めて
「へぇ~」
と、間の抜けた声をあげていた。
『黄色じゃなくても飛行船!もしくはアドバルーン!・・・UFO!!』
しかし廊下側の、窓の向こうに見える景色は青い空と雲しかない何の変哲も無い夏の風景だった。
『絶望的!』
もう、目の前にムクムクと湧き上がっている入道雲の姿をただ呆然と眺めながら行く末を見守るしかなかった。
「ほう!入道雲か・・・」
「先生の立っている所からは見えなかったが勢いのある、おそらく産まれて未だ間もない入道雲だろうな」
先生は穂香の横に立って、そう言った。
幸運なことなのか、穂香と俊介を直線状に繋げた延長線状にある窓からだけ、その入道雲は見えていた。生徒が何人か椅子を離れ延長線上に割り込んできて入道雲を眺め口々に「へえ」とか「凄い」とか各々の感想を言っていた。
ぼんやり眺めていたモノの正体は偶然にも入道雲に摩り替えられて一難去った形ではあったが、まだ穂香には大きな不安があった。
それは延長線上に並んだ真ん中の‘点‘つまり阿久津俊介に誰か気がつくのではないかという不安だった。幸いにして俊介は事件の発端からズーっと入道雲を眺めっぱなしだったが、穂香は心の中で
『お願い!阿久津君そのまま入道雲を見ていて!絶対に私のほうを振り向かないで!絶対にお願い!』
と、俊介の後姿に念じていた。
「さあ!もう七月だ!暑くなってきたが、あの入道雲の様な勢いをもって頑張ろう!」
何となく取って付けた感満載の先生の締めの言葉を合図に皆席に戻り授業は再開された。ホッとしたのも束の間、入道雲を眺めていた俊介の顔が教科書に戻される時、教室を見渡す様に首を回した瞬間に目と目が合ってしまった。いつもはチョッとドッキリするだけだったが、こんな事が有った直ぐ後だったからか、穂香は自分の顔が火で炙られた様に真っ赤になって行くのが分かった。
誰にも悟られないように耳に手を当て、顔を隠すため俯いた。
『わたしは、阿久津君のことが・好き・・・』
隠されていた問題の答えが今漸く解けた。
休み明け(と言っても、昨日休みだったのは自分だけだが)教室に入ると、真っ先に秋月穂香と目が合った。最近、秋月穂香とよく目が合うのは自分が何故かつい見てしまうからだ。美貌で秀才の彼女にとっては俺みたいに冴えない男と目が合うのなんか全く迷惑なことだろうな。
そんな事を考えながら席に着いた。
三木が昨日のことを聞いてきたので話をしていたが直ぐに一時限目のチャイムが鳴った。
授業が始まって暫くして俊介は、ある気配を感じた。
『誰かに見られている!』
そう思うと、もう先生の言葉は耳に入らなかった。人に見られる様な容姿でもなければ、派手な性格でもないからか、余計に見られている視線を感じてしまう。
『いったい誰だ?』
顔を黒板に向けたまま全神経を教室中に張り巡らしていると、意外な人物に見られていることが判明した。
‘秋月穂香!‘
『まさか!でも、何故!?』
俊介は焦った。秋月穂香が自分などを見つめるわけが無いのに…
『どうして?』
ひょっとしたら三木たちが、借りたお金を返しておいてくれたと言うのは嘘だったのか?それで、いつまでも金を返さない俺に対して怒っている…
色々考えながら焦っている間に、その秋月穂香が先生に呼ばれた。
秋月穂香は三回目の呼びかけに反応して席を立った。先生が不思議そうに彼女に近づきながら何を見ているのか聞いた。
『やばい!』
金を借りて踏み倒しているとしたら、それを言われてしまうかも知れない!
俊介は絶望的気分に襲われた。
「ほう!入道雲か・・・」
「先生の立っている所からは見えなかったが
勢いのある、おそらく産まれて未だ間もない入道雲だろうな」
と、先生が言った。
先生の目線の先を追うと、先ず自分が居て、その向こうに晴れ渡った七月の空にムクムクと、まるで音を立てるように湧き上がって行く入道雲があった。
なるほど、彼女は俺を見ていたんじゃなくてこの超凄い勢いで成長している入道雲を見ていたんだ。
ホッとした途端に気が抜けて
「へぇ~」
と漏らしてしまった。
ほんの少しの間だが教室の皆で入道雲を見ていた。この入道雲は俺たちと似ていると俊介は思った。
若く何ものにも負けずにグングンと成長を続けている。小さな雲の一つ一つが抱えるものを寄せ集め天高く伸びようとして、秋の流れ雲や千切れ雲の様に風に形を変えられていくのではなく、自分たちの力を集め、自分たちの力で形を作っているんだ!
こんなところに着目する素晴らしい感性を持っている秋月穂香に感心したので授業再開の時に、つい振り返って彼女を見てしまった。
当の本人は既に授業集中モードに戻っているらしく頭を抱えて教科書に噛り付いていた。
秋月穂香に見られていると思ったときは正直焦ったが、実際に彼女が見ているのが入道雲だと分かってしまうと、何故だかチョッと残念な気持ちがするのを感じていた。
昼食が済んで、直美、麻衣子それに三木と本田の四人は屋上に集まった。
沙希は穂香に数学の問題を教えて貰うため二人で図書室に行っていた。これは数学の苦手な沙希が、何かしていることを変に悟られるのもマズイと考えたことと、もう直ぐ始まる期末テスト対策を兼ねた計画だった。
「見た?」
「見た!」
直美が麻衣子に確認した。
そう、話は一時限目の授業中の事だった。
直美と麻衣子は、授業中に入道雲ではなくて阿久津俊介をボーっと眺めていた穂香のことを話した。
そして最後に真っ赤になった事も。
「えー?何のこと?」
三木と本田は全く気がついていなかった。
「これだから・・・」
と、麻衣子は直美に振り返り笑うと、直美が大声で言った。
「入道雲!見たでしょ!」
男子二人は、見た事と、凄かった感想を述べだし直美と麻衣子はお腹を抱えて笑った。
その光景を見て男子二人は、何が可笑しいのかサッパリ分からなくて困っていた。
「ところで阿久津君の気持ちは分かったの?」
笑い終えると直美が三木に聞いた。
「そんなに直ぐに分かる訳ないじゃないか!大体昨日俊介は休みだったんだから…」
声は小さかったがチョッとムキになった様な言い方だった。
本田が思い出したように
「昨日、進藤が俊介の家にプリントを届けに行ったから何か聞いてきているかも…ちょっと呼んで来る」
と言って下に降りて行った。
進藤公一は昼休みに文庫本を読んでいた。
内容は高校生のクラスメート同士、内気な女子と、ドジで映画オタクの男子の恋愛物語で、不器用な二人を、お互いの親友たちがヤキモキしながら応援していくと言う内容だった。
開いた本の向こう側、斜め四列前には、うつ伏せになって寝ている俊介が居て、たまにそちらを見ながら、俊介に訪れようとしている‘リア充‘がいつか自分にも訪れるのだろうかと、読みながら考えていた。
「進藤!」
不意に本田に声を掛けられて慌てて読んでいた文庫本を閉じた。
用件が俊介と秋月穂香を‘くっつけよう‘と
企てている女子の一味が関係していることは直ぐに分かった。
文庫本を鞄の中に仕舞って、面倒臭そうに席を離れ本田と一緒に屋上へ上がった。
上には山岡沙希も加わっていて、女子三人と男子三人となった。
「どうなの?」
直美が唐突に進藤に聞いた。
その質問の意味が俊介の気持ちだと言うことは直ぐに分かった。
「本人にハッキリとした自覚は無いけれど、先ず間違いないと思うけど・・・」
まだ言い終わっていないのに、そこまで行った時、女子たちはキャーと歓声を上げて喜んだ。
進藤は、ひとつ咳払いをした後
「秋月さんの方も俊介と同じレベルだと思うんだけど」
と、付け加えた。
すると麻衣子が
「今朝までは・・・ねぇ!」
と、直美と沙希の顔を見て、またキャーと歓声を上げた。
男子三人には、その歓声の意味が分からなかった。
その後、これからどうするか三木が聞くと女子たちは、来週からはテスト期間に入ってしまうから、そこから期末テスト終了までは何も出来ないと思うけど、それからあと夏季補修終了までに何かしたい。
と、言うのが女子の意見だった。
さて、そこで何をどうするのか?
ここで進藤が、合同デートを提案した。
進藤のプランは、先ずこの六人のメンバーのうち擬似的に一組のカップルを作る。そしてその二人がデートをする事になるのだが、どうしても二人きりでは不安なので友人を巻き込んだ合同デートに誘い出し、現場でわざと二人を迷子にしてしまう作戦だ。
進藤は、得意な表情で発表した。
三木も本田も感心して聞いていたが、沙希が
「それって『おたくの恋の物語』のパクリじゃない?」と、口を挟んだ。
進藤はドキッとした。
確かに今言ったのは、さっきまで読んでいた『おたくの恋の物語』の一場面をそのまま引用したものだったが、これはライトノベル創世記の作品で、しかも余り人気がなかったのか普通の本屋では先ず置いていないものだった。
それを何故、本など読みそうもない沙希が知っているのだ。そして、この不人気で軟弱な小説を読んでいる自分と、それを堂々と提案してしまった事に少なからず恥ずかしさを感じ黙ってしまっていると直美が腕を組んで
「ベタだけど、良いんじゃない」
と同意した。
「ベタって言うのは定番って事でしょ‘ていばん‘には、それなりの理由があるんだよ」
落ち着いた口調で麻衣子も同意すると
「いいんじゃない、私もあの小説好きだし」
と、沙希も同意し、これで女子三人の意見は一致した。進藤は提案者なので同意とみなすと、あとは三木と本田の返事待ちとなったが
三木も本田もグズグズしてナカナカ決められないで居た。直美が早く決めるように促すと三木が、小説やテレビの中みたいな事で旨くいくのかと否定的な意見をボソボソっとした口調で言った。
すると直美がすかさず、常に行動よりも頭で考える事を重んじる三木の姿勢をなじった。
三木は渋々合同デートに合意した。
「本田君は?」
三木と直美の、やり取りに圧倒されていた本田に麻衣子が聞いた。
「べ・別に俺は・良いよ、それで」
本田も同意したので大筋の作戦は決まった。
決行日はテスト明けの週末、十九日(海の日)に決定した。
後は場所と詳細な作戦を煮詰めるだけだ、しかしここで昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
テスト期間の間、部活動は休止する。
今迄、部活の後に塾などに行っていた生徒たちは空いた時間を教室で過ごす。
テスト期間初日の月曜日、穂香は部活に入っていなかったので今迄教室で自習をする事は余り無かったが、その日は教室に残り二時間ばかり勉強をしていた。
教室に残る生徒は五~六人と思ったより少なく、その中に俊介もいた。
穂香は余計な事は何も考えず勉強に打ち込んでいたが、この教室で同じ様に俊介と勉強をしている事を幸せに感じ、家で勉強している時よりも問題を解くのが楽しく感じた。
やがて下校のチャイムが鳴り、その部屋に居た生徒たちは各々散らばっていく。
俊介が席を立ち帰る。
穂香も席を立ち帰る。
下駄箱に降りる廊下の前を俊介が、のそのそと歩いている。
下駄箱で靴を履きかえて帰る時、思い切って「さようなら」
と俊介に告げた。
俊介からも
「じゃあ」
と返事が返ってきた。
その後は急に体が火照って来て足早に駆け出した。アスファルトとコンクリートの建物で構成された駅までの道が、まるでお花畑の中でも駆けている様に色鮮やかに流れていった。
次の日も、その次の日も穂香は教室で自習をして、同じ幸せに満たされた。
テスト前の最後の自習室、帰り際に急に雨が降り出した。
朝の天気予報では特に雨の予報は無かったが一応折りたたみ傘を持ってきていたので鞄から取り出した。下駄箱の反対側の俊介が気になって覗くと、あの日と同じように雨を睨んで立っている俊介が居た。
あの日の様な土砂降りでは無いものの、傘が必要なくらいは降っていた。
穂香は思い切って傘を差し出し
「駅まで入って行く?」
と声を掛けた。
あの日同様に我ながら大胆だと思った。
俊介は遠慮して、このくらいの雨なら平気だと言って走り出した。
穂香は膨らんだ気持ちが急に、しぼんでいくのを感じ、しゅんとなったが、走り去る俊介が一旦立ち止まり穂香に向かって
「有難う!もう少し降っていたら次はお願いするから!」
と手を挙げた時、しぼんだものが急にまた膨らむのを感じ嬉しかった。
穂香は雨の中に俊介が消えるまで、いとおしい思いでそこに立ち見送っていた。




