熱
翌朝、俊介は起きたときから何だか頭がフラフラする感じがした。
まるで夢の続きでも見ているようだった。
朝食を前に、手もつけずぼんやりしていたら
お母さんが、熱あるんじゃない?と、おでこを触ってきた。
いつもなら触られると怒るのだが、今日は触られた手が冷たく感じて気持ちよかった。
『ハレルヤ~』
意味は分からなかったけど何となくそんな言葉が頭にこだました。
目の前でお母さんが傾いていく。
リビングも一緒に傾いていく。
あれ?傾いているのは俺なのか……。
ガタン!
誰かが椅子から落ちたような音が響いた。
目の前にはテーブルの足と、お母さんのスリッパ。
あぁ俺が倒れたんだ。
*秋月穂香視点
激しい疲れが穂香を覆いつくしすぐに意識が眠りの中へ導かれていく中で、照れながら私に礼を言っている後姿の男性が脳裏に描き出されていた。
私は、その男性とずっと話をしていた。
何の話をしているのか分からなかったが、楽しそうで、幸せそうで、肌は輝きを放ち、眼はいつか写真で見たエーゲ海の空と海のように澄んだ光りと潤いを抱いていて、それまで鏡の中で出会ったことのない私がいた。
一体どんな話をしているのだろうと自分に聞いてみたかったが、二人の姿はやがて高原を覆っている青空の中へと吸い込まれていった。
翌朝目が覚めたときには、その夢を見た記憶はなくて、なにか重大な夢を見た気がしたが、それが何か思い出せずにいて悔しかった。
朝食のときも、電車で揺られているときも、学校までの道のりを歩いているときも、それが何だったのか思い出そうとしたが結局なにも思い出せなかった。
教室に入るとまだ阿久津くんの姿はなかった。クラスの中でも穂香は登校時間の少し早いほうで、阿久津くんは遅いほうだった。
後ろの席の麻衣子とおしゃべりをしながら少し気になって見ていたが、その日はいつもの時間になっても来なくて、とうとう一時限目のチャイムが鳴ってしまった。
授業が始まっても穂香は、階段を駆け上がる音や廊下を走る音、時折風のいたずらが教室の窓を叩く音にまで敏感に反応し、そのつどドアのほうが気になった。
二時限目が過ぎ三時限目が過ぎ、とうとうお昼休みになっても阿久津くんは現れなかった。
お昼ごはんを食べているときに麻衣子が「阿久津君今日来ないね」といったとき、何故かドキッとした。
そのとき初めて朝からの、そわそわした気分が阿久津俊介と関係があることに気がついた。
直美が「熱が出たらしいよ」と言ったとき、自分でも分かるくらい無理に無関心を装っている自分に気がついた。
とっさに話を変えなくてはと思い立ち沙希を相手に数学の授業中に宿題になった問題の話をすると、なんで私の最も苦手な数学の話をするの?と笑われて、しゅんとなり、それからあとは何をどう話をしたのか全く覚えていないくらい動揺していた。
放課後に直美、沙希、麻衣子の女子3人と三木、本田の男子2人が自習室に集まった。
女子たちは、穂香の恋心をはぐくみ見守りたいという意見だったが男子二人は、どうすれば良いのかまだ悩んでいた。
だいたい俊介の気持ちはどうなんだ?
秋月穂香が俊介のことを意識し始めていることは女子たちの話で理解したとしても、もし俊介のほうに全くその気がないのなら無駄骨に終わってしまうではないか。
だいいち俊介の口から出る女性の話といえば、アニメかライトノベルの登場人物の女の子の話で、生身の女性の話など聞いたこともない。
男子の間で秋月穂香が男子に興味のない女と噂されているように、俊介もまた女子に興味のない男だと三木も本田も思っていた。
直美たちの気持ちを理解し、協力する気にはなったが俊介の気持ちが分からない以上、いかがなものかと告げた。
「おまえら、やる気あるのかよ!」
直美が強い口調で三木に言った。
「確かに秋月さんなら普通の男子なら有頂天になる……僕だって、本田だって、なぁ」
同意を求めると本田は照れて頭をかいた。
「でも、俊介は違うと思うんだ。あいつは相手から好かれたとしても、それに流されるタイプじゃないと思う。いや、流されないタイプだ!それは友人として断言できる。だから本当に秋月さんが俊介のことを好きになったとしても俊介にその気がなければ、こうして無理やり二人をくっつけようとしても、結果的に不幸な結果を招くだけだと思うんだ」
三木は思い切って思ったままを伝えた。
第三者会議の議題は、まずは阿久津俊介の気持ちを確かめることに決まった。
しかし、どうやって確かめるか……。
下駄箱に偽の手紙を入れておくとか、間違えた集合場所を伝え二人きりにさせて様子を見るとか、グループ交際でどこかに行って途中で二人きりにさせるとか。
最後のグループ交際案に女子三人はノリノリだったが、本田が彼女たちに水を差した。
「少女マンガの読みすぎだよ。大体俊介は、どういうわけか女子を避けることに関しては天才的だから、下手をすると恋をはぐくむどころか逆効果になる可能性だってあるぜ」
本田の意見に皆、しゅんとなった。
阿久津俊介の場合、今は最底辺の成績だけど元々は頭がいい、だから巧みに自分の重要なことを他人にさらけ出すことはない。
俊介が中学までやっていた剣道の世界では、上級者は下級者の隙を見つけられるが、下級者は上級者の隙を見つけることはできないそうだ。
その点で、三木も本田も成績は俊介より上だが俊介の隙を見つけられずにいた。
「ああっ!じゃあ一体どうするんだよ!このまま何もなしに二人がそれぞれの道へ進むのをただ見ているだけなのかよ!」
話がこう着状態になってしまったとき沙希が苛立って言った。
その言葉は、ここにいる皆の気持ちを代弁していた。
*進藤公一視点
進藤公一は母親の車の中で外の景色をぼんやり眺めながら考えていた。
『あの俊介と、秋月穂香……』
進藤は高校一年のときから俊介と同じクラスで、入学後からすぐに話をするようになった。
俊介が不登校になったときも何回かプリントを持って行ったし、休日を利用して月に一、二回くらいのペースでお互いの家に遊びに行き、たまに泊まったりもしている。
三木や他の誰よりも俊介のことを知っていると思っていた。
だから土砂降りの朝、俊介が鈴木麻衣子からお金を借りたと三木から聞いたとき、からかっているのだと思った。
一年のときから今まで、俊介が自ら女子に声を掛けたなど聞いたこともないし、そもそも話をしていても女子の話題すら出てこない。『借りる』という行為は、自ら進んで声を発しない限りまず成立し得ない。
そして、俊介にお金を渡した人物が秋月穂香だと知ったときは、もう完璧に自分を騙しに来ていると確信した。
俊介にとって鈴木麻衣子だって荷が重そうなのに、これまで何人もの言い寄る男子生徒を振ってきたと噂されている、あの秋月穂香だなんて、いくら困った状況だったとしても俊介がそんなハイレベルな相手に声を掛けられるわけがないじゃないか。
もし自分が同じ立場に立たされたとしても、この選択肢は限りなくゼロに近い。
いや「0」だ。
おそらく三木は何かを企んでいる。
俊介に学校のプリントを届けるついでに、そこのところを聞き出そうと考えていた。
小高い丘の上にある団地の一画にある俊介の家の前で車が止まった。
二階にある俊介の部屋の電気が点いていたので話はできる状態だと思い、母親に少し時間がかかることを伝えて車から降りた。
進藤公一はそのまま玄関に向かった。
チャイムを押すと、おばさんが出てきて、朝に三十九度も熱が出て倒れたことと、心配して看病のため会社を休んだのに昼過ぎからケロッと元気になったことを話したあと、二階に向かって公一が来たことを告げた。
階段の上に俊介が出てきて「よう!」と少しバツが悪そうに言った。
公一も「よう!」と返したあと、おばさんに上がって話をして良いか確認して足早に二階に上がった。
「どう?」
「朝、急に熱が出て…でも昼には下がったから明日は行けると思う」
学校で貰ったプリントを渡し、その説明をひととおりしたあと、進藤は切りだした。
「本当に秋月穂香からお金借りたの?」
「ああ、借りた。あの日は傘も財布も忘れていてちょっと早い時間に駅についていたから知り合いもいなかったし、困って立っていたところ声を掛けられたので、つい」
三木たちの言っていたことは本当のことだった。
しかし、声を掛けられたからといって女子から気安くお金を借りられる俊介でもあるまい。
そして『声を掛けられた』とは一体どのような言葉を掛けられたのか?
そこのところが気になったので尋ねてみると俊介から返された言葉に驚かされた。
俊介が言うには『最初おはようと声を掛けられ』たそうだ。
なるほど、そこは想定内、そこからどう傘代を借りたのかと考えていると。
『傘を忘れたと言ったら、自分の傘に入って行くかと言われたので、格好悪いので傘代を借りた。そしたら昼食代も要るだろうからと言ってくれ千円を貸してくれた』ということだった。
つまり秋月穂香は、朝の挨拶をしただけでなく、自分の傘に入ることを勧め、更に要求もされないのに昼食代まで寄こしたのだ。
信じられないが、嘘を言う俊介ではないのでこれは本当のことだ。
これが、お節介で姉御肌の森村直美であれば考えられなくもないが、当事者は男嫌いとも噂されている秋月穂香だ。
状況を考えると秋月穂香の取った行為は仲の良い男女でないと考えにくい行為ではないか?
しかし二人は、いつからこのような親密な関係になっていたのだろう?
進藤公一は余計な詮索はしなかった。
ストレートに俊介に秋月穂香と、いつ頃から付き合っていたのか聞いた。
その問いに俊介は驚いて否定したうえで、会話を交わしたことが、その時が初めてであることを言ったが、その答えは公一を納得させるものではなかった。
公一はさらに秋月穂香に関することで、何か思い当たることがないか、それと俊介の相手に対する気持ちを聞いてきた。
*阿久津俊介視点
秋月穂香への気持ち。
これを公一から聞かれたとき自分がかなり動揺していくのが分かった。
特に特別な感情を持ってはいないが、最近俊介の身の回りで起こっている出来事のすべてが、この秋月穂香と何か関係があるような気がした。
しかし、このことを今、公一に知られるのはまずいと考え、思い当たることを考えているふりをしていた。
思い当たることなど見当たらなかったが、とりあえず一日数回目が合うだけだと答えておいた。
納得したのか公一は、そこで話題を今皆で回し読みしているライトノベルの話に切り替えた。
しばらくすると公一の母親からのメールが入り迎えに来たことを知らせたので、そこで公一は帰った。
玄関のドアが閉まり公一を送り出した後、俊介はホッとした気持ちと、公一を裏切ったような複雑な気持ちに見舞われた。
翌朝、進藤公一は最後に確認しておきたいことがあった。
昨日俊介から話を聞いて大体は理解したつもりだったが最後の決め手がなかったので、それを確認するのだ。
そのために、いつもより少しだけ遅く登校した。
「おはよう!」
教室に入ったとき、思い切って元気の良い挨拶をしてすぐに秋月穂香を見た。
秋月穂香は確かに自分のほうを振り向き「おはよう」と、他のクラスメート同様に朝の挨拶を交わしてくれた。
だがしかし、彼女とは目は合わなかった。
確かに自分の顔は見ているが、見ている部分は目ではなく少しだけどこかにずれていた。
『やはりな…』
教室に入り自分の席に鞄を置くと、すぐに本田の席に向かった。
自分の席より、この位置のほうが確認しやすいからだ。
あとは俊介が来るのを待つ間、本田と話をしたが話の内容は、わざと平凡な内容を選んでいた。
教室に誰か入ってくるたびに秋月穂香を確認したが、女子の場合と男子の場合では目の動きが違うことが分かった。
つまり、女子が教室に入ってくる場合は直接相手の目を見て挨拶するが、男子の場合だと襟元あたりを見ているようだった。
さて俊介が入ってきたときに秋月穂香の目の位置は、どこだろう?
俊介が入ってきた一瞬のタイミングを逃さないために次第に緊張していくのが分かった。
「おはよ~」
いつもの、だるそうな声で俊介が入ってきた。
すぐに俊介のほうに向いた本田とは逆に、公一は俊介に背を向けたまま秋月穂香に注目した。
「おはよう」
秋月穂香は自分が入ってきたときと同様に、教室に入り朝の挨拶をしてきた人物のほうに振り向いた。
そして相手の顔に向けられた大きな瞳が一旦さらに大きく輝いた後、顔を相手に向けたまま一瞬にして斜め下方向に素早く動くことを確認した。
『目と目が合った!』
公一は、そう確信した。
進藤公一は、これで二人のすべてが分かった気がした。いや分かったのだ。
S高に入ってすぐのころから秋月穂香のことは知っていた。
一年とき中学の同級生からすごく可愛い女子がいるという話を聞いて他のクラスまで見に行ったことがあった。
それが秋月穂香だった。
その女子は確かに可愛いし美人だった。
ただ美人というだけでなく、なんとなく秘密めいたものを胸の奥に隠し持っているような不思議な雰囲気があった。
それは暗い秘密ではなく、もうひとつの凛とした魂を隠し持っていた。
今まであったことのないまるでディズニーアニメか何かのお話の中からでも抜け出してきたような感じがする少女だった。
一目見た瞬間に公一は穂香に夢中になった。
次の日から自分の教室に入る前に、わざわざ遠回りして穂香の教室の前を通った。
思い切って廊下で「おはよう」と挨拶をすると向こうからも「おはよう!」と返ってきたときは、天にも昇るような気持ちになった。
しかし、あるとき気がついてしまった。
秋月穂香が自分など見てもいないことを。
確かに挨拶をすれば自分のほうに笑顔を向けて挨拶を返してくれる。
だが、何かが違う。
あの、どこまでも澄み切った大きな瞳に映し出されているのは、新緑の眩しい木々だったり、どこまでも青く高い空だったり、花壇に咲いている小さくて可憐な花だったりしているのに、あの何ものも優しく包み込んで映し出す妖精の森の湖にも似た潤いの中に自分が映し出されている感じがしなかった。
すべてが一方通行だと悟るまでに、あまり時間はかからなかった。
そして、その瞬間に自分の恋する気持ちは大きなダメージを受けた。
ゲームで言うとレベル20の自分が、いきなりレベル1000のボスキャラの攻撃を受けてしまったという感じだ。
短い間だったが、青春っていう甘く酸っぱい果実のほんのひとかけらをかじったような、そんな過去を公一は思い出していた。
しかし今、一瞬だが確実に秋月穂香の瞳の中に阿久津俊介が映し出されたのを見た。
あの妖精の湖に!何も知らずに通りかかっただけの俊介が映ったのだ!
自分を含めたくさんの恋する男子の侵入を許さなかったあの瞳の中に秋月穂香は、俊介を迎え入れたのだ!




