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ベリエラ宿の夜

こんばんは。第二話です。


水曜深夜の王都で、ザインが屋根の上から見届けるもの——。


よろしければ、お楽しみください。


夕方。


王都北区。酒場『鴉の翼』の裏路地。


煙草と安酒の匂い。客の半分は冒険者で、半分は何をしているのか分からない。残りの一割が、俺のような連中だ。


奥のテーブルに、痩せた男が一人座っていた。


情報屋イーゴル。三十年、王都の裏で耳を立て続けている男。貴族の屋敷の使用人にも、商会の番頭にも、賭博場の用心棒にも、繋ぎがある。


俺は向かいの椅子に腰を下ろした。


「久しぶり」


「久しぶりってほどでもねぇだろ。先月も来た」


「気分の問題だ」


「ふん、で、誰だい」


イーゴルが歯の欠けた口で笑った。


「ロウグラント侯爵家のカイル」


イーゴルの口笛が、低く長く響いた。


「上等な獲物じゃねぇか」


「行動パターンと、出入りの場所。それと同伴者」


「相変わらず欲しがる物が決まってるな」


イーゴルは笑い、テーブルの下で指を二本立てた。



「金貨二枚」


「一枚」


「一枚と銀貨五」


「成立」


俺は財布から銀貨を出して、テーブルの下で滑らせた。


イーゴルは羊皮紙の切れ端を、ナプキンの下に置いた。


毎週水曜の深夜、二十三時三十分頃。


高級宿屋『ベリエラ』最上階。


同伴者、子爵令嬢エマリア・トレフォルド。


馬車を使わず、徒歩で裏口から。


「侯爵令息様が、徒歩で裏口から、ね」


「人目を避けたい用事ってこった」


「助かった」


俺は羊皮紙を畳んで内ポケットに仕舞い、立ち上がった。


「気をつけてな」


イーゴルは杯を上げただけだった。


俺は酒場を出た。


◇◇◇


外はもう暮れていた。


王都の路地を、ポケットに手を突っ込んで歩く。


歩きながら、ふと前世のことを思い出した。


東京の六畳一間。煙草臭い灰皿。安いインスタントコーヒー。窓の外を走る環状線の音。


俺は浮気調査専門の私立探偵だった。木下勇。三十二歳。妻も子もない。借金もないが、貯金もない。


仕事は地味だった。


雨でも雪でも、ホテルやマンションの前で何時間も立っていた。報酬は時給制。何ヶ月貼り付こうが、決まった金額しか出ない。


慰謝料の何割かが、依頼人から探偵に回る仕組みだったら、世界は違って見えただろう。


そう考えていた、ある夜。


尾行中、雨の濡れたアスファルトで車に轢かれた。


過労による不注意。それだけだった。


気がつくと、白い空間にいた。


向かいに、ぼんやりと光の中に立つ気配。


神様というものらしかった。


「君にぴったりの世界がある」


身体は、新しい器を貰った。前世のひょろりとした体つきとは違う、よく動く器だった。神様はそれも転生の中に含めてくれたらしい。


行き先は貴族法が整備された世界。


不貞発覚時の自動破棄。慰謝料規定。代理人交渉制度。


——制度は揃っていた。


ただ、肝心の証拠収集は依頼人の自己責任とされている。家門の体面に関わる事案だ。家令や使用人の手で内輪に済ませるのが慣わし。専業で看板を出す者はいない。家門の名誉を商売にするなど貴族の道理に反する、と。


だが、家令には限界がある。よその家門には入り込めない。


そこに隙間がある。


そして『探偵』という言葉も、職業も、この世界の誰も知らない。


——天職だと思った。


◇◇◇


水曜深夜。


二十三時十八分。


『ベリエラ』。


俺は向かいの建物の屋根に伏せていた。冷たい瓦の感触。風。月。


尾行のコツは相手の影を踏まないこと。


張り込みのコツは自分が壁になること。


二十三時三十一分。


裏口に二つの影が現れた。


派手な金髪の男。フードで顔を半分隠しているが、歩き方で分かる。カイル・ロウグラント。


その腕に絡みつく女。エマリア・トレフォルド。香水の匂いが屋根の上まで届くかと思うほどに濃い。


二人は裏口から宿に入った。


俺は屋根を伝って、最上階の窓に近づいた。


カーテンの隙間。灯り。動く影。二人が抱き合うのが見える。


懐から魔導カメラを取り出した。


魔石を装填。レンズを調整。シャッターに指を掛ける。


カシャッ。


魔法めいた軽い音。


カシャッ。カシャッ。


複数枚。顔がはっきり分かる角度で。背景に『ベリエラ』の看板も写し込む。場所と時間の特定ができる構図で。


裁判で有効な証拠の鉄則だ。複数枚。顔。場所。時間。前世から変わらない。


最後の一枚を撮ろうとして、レンズの中にあるものを見つけた。


カイルの上着。内ポケット。そこから何かがはみ出している。


黒い布製の何か。


刺繍された紋章だ。


蛇と、剣。


交差している。


(——なんだ、これは)


俺はその紋章を撮った。


見覚えのない紋章だが、何かの組織の印であることは間違いない。


(——カイル、お前、ただの浮気男じゃないな)


俺は屋根を音もなく降り、月の影に紛れて事務所へ戻った。


◇◇◇


翌朝。


事務所の暗室。フィルムを焼くための、淡く赤い魔導灯がひとつ。薬液の匂い。


俺は魔導フィルムを現像液に浸した。ゆっくりと画像が浮かび上がる。


カイルとエマリアの抱擁。キス。寝室への移動。複数枚。鮮明な顔。背景に宿屋の看板。


「いい写真ですね」


リリィが暗室の入り口に立っていた。腕を組んでいる。


「見えるのか」


「この灯りで十分に」


「夜目が利くな」


リリィは答えず、現像中の写真を一瞥し、それから一歩下がった。


「お部屋にコーヒーをお持ちします」


「頼んだ」


俺は写真を吊るし台にクリップで留め、乾燥させた。


机に向かい、羊皮紙を広げ、羽根ペンを取った。


報告書を書く。


『調査対象 カイル・ロウグラント侯爵令息』

『調査日時 五月の第三水曜日』

『調査場所 高級宿屋ベリエラ』


『行動記録』

二十三時三十一分。裏口より入店を確認。同伴者一名。

二十三時三十三分。最上階窓からの目視。同伴者と抱擁。

二十三時三十九分。寝室への移動を確認。


分単位で。客観的に。主観も憶測も書かない。


前世で何百通も書いた書式だ。手が勝手に動く。


リリィがコーヒーを置いて、机の脇に立った。


「下書きはまた故郷の文字でいらっしゃいますね」


「気を抜くと、出る」


「清書はお忘れなく」


「分かっている」


「日本語のほうが頭の整理が早いんでね」


俺は前世の言葉で素早く下書きをし、それから王国語の正式書式に直す。長年この手順を変えていない。


報告書は十二枚で仕上がった。証拠写真の番号と本文がリンクするよう、欄外に対応番号を振った。


法務官が読みやすいように。


カイルが言い逃れできないように。


俺はインクを乾かしながら、写真を一枚ずつ確認した。


ある一枚で手が止まった。


カイルの上着の内ポケット。例の紋章がはっきり写っている。


蛇と剣。交差。


俺は書架に向かい、本を引き出した。


『王国紋章学辞典』『大陸貴族家系図』『秘密結社の記録』『古代象徴学』


ページを繰る。指を走らせる。


——載っていない。


王国にも、隣国にも、教会にも、商会にも、武装集団にも。


蛇と剣を交差させた紋章は、どこにも記載されていない。


「リリィ」


「はい」


「これを調べてくれるか」


俺は写真の複写を一枚渡した。


リリィは紋章をしばらく見つめた。


「ヴィオラ様のご依頼、外のお調べですね」


「俺の自腹だ。経費には乗せない」


「では、私の給金にも少々お色をお付けくださいませ」


「無理だ」


リリィは紋章の写しを丁寧に折りたたみ、エプロンのポケットに仕舞った。


「しばらくお時間をいただくかと」


「頼んだ」


リリィはドアの手前で振り返った。


「ご主人様」


「ん」


「気のせいだといいですね」


「ああ」


俺は机に向き直り、報告書を綴じ、表紙を付け、紐で結んだ。


明日、カイル・ロウグラントを終わらせる。


机の上で夜の灯りが揺れた。


写真の片隅に、蛇と剣が交差した黒い紋章。


——蛇は、剣に巻きついて、こちらを見つめているように見えた。


お読みいただき、ありがとうございました。


ご感想・ブックマークをいただけましたら、たいへん励みになります。


続きまして、第三話を本日中にお届けします。

よろしければ、もう少しだけ、お付き合いくださいませ。


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