探偵の朝
こんばんは。戸坂咲と申します。
このたび新しい連載を始めることにいたしました。
王都の路地裏で、ある異国の言葉の看板を掲げる男のお話です。
第一章は全五話完結。
本日と明日と明後日の三日間で、最後までお届けする予定です。
少しでも楽しんでいただけたら、とても嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
朝七時。
王都ベルゲンの路地裏。煤けた石畳の突き当たりに、小さな看板が一枚下がっている。
『探偵 ザイン・コノエ』
異国の言葉だ。この世界の誰も知らない。
俺はソファに仰向けで寝ていた。シャツのボタンは半分外れ、タイは緩み、テーブルの上には空のグラスとビール瓶が三本転がっている。
最後にまともな張り込みをしたのは、二ヶ月前のベリエラ宿だった。雨と風と、冷たい石壁。あれ以来、ろくな仕事もない。昨夜はソファでビールを三本空けた。ベッドまで歩く気力もなかった。
カチャリ、と鍵が回る音がして、ドアが開いた。
冷たい空気が部屋に流れ込む。
「ご主人様、起床のお時間でございます」
俺は薄目を開けた。
うちのメイド、リリィ・ハーケンスが立っていた。十九歳。銀髪のショートヘアー。エプロンドレス。盆の上にはコーヒーポットと、よく磨かれたカップが二つ。
俺は片手を上げて、寝返りを打った。
「あと五分」
「五分前にもそう仰いました」
「あと五分」
「失礼いたします」
リリィは盆を机に置くと、俺の頭の下から枕を抜いた。
何の予告もなく。
俺の頭がソファの肘掛けに、こつんと音を立てて落ちた。
「リリィ」
「はい」
「酷いな」
「お時間でございます」
リリィはテーブルの上のビール瓶を一本ずつ盆に乗せていく。三本目を乗せたところで、空のグラスを持ち上げ、軽く匂いを嗅いだ。
「昨夜はお一人で?」
「一人だ」
「お寂しいことで」
「気にするな」
リリィは盆を持ち上げ、俺に背を向けた。
その背中越しに、付け加える。
「本日のご予定は九時からです」
「ん」
「カーシェント伯爵令嬢ヴィオラ様」
俺は跳ね起きた。
ソファのスプリングが軋む音を立てた。
「伯爵令嬢?」
「はい」
「ご婚約者はロウグラント侯爵令息でいらっしゃいます」
「侯爵令息」
リリィは振り返らなかった。
「リリィ」
「はい」
「もっと早く言え」
「最初に申し上げました」
「身分の話を最初に言えと」
「そのようなご様子ゆえ、二ヶ月もお声がかからないのではないでしょうか」
俺は壁の鏡に向かい、シャツのボタンを留めた。タイを締め直す。髪を整える。
鏡の中の男が、変わる。
ソファに沈んでいた男ではなく、客の前に出る男になる。
棚には感謝状の束が並んでいる。
『縁が切れて、自由になりました』
『あなたなしでは、私は終わっておりました』
『神に感謝を』
もう、いくつ貰ったか、覚えていない。
リリィは机を拭き終え、雑巾を畳んだ。
俺はネクタイを締め終えながら、棚の感謝状の束のことを、ふと思い出した。
最後の一通は二ヶ月前。最近、依頼の間隔が空き気味だ。
(——侯爵令息相手の慰謝料は、最低でも金貨千枚。三割は俺の取り分だ)
時計が八時五十分を指していた。
◇◇◇
九時ちょうどに、ノックが三回。
控えめだが、迷いのないノックだった。
リリィがドアを開ける。
「カーシェント伯爵家、ヴィオラ様、ご来訪です」
「お通しして」
ヴィオラ・カーシェントは最初の一歩で立ち止まり、看板を見上げ、小さく頷いてから入ってきた。
銀髪。水色の瞳。控えめな仕立てのドレス。その目元に薄く隈が浮いている。何日か、ろくに眠っていない顔だ。
俺は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「お待ちしておりました、ヴィオラ嬢。どうぞ、お掛けください」
「失礼いたします」
ヴィオラはソファに腰を下ろした。背筋は伸びている。膝の上で組まれた手の指がほんの少し震えていた。
俺は彼女の正面に座った。
「失礼ながらひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「ここのことは、どなたから」
「アニカ・ヴェルドミ子爵令嬢から伺いました」
俺は棚に並ぶ感謝状の一通を思い出した。
『縁が切れて、自由になりました——子爵令嬢アニカ』
二年前の依頼人だ。
「『辛いときは行きなさい』と仰せでした」
俺は黙って頷いた。
二年前の縁が、二年経って、また一つ運ばれてきた。悪くない流れだ。
それからヴィオラの左手の薬指を一瞥した。
銀色の指輪。表面にはロウグラント侯爵家の紋章。
「ロウグラント侯爵家のご婚約者ですね」
「はい」
「ご家族には」
「知らせておりません。お忍びで参りました」
「お一人で?」
「使用人を馬車のところに一人だけ」
「分かりました」
(——カーシェント家は商業区に大きな商会を持つ伯爵家。三代前に位を買った新興。対するロウグラントは武家系の古参侯爵。家紋に剣)
(——両家の縁組はよく組まれている。カーシェントは家門の格を、ロウグラントは商会の資金を期待する。それが順当な見立てだ)
俺はそれ以上は確認しなかった。
身分も、立場も、訊くべきことは訊いた。あとは彼女が話す番だ。
リリィがコーヒーを差し出した。湯気が立つ。
ヴィオラはカップを両手で包んだ。指先が温まっていく。
俺は机から羊皮紙とペンを取り、待った。
仕事の半分は、待つことだ。客が自分の口で、自分の話を語り始めるまで。
ヴィオラはしばらくコーヒーを見ていた。
◇◇◇
ヴィオラはぽつりぽつりと話し始めた。
婚約者はカイル・ロウグラント侯爵令息。三年前、ヴィオラが十七のときに婚約が結ばれた。
カーシェント家は商家寄りの伯爵家で、ロウグラント侯爵家との縁は両家にとって悪くない取り決めだった。
カイルは社交の場では如才なく振る舞い、ヴィオラに対しても最低限の礼儀は守っていた。
「それ以上のものはございませんでした」
ヴィオラは目を伏せた。
「気付かないふりをしておりました」
半年前から不審を抱き始めた、と言った。
最初は屋敷の使用人の噂。次に、夜会で耳にした他家の令嬢の含み笑い。それから、カイル本人が月に一度は決まった曜日に「家の用事」と称して出歩くこと。
ヴィオラは三度、それとなく訊いた。
三度とも、はぐらかされた。
「夜会のお話、相手のお名前までお聞きですか」
「子爵令嬢エマリア・トレフォルド様」
「ふむ」
「私が勝手にそう思っているだけかもしれませんが」
「いえ、当たりだと思いますよ」
ヴィオラが顔を上げた。
「なぜ、そんなことが——」
「探偵の勘です」
ヴィオラはほんの少し笑った。それは彼女が事務所に入ってきてから初めて見せた笑いだった。
俺はペンを止めた。
「ヴィオラ嬢」
「はい」
「最後にひとつだけ、伺います」
「どうぞ」
「貴方の本心を聞かせてください。家の事情は、いったん脇に置いて」
ヴィオラは膝の上の手を強く握り合わせた。
両親の借金。商会の事情。侯爵家からの援助。家門の名誉。
そういうものが彼女の中で渦を巻いているのが分かった。
俺は急かさなかった。
待つのがこちらの仕事だ。
長い沈黙の後、ヴィオラはゆっくりと顔を上げた。
「終わらせたいです」
「分かりました」
俺はメモ帳を閉じ、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
表題が黒インクで書かれている。
『探偵業務委託契約書』
ヴィオラはその文字を見つめた。
「お訊きしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「看板にも契約書にも『探偵』と。ずっと、何のお仕事かと思っておりました」
「真実を調べる仕事です。私の故郷の言葉で」
「ご故郷……」
「遠い国です」
ヴィオラはそれ以上聞かなかった。聡明な令嬢だ。
俺は契約条件を口頭で説明した。
不貞調査、示談交渉、婚約破棄代行。すべて込み。報酬は成功報酬制で、慰謝料の三割。失敗すれば一銭も取らない。調査経費もこちら持ち。
ヴィオラは聞き終えると、契約書を最後まで読み込み、第三条のところで指を止めた。
「『証拠はすべて依頼人にお返しする』」
「はい」
「写真も、報告書も、ですか」
「お渡ししたあとは、私の手元にも残しません」
「なぜ、そうなさるのですか」
「貴方の私的な記録を、私のところに置いておきたくないので」
ヴィオラはしばらく契約書を見つめていた。
それからペンを取った。
ヴィオラ・カーシェントと署名された。
整った字だった。
俺は契約書を二つに折り、控えを引き出しに仕舞った。
「では、お引き受けします」
「よろしくお願いいたします」
ヴィオラは深く頭を下げた。
それから左手の薬指に手を添え、銀の指輪をゆっくり外した。
ハンカチに包み、ハンドバッグの内ポケットに仕舞う。
俺は何も言わなかった。
ヴィオラは長く息を吐き、立ち上がった。
事務所のドアが閉まり、馬車の音が遠ざかる。
リリィが空のカップを下げた。
「ご主人様」
「ん」
「コーヒーのお代わりは」
「いらない」
俺はソファの背もたれに沈んだ。
仕事が始まった。
机の引き出しを、片手で開けた。
魔導カメラ。指先に金属の冷たい感触が馴染む。
カイル・ロウグラント侯爵令息——お前が今夜どこで誰と何をしているか。
明日の朝までに、すべて分かる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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第二話・第三話も本日中にお届けする予定です。
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