はじめの第一歩
『初めの第一歩』って、今時の子どもさん知ってるのかなぁ。
私が子どもの頃は誰でも知ってたけど…
神様に手を引かれて降り立ったのは、わたしが生前住んでいた場所に似た場所だった。
山ではないけれど、うっそうと茂る雑木林の雰囲気がよく似ている。
「ほわー……」
思わずため息が零れた。
「とりあえず『普通に生活したい』って聞いたからここにしたんだけど、他に住みたいところってある?」
「他に、とは?」
「空の上とか海の底とか」
「いえここがいいです」
食い気味に答えると、軽く苦笑された。
いやだってそんなとこでどうやって生活するんだって話だし、そもそも住めるわけがない。
「私が結界を敷けばどうとでもなるよ。移動も魔法陣でできるし」
「それ普通じゃないですし」
そう言いながら首を巡らすと、可愛らしいログハウスっぽい家が目に入る。
「まあ、そうだね。さあ、ここが今から君の家だよ。どうぞ」
……神様にエスコートしてもらうとかいいんだろうか。
「気にしない。さっきも言ったけど、君は私の子も同然なんだからね」
自分の子はこんな風にエスコートしないと思う。少なくとも腰は抱かない。
「あのー。神様?」
「トライン」
「はい?」
「私の名前。神様、なんて呼ばないでほしいな」
そう言ってにっこり笑う。
神様ってそんな簡単に名乗っていいものなんだろうか。女神様は名乗らなかったよ? しかもそれ呼んで良いものなの? それとも通称だったらいいとかかな。
いや違う。
そうじゃなくって。
問題は腰にまわされたこの手なんだってば。
女神様ぁーーっ!
この神様チャラいですーーーーっ!!!
内心で絶叫するわたしの気持ちを知ってか知らずか
「ちなみに向こうの彼女はイアル。君はもう会うこともないだろうけどね」
にこにこと人好きのする笑顔を向けてくる。
しっかりと腰をホールドしたままで。
……うーむ。
失敗したかも。
こんなスキンシップ過多の神様だったなんて。
いや待って。なんで神様がまだここに居るんだろう。
普通……ってここの普通は知らないけど、ここまで送って貰えるだけでもかなりの大盤振る舞いなんじゃないだろうか。
「あの……。神様?」
「だから、トライン。次から返事しないよ」
いやあの、っていうか次があるのか。それはいいのか。
「…………トライン様」
「なに?」
「ここまで送っていただいてありがとうございました。後はわたし達だけで大丈夫です」
ぺこりとお辞儀をして見上げた視線の先には、思いっきり拗ねた顔の神様がいた。
「か……トライン様?」
危ない危ない、また神様って呼ぶところだった。呼ぶのは問題ないけど、それでへそ曲げられるのが怖い。
「まったく他人行儀だねぇ」
……他人だし。
「普通の人間は神様に対して馴れ馴れしくしないと思いますけど……」
「普通の、ね。……まぁとりあえず、案内がてらこの家の設備を説明するよ。ついてきて」
「あ、はい」
なんだか微妙な間があった気がするけど、正直説明は助かる。使い方わからないものがあったら困るし。
玄関を入るとまず吹き抜けのホールがあって、ホールの縁を伝うように2階へ上がる階段があった。
色々あるという1階は後回しにして、まずはパーソナルスペースになる2階へ。
廊下を挟んで2部屋ずつの合計4つの部屋があって、雪花とルチルにも1部屋ずつ割り当てられる。
それぞれの部屋には木目も美しいクロゼットと書き物机、ふかふかの大きなベッド。
奥の一部屋にだけドレッサーがあったから、必然、そこがわたしの部屋なんだろう。
別に使わなくてもいいんだけど。
「用意したんだから使って?」
「身だしなみというものは大切だと思うのだが」
だって顔洗うのは洗面台だし。それって1階だし。
「織葉さんってそういう人だよね……」
どういう意味だ。
雪花とルチルは、それぞれどの部屋を使うのかは後で決めるとのことで、1階に降りる。
日の光が差し込む広々としたリビングには暖炉があって、続き間となっているキッチンのコンロはなんと4つ口。
水回りや棚の配置とかは地球での家に似ていて戸惑わなくて済みそうだし、それ以外も使い勝手がよさそうだ。
コンロが若干高いかもしれないくらいか。
でも、なによりわたしが感動したのは。
「温泉だぁぁっ!」
そう。
なんと温泉露天風呂があったのだ。
お風呂設備はちゃんと揃ってるのに、勝手口のような外に続く扉があったから開けてみたんだよね。
そしたらそこには岩造りの浴槽が鎮座ましましていて、滾滾と湧き出る乳白色のお湯からは微かに硫黄の臭いがした。
日本人の御多分に漏れず、わたしも温泉は大好きだ。
ほわほわと立ち上る湯気は、暑いわけでもない気温と相まって、非常に心惹かれる様相を呈している。
「うわぁ、ありがとうございます! すごい嬉しい!」
「やっと笑った」
「え?」
見上げる先には、穏やかな眼差しの微笑み。
「君ね、顔がずっと強張ったままだったんだよ。だから、笑ってくれて安心した」
ぽんぽん、とトライン様がわたしの頭を撫でた。
その、瞬間。
「あ、れ……?」
突然視界が歪んで、喉が詰まって。頬を、熱い雫が滑り落ちた。
「あれ、なんで……? なんだこれ……」
ごしごしと手のひらで拭うけど、あとからあとから零れる雫は止まらない。
「織葉さん……」
「織葉殿……」
雪花とルチルが足元にすり寄ってきた。
それにかまう余裕もなく、立ち尽くしたまま、ただただ涙だけが頬を零れ落ちていく。
「やれやれ……」
頭の上で声が聞こえたかと思うと、視界が暗くなった。
「いいから泣きなさい。君はいろんなことを閉じ込めすぎる。時には出してあげないと、君自身がパンクしてしまうよ」
優しい声が、耳に滑り込んでくる。
視界が暗くなったのは、トライン様のローブっぽいお召し物がわたしを包み込んだから。
外界の全てを遮断するかのようにすっぽりと包まれて、足元にはふわふわすべすべした毛並みを感じて、わたしは干からびるんじゃないかと思うくらい、泣いた。
「…………すみません……」
どれくらい泣いていたのかわからないけれど、我に返った時、わたしはなんとトライン様にしがみついてしまっていた。
そろりと腕を外して身を離すと、やっと止まった涙の名残を手の甲で拭ってから、顔を上げる。
ものすごく居た堪れないし、ものすごく不細工になっている自信もあるけど、顔も見ないでお礼を言うのは違うだろう。
「すっきりした?」
「はい。泣きすぎてちょっと頭が痛いですけど。……抱きついたりしてすみませんでした」
頭を下げたわたしに、からかうような声がかけられる。
「こういうの、なんて言うか知ってる?」
意味深長な笑みの意味がわからなくて、首を傾げる。
「役得、って言うんだよ」
やくとく。
言葉の意味を脳内検索していると、ふわ、と視界を影が過ぎって
「隙あり」
トライン様が、わたしの頬に口づけた。
「……っ」
反射的に頬を抑えたわたしは、頭の鈍い痛みが消えていることに気付く。
擦り過ぎてひりひりしていた目尻の痛みも。
「……ありがとう、ございます」
もう少し方法はないのかと思わないでもないけど。
「それじゃ、今日の所は私の役目は終了かな」
「ありがとうございました」
……ん? 今日のところは?
「また様子を見に来るよ。だけど、何かあったら名前を呼んで。私の名前を知ってるのは君達だけだから、この世界に居る限りは絶対に聞き逃さない」
「まず呼ぶことはないと思いますけど」
「多分私が思うのとは意味が違うね。まぁこの家と周囲には私とイアルの力が働いてるから、並みの魔物じゃ近付けないはずだし大丈夫か。ただ、君にはなぜか私の祝福が普通とは違う形でかかってしまったから、もしかしたら、何かあるかもしれない」
「えぇ……」
「じゃあまたね。……じゃないや、忘れるところだった。イアルとの約束を果たさなくちゃ」
そう言ってトライン様は、カリッと左薬指の根元に歯を立てた。血が流れだすのを確認してから、なにかわたしには理解のできない言葉を紡ぐ。光がきらきらとその指に絡みついて、溢れ出していた血液が小さな結晶体に姿を変えた。
「ん、うまくできた。おいで織葉」
初めて名前を呼ばれて、なぜか体が勝手にふらりと引き寄せられる。
「うーん。どこがいいかな……」
近寄ったわたしをしげしげと眺めて、思案気な顔をするトライン様。
「やっぱり耳かな」
何の話?
「君、利き手ってどっち?」
「どっちも使えます」
「使える方じゃなくて、生まれつきの方」
「じゃあ左です」
わたしの生まれ育った時代は、左利きは恥ずかしいものだったから、右に矯正されたんだよね。今となっては両方使えるっていうのはなかなか便利だから悪くないと思ってるけど。
「……そうやって押し込めてきちゃったんだね」
トライン様は薄く眉を寄せながらそう言って、わたしの左耳にそっと指を滑らせた。
「ひゃっ?!」
ぞくっとすると同時に、何かちくっとした感覚。
「ん、出来た。これが私の加護の証。イアルに約束したものだよ。……これがある限り、君は君の意思を守ることができる」
左耳に手をやると、何か硬い石のようなものが指先に触れる。
「見てごらん」
手鏡を渡されて覗き込んでみると、左の耳朶に小さな紅い石が埋め込まれていた。
……ルビーのピアスみたいだな。
そう思いながら鏡の角度を変えて見た瞬間、ものっっすごい違和感を覚える。
手鏡を離して見て、何やら信じ難いものが映った気がした。
気のせいであっていただきたいんだけど、ええと、鏡。
手鏡じゃなくて、もっと大きいの。洗面所にあったかな。
ぱたぱたと家の中を走る。
お行儀とか構ってられるか。
そして。
「これ誰ーーーーっ?!」
わたしの絶叫が、響き渡った。
お読みいただきありがとうございます。