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河上顕真物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第9話  計算式(データ)の崩壊

第9話  計算式データの崩壊


 四回表、一死満塁。

 電光掲示板に無慈悲に刻まれた「〇対五」の絶望的なスコアを背負い、河上顕真はマウンドの頂点に立っていた。

 バッターボックスには、宮島女学院の一番打者・駿河。彼女は不敵に唇を吊り上げ、顕真の耳が聞こえないことを織り込み済みのデータとして処理するように、静かにバットのヘッドをマウンドへと向けた。

(データはすべて頭に入っているわ。中学公式戦の初登板、いくらキレが良くても、この満塁の重圧ならストレートが真ん中に集まる確率は八割以上――)

 だが、彼女は知らなかった。顕真の精神は、プレートを踏みしめた瞬間に、すでに完全な静寂の城へと反転していることを。

 駿河の指先がグリップを握り込むわずかな力み。セカンドランナーのリードの、ミリ単位の歩幅の広がり。すべての情報が、音のない世界の中で、異様な高解像度で顕真の脳細胞に処理されていく。

(データ野球か。だったら、その計算式ごと、マウンドの上で粉々に叩き割ってやる)

 初球。顕真の左腕が、しなやかに鞭打った。

 一切の音を置き去りにして放たれたのは、回転軸が地面と完全に垂直な、渾身のフォーシーム。

 駿河がピクリとも動けないまま、インコースの過酷なコースへ突き刺さった白球を、捕手・野村のミットが強烈な物理的質量で受け止める。その風圧で、打者の前髪が激しく揺れた。ストライク。

(な、何よこの球……! 垰田の直球とは、手元の伸びの次元が違う……!)

 驚愕に目を見開く駿河に対し、顕真は間髪を入れず二球目を投じる。全く同じフォーム、全く同じ軌道から放たれた、今度はアウトローへ鋭角に激変する高速スライダー。

 バットは動かない。完全に手元で消える軌道に、審判の右腕が上がる。ツーストライク。

 直球と、その軌道から曲がるスライダー。その二つの残像を脳内に焼き付けられた駿河は、三球目、完全に直球のタイミングでバットを始動せざるを得なかった。

 だが、顕真の左腕から放たれたのは、あえて球威をわずかに殺し、打者の手元でさらに一瞬だけ手元で手前に沈む、極上のスライダーだった。

 ――スイングの風切り音すら、顕真には聞こえない。

 ただ、駿河の完璧なデータに基づいたスイングが、白球のわずか上を空しく通過していく視覚だけがそこにあった。空振り三振。これでツーアウト。

 宮島女学院のベンチから、静かな驚愕の空気が漏れ出すのが見えた。

「データのキレを超えている……。あの左腕、マウンドの上でウチの裏をかいてる!」

 二死満塁。打席に入ったのは二番の葛城だ。

 葛城はバットを極端に短く持ち、なんとしてでも球に食らいつこうと、必死の形相を剥き出しにしていた。

 だが、無音の世界に生きる顕真の観察眼は、どこまでも冷徹だった。葛城の右足の踏み込みが、外角の球を「当てること」だけに意識を集中させている小幅なものであることを見抜く。

(当てるだけで精一杯なら――内角を突けば、勝手に詰まる)

 顕真は深く息を吸い込み、この日一番の鋭いテイクバックから、全身のバネを爆発させた。

 奥歯が軋むほどの食いしばり。左指の触覚が、白球の縫い目を完璧に引き裂く。

 放たれたのは、この日最速の、インコース高めへのフォーシーム。

 外角を意識していた葛城の胸元へ、重力を無視してホップしながら迫る白球。葛城が本能的に振り抜いたバットは、顕真の圧倒的な球威に完全に押し負けた。

 ボガッ、という鈍い破裂の残像。

 芯を完全に外された打球は、推進力を失って力なく真上へと跳ね上がった。顕真は一歩も動かず、マウンドの頂点で、ただ静かに落ちてくる白球をグラブの奥底へと収めた。

 ピッチャーフライ。スリーアウトチェンジ。

 一死満塁という、これ以上ない絶体絶命のピンチを、顕真はたった二人の打者を完璧にねじ伏せることで、無失点で切り抜けてみせたのだ。

 その瞬間、グラウンドを包んだのは、東中ナインの地響きのような大歓声だった。

 宮島女学院の選手たちは、自分たちの精緻な計算式を、たった二つの球種(直球とスライダー)だけで完全に破壊され、唖然として立ち尽くしていた。

 ベンチに戻る顕真の頭を、野村がグラブでバシバシと叩いて祝福する。顕真はニカッと白い歯を見せてそれに応えた。

 ベンチの最前列、パイプ椅子に深く腰掛けた北別府が、ニヤリと狂おしい勝負師の笑みを浮かべて顕真を見上げた。

「大した野郎だ。相手の紙切れみたいなデータを、ただのゴミクズに変えやがったな。あの女どもの『無音のシンクロ』を、お前の『無音の狂気』が上回った証拠だ」

 顕真は汗を拭い、ひなたから手渡された冷たいスポーツドリンクを一気に飲み干すと、宮島女学院のベンチをギロリと静かに睨みつけた。

 無音の怪物の快進撃は、初の対外試合という戦場において、相手のプライドを完璧にへし折る圧倒的なキレをもって火を噴いた。五点差。だが、逆転への狼煙は今、東中グラウンドに最も熱く、静かに上がったのだった――。

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