第64話 陰木紬季の正体④
日暮れ。近所の人の助けも借りる事で縄から降ろされた母親は、今は布団の上だ。その傍らに寄り添う陰木には、生気が感じられない。室内は既に暗闇に覆われ、往来の電灯だけが光る中、蛍光灯すら点けずにいる。
陰木はひたすらに、ジッと座り込んだままで、母の亡骸を眺めていた。その様を凜花は直視できず、静かに顔を背けた。
「クソッ。どうしてこんな事に……。さすがに可哀想だろうがよ……」
直視できないのは、母親を失った自分と重なるからだろう。隣の衣織もまともに口をきけない。傍からでも聞こえる程に長い呼吸も、ひどく震えていた。
陰木はどれほどジッとしていただろう。何ら食事を摂らないまま、ただ時おり母の頬を撫でるだけで、一向に傍を離れなかった。だが、やがて何かに気づいたらしく、ようやく僅かな自我を見せた。
久しぶりに聞こえた陰木の声は、かすれていた。
――そうだ。幸運の首飾りを、お母さんにあげよう。天国でお父さんに会えるように。
陰木はふらりと立ち上がると、俯きながら部屋を出た。オレたちなど全く見えていないようで、何かに導かれるようにして、2階の子ども部屋へと向かった。
部屋の奥にある書き物机。そこに並んだ引き出しを開けたところで、硬直した。薄く開かれた陰木の瞳は、徐々に大きくなり、この受け入れがたい現実を凝視した。
――ない、ない、ないよ! どうして!? 大切にしまっておいたのに!
陰木は狂乱したかのように、あらゆる引き出しを開いた。それでも見当たらず、収納の全てを開け、ひっくり返し、思い出の品を探し求めた。
壁にかけた制服も投げ散らかした。テーブル上の作りかけのアクセサリーですら、道具箱ごとブチ撒ける騒ぎだ。しかし、そうまでしても見つからない。陰木は、小物で散乱した部屋で膝を着いてしまった。
――どうしてどこにも無いの……。捨てずにとっておいたのに。
その時だ。陰木のスマホに通知があった。それは友人の円香からで、『アクセまだ?』と催促するチャットだった。
陰木は震える手で返信しようと試みたが、まともに文字を打てない。結局は通話ボタンを押した。
――あい。何か用? つうかアクセ早く頼むわ。
――あの、ね、今それどころじゃないの。お母さんが死んじゃって、色々あるから。
――ふぅん。でもそれ、こっちに関係ない事情じゃん。とにかく急ぎで。できれば今日中ね。
――無理だよそんなの。とてもじゃないけど、何か作る気分にだなんて……。
――あのさ、それじゃ発送に間に合わないじゃん。困るんだよね、評価落ちたらクソだるいし。
――発送? 友達の女優にあげるんじゃなかったの?
――あ〜〜うん、そう。ちょっと遠方に居るから郵送すんの。とにかく早く作れよマジで。こっちにも色々あんだから。それじゃあ。
――待って。それより首飾り知らない!? 黒いナイロン紐とビーズで作ったやつ!
――はぁ? 今はそんな事どうでも良いだろ。
――円香ちゃんは私の部屋のもの、しょっちゅう持ち出したでしょ!? 返して! あれは大切なもので、今すぐ必要なの!
――うるせぇぞ陰キャのカス女が! 調子乗ってんじゃねぇぞ!
――円香ちゃん……?
――とにかく今日中に作れ。出来なかったらアレだ。マジで許さねぇから覚悟しとけよ。
通話は一方的に切られた。陰木はスマホを手のひらから落とすと、ただ呆然と座り込んだ。あまりのショックで現実を受けとめられないようだ。
凜花がそっと呟いて、憤りを露にした。ここが屋外だったら、唾を吐き捨てたかもしれない。
「とんでもねぇヤツ……。悪い女に目をつけられたんだな。盗むし、せびるし、終いには脅す。今すぐにでもブチのめしてやりてぇわ」
「同感だ。人でなしという言葉がよく似合う」
「なぁワタル。いっそのこと、円香とかいう女を懲らしめてやろうぜ。腹の虫がおさまらねぇよ」
「やめとけ。所詮は精神世界の話だ。オレ達が憂さ晴らししても、大きな意味なんて無い」
出来ることは少ない。ただこうして、離れた場所から黙って見守ることくらいだ。陰木のあどけなさを残す背中に手を添えて、優しい言葉の1つでもかけてやりたい。そう感じてしまうほど、彼女の人生は悲惨だった。
やがて陰木は、静かに行動を起こした。スマホで何かを調べたかと思うと、そのままフラリと立ち去った。おぼつかない足取りで向かったのは玄関で、スニーカーを履いてはいずこかへと立ち去った。解けかけた靴紐に気を払う事もなく。
「なぁワタル、陰木の奴はどこへ向かったんだ?」
「分からん。だが、追うしかないだろう」
「2人とも見てください! 廊下に突然ドアが!」
衣織の指差す方には、独特な威圧感を放つ扉が出現した。宙に浮くようであり、その取っ手も濃紫色の霧らしきものに包まれていた。
「この先に何かある。心の準備はいいか?」
問いかけると、凜花も衣織も頼もしく頷いた。それを見て、静かに扉を押し開けた。
その先に通じていたのは、商業施設だった。オレが取っ手を握るドアには『スタッフオンリー』の文字が描かれていた。
「ここはどこだ。駅ビルかファッションビルのようだが……」
付近の買い物客は多い。フロアにもエレベーターにも、学生をはじめとした若者の姿が見られた。有象無象な雑踏の音が聞かれる中、それを切り裂くような大声が鳴り響いた。途端に、オレ達は緊張から身構えた。
「今の声は陰木だな。どこにいる?」
「あそこだ! テーブル席のところ!」
凜花が鋭く指差すのはファストフード店だ。そこでは円香たち数名がテーブル席に座り、息を切らした陰木が話しかけていた。
オレたちも速やかに向かう。そして離れた席から、そっと様子を窺った。
――お願い円香ちゃん! ビーズの首飾りを返してよ!
――うわ、クソうざ。こんな所まで追いかけてくるなんて、ストーカーじゃん。
――もうチョーカーはいいから。新しいのも作るから。だからせめて首飾りだけは返して! 特別なものなの!
――うっせぇな。それなら売っちまったよ。小銭で。
――えっ……。売った?
――クソ汚ねぇし古臭いしブサイクだったから、安値で出したんだけどさ。全然売れねぇの。んで、10円で出したらやっと売れたんだわ。
――嘘でしょ……。
陰木がよろめいて、膝をついた。そんな彼女の額に何かが投げつけられた。それは床の上で音を立てて回り、冗長に踊った果てに静止した。
それは円香が放り投げた10円玉だった。
――そんなに欲しけりゃくれてやるよ。10円ごときでガタガタ抜かしやがって。
その心無い台詞に、円香の取り巻きたちが腹を抱えて嗤い出す。気に食わない声の響きだ。そう思うと同時に、オレの奥歯がギシリと鳴った。
円香はオレたちの憤激など全く知らず、尊大な態度を崩さなかった。
――なぁ紬季。テメェはいっつもケチケチしてたよな。ちょっとモノ借りたくれぇで喚きやがってよ。
――どうして。円香ちゃん、なんでこんな事するの……。
――テメェがぼっちの陰キャだったから、パシリに使えそうと思ったんだよね。ちょっと良い顔したら尻尾振ってきたし。後は貢がせ放題になるかなって。でも意外と難しいんだよな、思うように踊らせるのは。これは修行が必要だわ。
――どうして、円香ちゃんは、そんな美人なのに……。キレイなのに……。
――つうか、残りのチョーカー早く作れよ。遅れたらマジで始末すんぞ。怖いお兄さんに売り飛ばしたりな。
円香が鼻で嘲笑うと、取り巻きにアゴで合図をした。そして立ち去ろうとしたのだが、手首を陰木に摑まれたことで立ち止まった。
――離せよテメェ。マジで始末すんぞ。
――どうして円香ちゃんは美人なのに、心はこんなにも汚いのかなぁ? カナカナ?
――あんだと? 死にてぇのかオイ!
――そうだよね。円香ちゃんに裏切られた時、アタシは覚醒する前だった。だから泣き寝入りしたけど、今は力が使えちゃうもんね。ねぇぇぇ?
――何をブツブツ言ってんだ、いいから離せよキモ女!
円香が摑まれた手を振り払おうとした瞬間、彼女の身体に異変がおきた。若々しい肌から黒い霧が噴出しはじめたのだ。それは摑まれた手首から始まり、腕を伝って、やがて全身にまで波及した。
ひとしきり霧を吹き出した後は、もはや人の姿をしていなかった。無機質な光沢をもつマネキンへと変貌していた。
「ふふっ。要らないよね、円香ちゃん。そんなに汚い心なら、無い方が絶対に良いよねぇ」
陰木が円香の頭を鷲掴みにした。すると、ギシギシという、何かが絞まる音が聞こえるようになる。
円香の方は、抵抗するどころか、瞬きひとつしない。いや出来ないのか。唯一、反応を示したのは指先だ。それが小刻みに動くことで、何らかの意思を表すようにも見えた。
「良いね、良いね円香ちゃん。顔だけじゃなくて声もキレイだもんね。さすがスカウトされるだけあるよ、うんうん。だからたくさん聞かせてほしいな。何だって良いから、命乞いでも良いからさぁ」
ギリギリギリ。不快な音がフロアに響き渡るようだ。円香の指先も、何かを伝えようと忙しなく動く。
だが、陰木が手を緩める事もない。周りには取り巻きたちの姿は無く、腰を抜かして逃げた後だった。
「汚い心なら要らないよねぇ。そんで心が無かったら、痛いも怖いもないよねぇ。そうでしょ、ねぇったら! ハッキリ言いなさいよ!」
ギリギリギリギリ。絞まる頭蓋。目まぐるしく動く指先。いたぶるような時間は、どれほど過ぎたのか。オレ達は目を離すこともできず、ただ成り行きを見守り続けた。
そして遂に一線を越えた。甲高い破裂音が辺りに鳴り響く。すると、円香は鼻から上の全てを失った。陰木の手から逃れたことで、硬直した身体がソファに倒れ込んだ。
陰木はというと、もはや本体の方は見ていなかった。周囲に散らばった破片を踏み砕いて回った。頭皮だったもの、耳だったもののパーツを、丹念に丹念に破壊していく。
そして最後のパーツである、瞳を砕いたのち、笑い声をあげた。天井を向き、遠くまで響かせるかのように。
「あぁおかしい。なんで人間には心があるんだろうねぇ。感情なんてものが無かったら、哀しみも苦しみも無かったのに。アンタたちもそう思うでしょ!?」
突如、陰木の首が正反対を向いた。真っ赤に光る瞳がオレ達を射抜くように見た。
「これは、戦うしかないのか……!」
オレ達が飛び退って警戒をすると、陰木は姿を大きく変えた。四肢も胴体もデタラメに膨らみ、全身は異形のものとなる。かろうじて原型を残す顔も、振り乱した髪に血涙がまとわりつき、凶相そのものだった。
「要らないよねぇ、心なんて! そんなもの邪魔でしかないよねぇ!」
陰木が吠えると、大気が震えた。強敵だ。敵意と強さを兼ね備えた、油断ならない相手だと思う。
だがそうと分かっていても、武器を手にするべきか否か、判断に迷わされてしまった。右手が警棒を握ろうとして、虚空を掴んだだけに留まった。




