第36話 廃墟の緑マーカー
在りし日の姿を忘れてしまった多満川は、ガレキの山とヘドロで満ちていた。辛うじて残る泥水でさえ、実に僅かなもので、ヘドロの中を縫うように流れていく。
水量が豊かであった頃など忘れてしまいそうで、胸が締め付けられてしまった。
「酷い匂いですね」
土手に立ち尽くした衣織が、静かに呟いた。
「そうだな」
オレは他に何も言えなかった。大学のサークルで、河川敷バーベキューに参加した事も、今は遠い記憶だった。
「あっ、凜花さんが調査から戻ってきますよ」
「川の様子はどうだ? 渡れそうか?」
凜花は大声を出す代わりに、片手を左右に振った。そして、オレたちのもとへ戻る前に、茂みに寄って、ブーツの泥を草で拭った。
「ありゃダメだ。ぬかるみが酷くてまともに歩けねぇ。車ならスタックするだろう。あそこを通り抜けようだなんて自殺行為だな」
「そうなると、まともな橋を見つけないと」
多満川は県境いとして扱われるだけあって、大きく、広い。もちろん向こう岸まで遠い。ここを迂闊に渡ろうとすれば、途中で泥の中に埋もれるだろう。
「橋といってもな。まともに残ってるものなんてあるのか?」
スマホで地図を開いてみると、東南東へいった所に橋があった。それは立派な鉄橋だったと記憶している。
「ここを目指そう。これは県道の橋で、比較的頑丈だと思う」
「分かりました。今日の内に向かいますか?」
目的地まで遠くはない。車でせいぜい10分程度の距離だろう。だが、それは平時の話で、道の状態は劣悪だ。通行可能なルートを探しつつとなると、小一時間かけたとしても、難しいかもしれない。
「今日はいったん身体を休めよう。寝床を探すぞ」
オレたちは車から降りて、傍の廃ビルに侵入した。スマホでマーカーを確認すると、この付近に人の姿は無かった。その代わり、目ぼしいアイテムも取り尽くされた後だった。
「今日はここで寝泊まりしよう。ソファもあるから良く眠れると思う」
「ここは病院ですかね?」
「おそらくな」
オレたちは、待合室のソファを並べて、それをベッド代わりにした。探索はやめておいた。病院なら薬が山のように残されているが、何がどの薬かが分からない。下手に触るべきではないだろう。そうでなくとも、棚から落ちた薬瓶が辺りに散乱し、錠剤まみれだった。
「飯を食い終わったら就寝だ。見張りは順番にして、他の2人はちゃんと休む様にしよう」
晩飯はサバ味噌スープだ。ジャガイモとキャベツが入っているので具だくさん。衣織が『出汁が欲しくなる』と言うが、出来ない相談だった。まともな食事がとれるだけマシだと思う。
そうして夜が更け、朝を迎えた。何の事件も起きない、平穏な夜だった。
「よし。飯を食ったら県道の橋を目指そう」
朝食は茹でたジャガイモに塩を振ってかじる。塩味が空きっ腹に染み渡るようだった。
腹を満たしたら出発。東南東に向かう道を走っていたのだが、川沿いの最短ルートは進行不可能だった。
「ダメだわ。道が陥没してやがる。徒歩ならギリ行けそうだが」
「車を乗り捨てる訳にもいかない。別のルートを探そう」
「探すって、あの辺をか?」
凜花が運転席から顔を出した。その視線の先には、廃墟と化したビル群がある。午前中だと言うのに、どこか薄暗い。何者かが潜んでいても不思議ではなかった。
「地図を見た所、オフィス街を通る必要があるな。とりあえず入ろう」
「襲われなきゃ良いけどな。マーカーはどうなのよ?」
「オフィス街の中心あたりに、赤マーカーが3、4人居るか。それなりに離れているな」
「じゃあサッサと通っちまおうぜ。気づかれる前にな」
オレ達を載せたトラックは進路を変え、ビル群のひしめく通りに曲がった。
こちらも道の状況は悪い。道の至る所に、ガレキや家具の残骸などが散らばっている。走れないことも無いが、徐行運転を強いられてしまう。
これには凜花も気を揉んでしまい、不機嫌さを露わにした。
「チンタラ走ってたら、敵に見つかっちまうのによ。クソが」
「衣織。向こうで潜む敵の心が読めたりしないか?」
「すみません。相手の姿が見えない事には。それと出来れば、相手の目を見たいですね」
「そんな制限があるのか。だったらもう、天に祈るしか無いな」
トラックは低速のままで、ハンドルを右に左に切った。ガレキを踏んでスタックしないよう誘導するのは、助手席の衣織が担当した。オレは引き続き、スマホを見ながら索敵に集中した。
そうしてようやく1ブロックを走破して、交差点に差し掛かった頃だ。敵が慌ただしく動き出した。
「2人とも、窓を閉めろ。襲撃が始まるぞ」
「マジかよ! 逃げたくても走れねぇぞ?」
「もしかすると、敵の狙いはそれかもな」
思えば、ガレキの配置が絶妙だったかもしれない。車が辛うじて通れるよう調整されたのだとしたら、これは罠だ。連中の庭まで引き込んだ挙げ句、獲物を襲撃するための。
「だいぶ近くまで接近してるな。前方に3人、後方に1人か」
「どうする相棒、アタシも降りるか?」
「いや、まずは敵の出方を待とう」
車を停車させて、事態の変化を待った。すると前方の3人が姿を表し、正面に立ちはだかった。
「大人しくしろ! 車と物資、あと女を置いていけ、そうしたら命だけは勘弁してやる!」
男たち3人が手に持つのは、防災斧だ。厄介だと思う。交戦した場合、トラックを破壊される可能性がある。人も車も被害を出さずに通り抜けたいが、そんな手段はあるのか。
オレが1人悩んでいると、凜花が声を張った。
「ワタル! アタシに名案がある、セカンダリーゾーンを展開してくれ!」
「確かにそれが最良か。良いだろう、やってみる」
オレはスマホを取り出しては、ゾーン展開と語りかけてみた。すると、いつもの音声が返ってきた。
――独占的なゾーン展開を開始します。有効範囲を イメージしてください。
何か指定する必要があるのか。とりあえず、自分とトラック周辺をイメージしてみた。
すると、一瞬だけ世界が歪んでは、もとに戻った。
「サンキュー、ワタル! これで勝ったも同然だな」
凜花は助手席から身を乗り出して、声を響かせた。その手にはポンプ式ショットガンが握られていた。
「おうテメエら、死にたくなきゃ道をあけな! それとも蜂の巣になりてぇか!?」
「ヒャーーッハッハ! そんなオモチャで誰がビビるかよ! どうせモデルガンだろ?」
男たちが笑うのは想定内だった。だから凜花は、狙いを定めてガレキを撃った。肌に響く轟音、弾け飛ぶ残骸、ただよう硝煙の匂い。すべてが本物だと物語るようで、辺りに重たい静寂をもたらした。
「これを見ても分かんねぇか? 本物だよ、本物」
「そんなもの、一体どこで手に入れやがった!? ここは日本だぞお前!」
「説明する義理なんてねぇよ。それよりどうなんだ。ズタボロになってくたばるか、それとも道を譲るか、どっちだ!?」
凜花の恫喝は強烈だった。男たちは震え上がると、我先にと逃げ出していった。背後の男も同じだ。姿が見えなくなった頃、遠くまで逃げたことは、スマホのマップで確認済みだった。
「ふん、他愛もない。でもまぁ、面倒が省けたよな」
「助かったぞ凜花。おかげで安全に通れそうだ」
「そりゃアタシはお姉さんだからな。頼られてナンボよ」
オレとお前は同い年だがな、とは言わずにおいた。
それからの凜花は、そこそこ上機嫌だった。悪路を慎重に進み、ゆるやかに車を走らせた。だが、それも最初のうちで、道半ばで停車してしまう。
「あぁすっげぇ疲れた! 教習所でもここまでやらねぇぞ!」
「お疲れ凜花。少し休んでくれ。警戒はオレがやる」
「いやさ、もう足が疲れちゃったのよ。どっかでゆったり休める所ねぇかな? できればソファとか、ベッドが良いんだけど」
「そんな都合のいい話が……うん?」
「どうしたんだよワタル」
「緑マーカーだ。こんな所に仲間が居るってことか?」
「おっ、そりゃ良いね。そいつの拠点で休ませてもらおうぜ」
「待てよ凜花! 話を聞いてないな……」
トラックを路肩に止めて、謎のマーカーを目指す事にした。そこは新築のマンションで、駅チカにしては庭もエントランスも広い。荒廃してなければ、羨望の眼差しを向けたかもしれない。
「やっぱりというか、だいぶ荒れてんな」
凜花は、床で砕けたシャンデリアを眺めつつ、溜息を漏らした。開放的で大きな窓も全て割れてしまい、激しくガラス片を撒き散らしていた。とてもじゃないが、くつろげる様子ではない。
「さてと、マーカーはどの辺なの?」
「2階かな。階段を昇っていこう」
コンクリートが剥き出しになった階段を昇ると、マーカーはすぐ傍だった。コの字を描く通路の先、曲がり角の向こうか。
そこを曲がったところで、その人物から声をかけられた。
「あらぁ、だいぶ待たされたわよ。さぁ早くしてちょうだいな」
聞き覚えのない老婆の声だ。そちらを見ると、いくらか腰の曲がった高齢女性で、カーディガンにロングスカート、それとサンダルという装いだった。年相応の見た目だが、廃墟で暮らすには軽装すぎると思った。
「アンタたちね、何回電話しても、ちいっとも来やしないんだから。今しがた、事務所にもう1回かけようとしたところよ」
「待ってくれお婆さん。何の話だ?」
「決まってるでしょ。エアコンを直して欲しいのよ。もう全然動かなくて参ってるの」
「何を言ってるか分からんが、オレ達に直せないぞ」
「あら? まぁ、それじゃあ水道屋さん? それでも良いわ。もうお風呂の水がでないの。早く見てくださる?」
「それも違う! オレ達はだな……」
こちらが言うのを遮って、老婆は両手を大きく打ち鳴らした。
「それじゃあ主人のお客様ね? ごめんなさいね気づかなくて。どうぞあがってくださいな」
「いや、だから、話を聞いてくれよ」
「主人は今どこかしら。買い物かも。ともかくあがってちょうだい。お茶をだしますからね」
老婆は玄関を開けると、オレたちに手招きした。オレたちが立ち尽くしていると、さらに強く手招きした。
「なぁワタル。あのバアさんは……」
「痴呆症じゃないか。実際は分からんが」
「放っておくのも、ちょっと気が引けるよな。休憩がてら話を聞いてみない?」
「まぁ別に構わんぞ。悪人には見えないし、マーカーも緑だ」
オレ達は誘われるまま、老婆の後に続いた。そうして玄関に入り込むと、急に嫌な気配に襲われてしまった。
嗅覚を通して感じる警告。それは死の匂いだった。




