第19話 殺されても見たくはない
車と自転車、どっちが早いか。こんなものはクイズにもならない。
「クソッ、葉狩野はどこに行った!?」
「分からないよ……大通りの方に向かって、それから後の事は!」
黒い乗用車。目印はそれだけだ。並走しているなら見失う事もないが、距離を開けられてしまえばそれまでだった。
大通りの国道は片側二車線で、交通量も多い。こんな状況で、どこを走っているかも分からない車の1両を見つけ出せというのか。これは不親切どころではない。不可能の領域だった。
ひとまずは賑わう方を目指して走り続けた。当て所もなく、道なりに。
「このまま闇雲に走ってもダメだ、目星をつけないと。相手の位置を調べるには、GPSとか、盗聴器で場所を把握するとか……」
「そんな物、どこにあるっていうの?」
「いや待てよ、GPSならここにあるぞ! 受け取れ!」
ポケットからスマホを取り出すと、その拍子でハンドルが大きく揺さぶられた。
「ワタルさん! 前、前ーーッ!」
「クソッ、なめんな!」
ガードレールに蹴りを入れて態勢を立て直す。それから立ち漕ぎになって、通行人を追い越していった。
「大介、地図がでてるだろ。マーカーはどうだ!?」
「緑の点が移動してる! それと、これは……?」
「何か気になるか?」
「緑の隣に、妙に赤いというか、異様なヤツがあるよ! 炎が燃えてる感じだ!」
「なんだと!?」
オレは反射的にブレーキをかけて、スマホを覗き込んだ。大介の言葉に誤りはない。緑の点と、それに寄り添う形で赤い点が、猛スピードで移動している。その赤い方は、赤に紫にと色味を変えつつ、炎のようなものをまとっていた。
単なる敵じゃない。そんな確信を得たが、今は火急の状況だった事を思い出す。
「大介、ヤツの行先に思い当たりは?」
「ええと、たぶん駅の方……。そっから後は分かんないよ」
「レストラン、バー、宿泊施設、そこらへんのものはあるか?」
「それなら、駅前通りに有名なホテルがあるよ!」
「よしそこだ! 掴まれ!」
オレはもう一度立ち漕ぎになって疾走した。しかし夕暮れ時のせいか、通行人が多い。集団で横に広がる学生、肩を落として歩くサラリーマン、買い物袋をぶらさげる主婦。やたらと障害が多く、なかなかスピードに乗れずにいた。
「大介、近道とか知らないか?」
「だったら次の道を右に! 坂道だけど、駅まで直線的に行ける!」
「分かった!」
オレは右折しながらも、激しくペダルをこいだ。やがて前方に長い登り坂を見た。心臓破りと言うべきか、その高低差は、付近に並ぶ家々が教えてくれた。
坂道の上でこぐのではない。助走中に速度を稼ぐ。まずは登りの直前まで、こぎまくる。そうして勢いをつけたまま、さらに坂道でペダルを回す。そうすることで、大きなロスもなく長い坂を登りきった。
「はぁ、はぁ、よし。こっからどう行けば良い?」
「すぐそこに下り坂があるから、道なりに。降りた先にホテルがあるんだ」
「よし、任せろ……!」
息の整わぬうちに走り出す。今度は下り坂だ。丘の上からでもホテルの様子は見て取れた。
広い庭にチャペル。吹き抜けとおぼしきホールは、縦に長いガラスが連なる。タクシーの止まるロータリー付近には正面入口があり、複数のガードマンが陣取っている。
すると、そこに葉狩野が現れた。もちろん母親も伴っている。そして2人は、ホテルの入口の中へ消えていった。
「やばいぞ大介! このままじゃ間に合わない!」
「そんな、ここまで来たのに……!」
「だから腹をくくれ」
「えっ……?」
「オレの背中にしがみつけ。頭を上げるな。目もつぶった方が良い」
「あの、せめて何をするかだけでも……」
「ここから突っ込むんだよ! 掴まれーーッ!」
「うわあぁぁ! この高さから!?」
オレは自転車を疾走させ、ガードレールの隙間から勢いよく飛び出した。地面は遥か遠い。建物3階分の高さだろうか。
「届け! 届いてくれ!」
正面にはホテル。吹き抜けのホールが迫る。大きなガラス窓。破る。弾ける。無数のガラス片が、夕日を浴びて宝石のように輝いた。
「よし、何とかなった……グハッ!」
車輪は螺旋階段を踏みしめるなり、激しくバウンドした。オレ達は宙に投げ出された。それから、背の高い銅像にぶつかり、その形状に合わせて落下していく。何度も何度も体を打ちつけた後、噴水の中へ背中から着地した。
跳ね上がる水しぶき、響き渡る悲鳴。しかしオレ達は生還する事ができた。
「無事か、大介。怪我は?」
「あ、あわ、あわわ。死ぬかと思ったよ……」
「生きてる。無事。ならオッケーだよな。それに現実じゃないから、致命傷でも大丈夫だろ」
「そ、そうなんだね。この世界なら死んじゃっても平気なんだ?」
「いや知らんけど。平気なんじゃないか?」
「そんな計算で飛んだの!!?」
「騒ぐのは後だ。見ろ、あそこに葉狩野が!」
オレたちは噴水から飛び出し、ロビーを駆け抜けた。周囲は既にパニックを起こしており、ラウンジも、ホールからも、客が逃げ出していた。
そんな中で、葉狩野に逃げられなかったのは幸運だった。やつは胡乱な顔で左右を見渡している。まだ状況を理解していないらしい。
「そこまでだ葉狩野!」
「うわっ、なんだお前ら!」
「母さん大丈夫? 酷いことされてない!?」
「大ちゃん? あなた、どうして……」
間に合った。オレたちは、すんでの所で葉狩野の野望を阻止したのだ。
あとは救出するだけだが、葉狩野は、母親の手首を握りしめたまま離そうとしない。
「その手を離せよ、ゲス野郎」
「不躾なガキどもだな。どけ、遊びたけりゃゲームコーナーでもウロついてろ。こっちは大人の遊びを楽しむところだ」
「母さん! こんな奴相手にしてないで、家に帰ろうよ!」
母親は、大介の声に怯みをみせた。しかし、視線をさまよわせただけで、葉狩野の傍から離れなかった。
「ごめんね、大ちゃん。明日には帰れると思うから……」
「そんな……! ダメだ母さん! 行っちゃいやだ!!」
「クックック。そろそろ乳離れしたらどうだ、クソガキ。知らんようだから教えてやるが、オレの機嫌を損ねないほうが良いぞ?」
「うっ……それは……!」
大介に負い目がない訳ではない。すでに父親の罪を知ってしまった後だ。つまり人質は、母親だけではなかった。
「もう一度言う。そこをどけ。今なら無礼は忘れてやるぞ」
「うぅ……そんな……」
「負けるな大介。コイツに遠慮する事はない」
「ワタルさん?」
「例の横領事件は、この葉狩野が真犯人だ。父親は不運にも、罪をなすりつけられただけだ」
「ええっ!?」
オレは葉狩野に指を突きつけてやった。葉狩野の顔は、赤黒く染まり、やがて激しく震えだす。
「小僧……。今のは訴訟ものだぞ。そこまで言うからには、動かぬ証拠があるんだろうな!」
「無い」
「ハァ……?」
「証拠は無い。だがお前が犯人だ!」
「フザけてるのか、言いがかりも大概にしろ!!」
オレは葉狩野こそ犯人だと確信していた。ディープゾーンに入って以来、この男がやたらフォーカスされている。そして父親が失脚したのを見計らって、母親に不義を持ちかけた。
それらは無関係か。いや違う。証拠がないだけで、それらの出来事は全て葉狩野を中心に起きている。関係ないと言う方が不自然だった。
「ワタルさん……いくらなんでも今のは」
「クソッ。あとは証拠さえあれば葉狩野を追い詰められのに……。何か見落としてたか?」
その時だ。スマホがブッブと鳴った。一体何だと思ってみると、テキストデータ受信の知らせだった。
誰がこれを。そう思いつつ開くと、そこには箇条書きの単語が並んでいた。
「なんだこれ。アツタタカナオサマ ソウキン 220万円。アツタヒバリサマ ソウキン 150万……」
「やめろ! やめろぉーーッ!!」
突然、葉狩野が突進してきた。オレが身をかわすと、初老の体は勝手につまづいて転んだ。
半身を起こした葉狩野は、怨嗟のこもる眼でオレを睨んできた。
「なぜお前がそれを知っている! どこで手に入れた!」
「今のはよっぽどヤバいもんらしいな。汚職の証拠か?」
「うるさいうるさい! 消せ、消せ、今すぐに消せーーッ!」
「これが証拠になりそうだ。違うか?」
オレが目配せをすると、母親は我に返った。それから逃げるようにして、大介の傍に駆け寄った。
救出に成功した瞬間だった。あとは『残党狩り』の時間になる。
「葉狩野。なんでこんな事をしでかした。なぜ大介の親父さんに罪をかぶせたんだ」
「ふ、ふふ。許せなかったからだよ」
「何が?」
「あの野郎は、オレの取り巻きよりも、若くて美人な嫁をもらいやがった。それが許せなかった」
「……そんな理由で、無実の人を罠に?」
「いいか小僧。オレはな、陰の実力者だ! 会社の、いや川咲の、いやいやこの国すらも支配できる、選ばれし男なんだ! そんなオレの女が、くだらん男の嫁より見劣りするなんて、許されないんだ!」
「それが動機かよ……想像以上にクソだな」
「何とでも言え。それよりお前らは知りすぎた、生かしては帰さんからな」
葉狩野は、全身に力をこめると、辺りに血肉を撒き散らした。ひどい臭いだ。しかし、その不快さに気を取られるだけの余裕なんて、オレ達には無かった。
「殺してやるぞ、雑魚どもが! 運命に選ばれた男の力をみせてやるーー!」
初老の体は面影すら残さず変貌した。黒く艷やかな羽、長いくちばし、ルビーのように赤い瞳。全長数メートルと思しき巨大なカラスが、オレ達の前に出現した。
それと同時にスマホが震えて知らせた。
――サイコストーカーと遭遇しました。ヘルクロウが一体です。
やはりそうか。オレは拳を握って構えるが、葉狩野はこちらを見ない。奴はホールの吹き抜け部分を見上げるなり、翼を広げて羽ばたいた。
「ハーーッハッハ! 地面を這いずり回ってろ、うじ虫どもぉぉ!!」
葉狩野は、高笑いするとともに、建物の天井付近を飛び回った。その最中に、柱や手すりを蹴りつけて破壊した。
するとホテルはあちこちで崩れだした。それはやがて、激しい崩壊を招いてしまった
「あの野郎……オレたちをガレキに埋める気か!」
「ねぇ、早く逃げようよワタルさん!」
「そうだな。こんな所に長居をするのは――」
その時だ。背後で母親の悲鳴が響き渡った。モルタルの柱が砕けて、そちらに倒れ込んだせいだ。
柱の片方が手すりに引っかかったお陰で、母親は圧死を免れた。しかし、片足が柱の下敷きだ。僅かな隙間に挟まれてしまったらしい。
「待ってて母さん、今助けるよ!」
大介が柱に取り付くが、ビクともしない。オレが加わっても同じだ。どれだけ力をこめようと、爪の先すらも動く気配がなかった。
「ヤバいぞ、早く助けないと! オレたちも……うわっ!」
葉狩野の破壊活動は終わらない。ガラス片、コンクリートの欠片が、雨のように落下してくる。オレ達が殺されるのも時間の問題だった。
「すまん。言いにくいことだが、このままじゃ――」
「嫌だ! 僕は絶対に母さんを助けるんだ!」
「大介……。気持ちは分かるが、ここは現実じゃなくてだな――」
その時、建物が激しく揺れた。さらに崩壊も激化し、壁や階段までが崩れるようになる。
それから間もなく、オレ達のそばで壁が崩れた。立てかけた板が倒れるかのように、ゆっくりと、重力に従って傾いていく。その先には、床に倒れ伏す母親の姿が――。
「母さんッ!!」
「無茶だ、やめろ大介!」
倒れかけた壁に潜り込んで、大介が支えた。オレも隣に並んで力を込める。
状況は一層悪化した。壁を跳ね返すどころか、堪え続けることすら難しい。それは余りにも重たく、人間の力で敵う代物ではなかった。
「大介……これは無理だ。本当に死ぬぞ!」
「ワタルさんはいいよ。ここから逃げて」
「おい、お前!」
「僕はいやだ! 二度と母さんを死なせたくない! あんな光景をもう一度見せられるだなんて、それこそ死んでもイヤだよ!」
大介の頬は砂埃で汚れており、それを止めどない涙が洗い流した。そして、しゃくりあげてまで泣き出してしまう。
説得など聞きやしないだろう。ならば、恨まれるのを覚悟して、力付くで連れ去るか。そんな考えがよぎると、母親が小さく、だが確かに語りかけた。
「大ちゃん。もういいから。早く逃げて」
「なんでだよ、どうしてそんな事言うんだよ! 前もそうだった! 家が地震でつぶれて、父さんと母さんは下敷きになった時と、まったく同じ事を!」
「マリちゃんをお願いね。あの子の事を守ってあげて……」
大介は涙を止めた。しかし、顔は絶望に染まっている。それは死に場所を選べない、肉親と運命を共に出来ない苦悩が、彼をそうさせたのか。
「何だよそれ……どうしてまた、こんな事に……」
「おい大介、気をしっかり持て!」
「いやだよ、こんな世界なら、もう何も見たくない! こんな穢れきった世界なんてーーッ!!」
大介が肌を震わせるほどに叫んだ。すると、彼の頬を伝って赤い物が滴り落ちた。泥と混じり合う赤黒い鮮血だ。それは瞳と、口の端から流れ続けていた。
「おい大介! 大丈夫か!?」
「えっ、何、この感覚は……いったい?」
「ショックなのは分かる、分かるが、今は身の安全を――」
「ワタルさん。3秒で、あそこの手すりを壊せる?」
「えっ、何!?」
大介はアゴ先を動かして、それを指し示した。彼が言うのは、モルタルの柱がもたれかかる手すりだった。
「この壁は、僕一人でも3秒なら堪えられる。どう、できそう?」
「お前、急に何を言って――」
「それで母さんも助けられるんだ。お願い、僕を信じて!」
大介の顔は面妖だった。血と泥と涙で汚れており、とても正気の人間とは思えない。だが眼光は清らかだ。力強く、展望を見据える光が宿っている。
オレはただ、頷くしかなかった。
「3秒だな。よし、やってみる」
「じゃあ、せーーので」
「分かった。せーーのッ!」
「3」
「コイツだな、オラッ!」
「2」
「かてぇ! 手じゃダメだ!」
「1」
「大介、壊れたぞ――うわっ!」
「今だ母さん! そこから出てッ!」
支えにした手すりを破壊したことで、柱が一瞬だけ浮き上がり、角度を変えた。それで自由になった母親は、床を這って逃げた。
続けて柱が誰も居ない地面を叩き割り、そこに壁だけが、やはり誰も居ない床に倒れた。
地響きの後には、砂埃が舞い上がるだけだ。血の一滴すら見ること無く、救出する事が出来た。
「ま……マジかよ。本当に助かったのか?」
「ワタルさん、ここは危ない! こっちだよ!」
「お、おう!」
オレは何が何だか理解できずにいた。大介が突然、異様とも思える程の知恵をきらめかせたのだ。それは余りにも正確で、とても子どもの発想とは思えなかった。
だが頼もしい。今の大介は守護対象ではなく、背中を預けられる仲間に急成長したようだ。
「これは凄いな。待ってろよ葉狩野。どうにかしてお前をブッ倒してやるぞ」
「ワタルさん、早く! そこはもう崩れるよ!」
大介が手を振る方へ駆けていった。そこは非常用通路で、他所より頑丈に出来ているのか、崩壊度合いはマシな方だった。
ようやく冷静さを取り戻した気がする。さぁ、ここから反撃開始だ。