第九話:絶対的戒律
TENJIN COREのNexus Square(ネクサス広場)。黒い装束の“影”、犬童イツキと名乗る存在が作り出した「ルール」の前に、天沢凪と雪村陽乃花は、なす術もなく動きを封じられていた。
『ルール1:この広場から半径10メートル以内にいる者は、3秒間、一切の行動を禁止する』
『ルール2:雪村陽乃花は、次の私の許可があるまで、跳躍及びブースターの使用を禁止する』
『ルール3:天沢凪は、次の私の許可があるまで、三文字以上の言葉による異能の発動を禁止する』
「なっ……身体が……動かへん!」
金縛りにあったかのように、凪はその場から一歩も動けなかった。ペンデバイスを握る指先に力を込めようとしても、まるで分厚いガラスに阻まれているかのように意志が通じない。
「くっ……! なんなのよ、これ……!」
陽乃花もまた、得意の脚技を繰り出すどころか、ブースターを起動しようとする意志すらも何者かに押さえつけられているような感覚に、悔しそうに歯を食いしばった。
「これが私の力の一端です。この《ディクテーション》によって、私はこの空間に新たな“ルール”を上書きし、対象者の行動を制限する、あるいは強制することができます」
犬童イツキは、ステージの上から二人を見下ろし、抑揚のない声で説明する。彼の表情は能面のように変わらず、ただ、その瞳だけが冷たい光を放ち、二人の反応を観察しているかのようだ。
「そして、この私の定めたルールが適用される領域――私の《支配領域》においては、私の力はさらに増幅されるのです」
3秒間の停止ルールが解けた瞬間、凪は咄嗟にペンデバイスを構え、短い言葉で反撃を試みようとした。
「『破』!」
しかし、その言葉が具現化する前に、犬童はまるで凪の思考を先読みしたかのように、新たなルールを宣告した。
「《ディクテーション》――『ルール4:天沢凪は、ペンデバイスを使用する一切の動作を禁止する』」
カシャン、と音を立てて、凪の手からペンデバイスが滑り落ちた。拾おうとしても、身体がその動作を拒絶する。
「ポーンくん!」
陽乃花が叫び、凪を助けようと一歩踏み出す。だが、それも犬童は見逃さない。
「《ディクテーション》――『ルール5:雪村陽乃花は、半径1メートル以上移動することを禁止する』」
「なっ……うそでしょ!?」
陽乃花の足が、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなる。ブースターが使えないだけでなく、移動すらままならない。
「な……なに、この力……。あたしたちの動きが、全部……」
陽乃花は愕然とした。自分たちの得意な戦い方、連携、その全てが、犬童の「ルール」の一言で封じられていく。これまでの敵とは次元が違う。力でねじ伏せるのではなく、行動の選択肢そのものを奪い取られるような、絶対的な支配力。
「君たちがなぜ、そこまでしてこのヴァルドギアに“存在”しようとするのか、私には理解できませんが……まあ、いいでしょう。私のルールの中で、その無意味な足掻きを続けるがいい」
犬童は、まるで盤上の駒を眺めるように、二人を冷ややかに見つめている。彼の関心は、二人の強さや異能そのものではなく、自分の定めたルールがどう作用し、彼らがどう反応するのか、というデータ収集にあるかのようだ。
「ふざけんじゃないわよ……! こんな理不尽なルールに、誰が従うもんですか!」
陽乃花は、持ち前の負けん気で叫び、無理やり足を動かそうとする。しかし、ルールに逆らおうとするたびに、彼女の身体に激しい頭痛と、電流が走るような痺れが襲った。
「ぐっ……あぁぁ……!」
「無駄ですよ。私のルールに違反しようとすれば、相応のペナルティが科せられます。それは、精神的な苦痛であったり、あるいは、あなた方の存在データへの直接的な干渉であったりします」
犬童は淡々と告げる。
「それでも……あたしは……!」
陽乃花は諦めずに力を込めるが、その度に苦痛に顔を歪め、膝から崩れ落ちそうになる。
「陽乃花さん!」
凪は叫ぶが、ペンデバイスを封じられた彼には、彼女を助ける術がない。これまで頼りにしてきた、腕の包帯にペンデバイスで文字を書いて力を具現化するという特性も、ペンデバイス自体を封じられては意味がない。
「おやおや、ずいぶんと見苦しい抵抗ですね。もう少し、洗練された動きを期待していたのですが」
犬童は、まるで出来の悪い作品を見るかのように、僅かに眉をひそめた。その言葉には、嘲りや怒りといった感情はなく、ただただ純粋な「期待外れ」という評価だけが込められているように感じられた。
(クソッ……このままじゃ、嬲り殺しにされるだけや……! 何か……何か手はないんか……!)
凪は必死に思考を巡らせる。だが、犬童のルールはあまりにも完璧で、逃れる術が見つからない。
『三文字以上の言葉による異能の発動を禁止する』というルールも、凪がこれまで使ってきた文字を書く力の多様性を大きく奪っていた。一文字や二文字で発動できる単純な言葉では、この状況を打開できない。
「どうやら、あなた方には、私の“教育”が必要なようですね」
犬童は、ゆっくりとステージから降り、二人に近づいてくる。その一歩一歩が、まるで死刑執行人の足音のように、凪と陽乃花の心に重く響いた。
「まずは、無駄な抵抗がいかに無意味であるかを、その身体で理解していただきましょう」
犬童が右手を軽く振るうと、新たなルールが空間に刻まれた。
『ルール6:対象“天沢凪”、“雪村陽乃花”は、10秒間、全身に激痛が発生する』
「ぐ……あああああああっっ!!」
「きゃあああああああっっ!!」
言葉通りの激痛が、凪と陽乃花の全身を襲った。それは、これまで経験したことのない、耐え難い苦痛だった。意識が朦朧とし、立っていることすらできない。
「これが……絶対的なルールの力……。こんなん……勝てるわけ……」
凪の意識が遠のいていく。陽乃花の苦しそうな呻き声も、次第に聞こえなくなっていった。
最後に凪の目に映ったのは、無表情で自分たちを見下ろす犬童の姿と、急速に色を失っていくヴァルドギアの風景だった。強烈な虚無感が全身を包み込み、これまで積み上げてきたはずの力、仲間との絆、そして@Yui_Musubiへの微かな希望までもが、音を立てて崩れ落ちていくような感覚。
――これが、絶対的な敗北。
凪と陽乃花の意識は、完全に暗闇へと沈んでいった。
ヴァルドギアのシステムは、彼らの敗北を認識し、その存在データを強制的にリセットし始める。凪がこれまで手探りで使ってきた、文字を力に変える能力も、僅かに芽生え始めていたかもしれない新たな可能性も、そして彼らを「観測」していたかもしれないフォロワーのデータも、全てが無に帰していく。
TENJIN COREのNexus Square(ネクサス広場)には、ただ、犬童イツキという“影”だけが、変わらぬ無表情で佇んでいた。
(第九話:了)