第十話:灰色の現実、繋ぎ止める絆
意識が暗闇から浮上する感覚は、まるで冷たい水底から無理やり引き上げられるかのようだった。最初に感じたのは、全身を鉛のように引きずる強烈な倦怠感と、頭蓋の内側で鈍く響き続ける頭痛。そして、何よりも深く心を抉る、圧倒的なまでの喪失感。
「……ぅ……」
天沢凪は、うめき声と共にゆっくりと目を開けた。そこに見えたのは、見慣れた自分の安アパートの、シミだらけの天井。ヴァルドギアの歪んだ空ではない。現実だ。
身体を起こそうとするが、まるで自分の身体ではないかのように力が入らない。どれくらいの時間が経ったのかも定かではない、あのNexus Square(ネクサス広場)での出来事が、断片的に脳裏をよぎる。犬童イツキと名乗る“影”の、感情のない瞳。次々と上書きされる理不尽な「ルール」。そして、抵抗する術もなく、陽乃花と共に蹂躙された、あの絶対的な敗北の記憶。
「……陽乃花さん……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。彼女は無事なのだろうか。同じように、この灰色の現実に引き戻されているのだろうか。
ペンデバイスを探そうと手を伸ばすが、その手が微かに震えていることに気づく。ようやく枕元のデバイスを掴み、起動を試みる。しかし、画面は真っ暗なまま、何の反応も示さない。まるで、ただの文鎮に成り果てたかのようだ。
ヴァルドギアのシステムが認識した「敗北」。それは、凪がこれまで手探りで掴みかけていた「文字を力に変える能力」を、根こそぎ奪い去ったことを意味していた。スキルも、称号も、そして、ごく僅かでも自分を「観測」し、微かな繋がりを形成していたかもしれないフォロワーの痕跡も、全てが無に帰したのだ。
「結局……何も変わらんかったんか……」
凪はベッドの上に力なく倒れ込んだ。虚無感。現実世界で常に感じていたあの忌まわしい感覚が、今、何倍にもなって彼を押し潰そうとしていた。ヴァルドギアで掴みかけた「何か」。陽乃花という初めて得た「仲間」との絆。そして、「@Yui_Musubi」という謎の存在への微かな希望。それら全てが、犬童イツキという圧倒的な力の前に、あまりにもあっけなく消し飛んでしまった。
(オレの存在は……あの“影”の言う通り、無価値で、無意味やったんか……?)
暗く重たい思考が、凪の心を支配する。配達の仕事へ行く気力も湧かず、食事も喉を通らない。ただ時間だけが、無為に過ぎていく。あの敗北から、既に三日が経過していた。
その日の午後、不意にアパートの古びたドアをノックする音が響いた。こんな時間に誰だろうか。凪は億劫な気持ちを抱えながら、のろのろとドアを開ける。
そこに立っていたのは、雪村陽乃花だった。少し心配そうな、しかしどこか芯の強さを感じさせる瞳が、凪を捉える。
ヴァルドギアでのアクティブなバトルウェア姿とは全く異なる、現実世界での彼女の姿に、凪は一瞬、言葉を失った。
明るいピンクのオフショルダー風ケーブルニットは、彼女の白く滑らかな肩のラインを惜しげもなく晒し、ゆるくたるんだ袖が華奢な手首を強調している。ニットのざっくりとした編み目からは、下に重ね着した黒いキャミソールの細いストラップが繊細なレースのように覗き、時折、ニットの隙間から、キャミソールのさらに下にあるだろう、淡いパステルカラーのブラストラップらしきものがほんの一瞬だけ垣間見えることがあり、それが妙に艶めかしく凪の目に映った。
そして、視線を下ろせば、黒のチェック柄ミニスカート。少しフレア気味のそのスカートは、彼女が動くたびに軽やかに揺れ、太ももの中ほどまでぴたりとフィットした黒のニーハイソックスとの間の、わずかな素肌の領域が、否応なしに目を引く。ヴァルドギアのバトルブーツではなく、今はシンプルな黒のレザー調ショルダーバッグを肩にかけ、少し厚底のスニーカーが全体のバランスを引き締めていた。
「オシャレに気を抜かない10代終盤の自然体ギャル」――そんな言葉が脳裏をよぎる。しかし、その華やかな装いとは裏腹に、彼女の表情には憔悴の色も浮かんでおり、いつもの太陽のような笑顔は少しだけ曇っていた。そのギャップが、かえって彼女の存在を際立たせているようだった。
「ポーンくん……やっぱり、ここにいたんだね。連絡しても全然返事ないから、心配しちゃったじゃん」
陽乃花の声には、安堵の色と共に、かすかな疲労も滲んでいた。
「なんで……ここが……?」
凪が疑問を口にすると、陽乃花は少し照れたように、しかしどこか誇らしげに小さなペンダントを取り出した。それは、旧0番線ホームで師匠のトランクを開けた時に、彼女の手の甲に浮かび上がった紋様に似た、星形のチャームがついたものだった。
「これね、師匠が残してくれたデータチップと一緒に、トランクに入ってたんだ。ポーンくんと初めて共闘した時、あたし、無意識にポーンくんのヴァルドギアのIDみたいなのを“マーキング”してたみたいで……。このペンダント、それに反応して、ポーンくんの近くまで導いてくれたんだ。……なんて、ちょっとファンタジーすぎ? でも、本当にここだって光ったんだよ!」
陽乃花は少し早口で説明し、頬を掻いた。彼女の言葉は突拍子もないように聞こえたが、ヴァルドギアという不可思議な世界に関わっている以上、凪はそれを頭から否定することはできなかった。むしろ、彼女が自分を探し出すために、そんな不思議な力を使ったのだという事実に、凪の心は微かに温かくなった。
「……そうか。わざわざ、すまんな」
凪は、久しぶりにまともな言葉を口にした気がした。そして、目の前の少女の、ヴァルドギアでは見せない柔らかな雰囲気に、少しだけ心が軽くなるのを感じていた。
陽乃花は、凪の部屋の散らかり具合と、彼の憔悴しきった様子を見て、眉をひそめた。
「ポーンくん、ちゃんと食べてる? 顔色、真っ青だよ?」
「……別に、腹も減らんし」
「そういうわけにはいかないでしょ! ちょっと待ってて!」
陽乃花はそう言うと、持ってきたコンビニの袋をローテーブルに置き、中からおにぎりやサンドイッチを取り出し始めた。その際、床に無造作に置かれていた雑誌の束に躓き、「きゃんっ!」という可愛らしい悲鳴と共に、バランスを崩して大きく前のめりになった。
彼女は咄嗟にローテーブルに手をついてなんとか転倒は免れたが、その勢いでフレア気味のミニスカートがふわりと、そして大胆にめくれ上がり、凪の視界に衝撃的な光景が飛び込んできた。そこには、スカートの下に隠されていた、小さなイチゴの柄がプリントされた、フリル付きの可愛らしいパステルピンクの生地がはっきりと見えていた。それはほんの数秒の出来事だったが、鮮烈に凪の目に焼き付いた。
陽乃花は、めくれ上がったスカートを慌てて押さえ、顔をカッと真っ赤に染め上げながら、「も、ももも、もーっ! だからポーンくんの部屋は散らかりすぎだって言ったでしょ! あたし、こんな恥ずかしいとこ見られたの初めてなんだからねっ!」と、涙目で叫び、明らかにパニックを起こしていた。
凪は、見てはいけないものを見てしまったという強烈な罪悪感と、脳裏に焼き付いた光景に対する混乱で、言葉も出ず、ただただ顔を赤らめて視線を彷徨わせるしかなかった。部屋の空気が、一気に甘酸っぱく、そして極度に気まずいものに変わる。
気を取り直すのに十数秒を要し、陽乃花は深呼吸を一つすると、まだ頬を染めたまま、半ば強引に凪の手にサンドイッチを握らせた。彼女は凪の目をまともに見られないようだ。
ぎこちない沈黙の中、二人は言葉少なに食事を始めた。あの敗北の記憶と、今のハプニングの強烈すぎる余韻が、まだ生々しく二人の中に残っている。
「……陽乃花さんも、力、無くなってもうたんか?」凪がぽつりと尋ねた。
陽乃花は、まだ少し顔を赤らめながらも、動きを止め、小さく頷いた。
「うん……。あたしのバトルブーツも、ただのオシャレブーツに戻っちゃったし、ブースターも全然動かない。スキルも……何もかも、空っぽって感じ」
その声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。彼女は悔しそうに太ももを軽く叩いた。ニーハイソックスの上からでも、その引き締まった筋肉の感触が伝わってきそうだ。
「あの犬童って奴……なんなのよ、アイツ……。人間なの? それとも、もっとヤバい“影”なの……?」
「分からん……。けど、これまでの奴らとは明らかに違った。あの『ルール』は、反則やろ……」
凪は、犬童の能面のような顔と、次々と繰り出される理不尽なルールを思い出し、再び無力感に襲われた。同時に、先ほどの鮮烈な光景と、陽乃花の涙目の抗議が脳裏から離れず、妙に心臓がドキドキしていた。
「でもさ……」陽乃花が顔を上げた。その瞳には、涙が滲んでいたが、それ以上に強い光が宿っていた。「あたし、諦めないから。絶対に。師匠が残してくれたもの、無駄にしたくない。それに……あんな奴に負けっぱなしなんて、悔しすぎるじゃん!」
「……」
「ポーンくんはどうするの? このまま、全部終わりにするの?」
陽乃花の真っ直ぐな視線が、凪の心の奥底に突き刺さる。
(終わり……? このまま、またあの虚無な日常に戻るんか……? それは……嫌や)
凪の脳裏に、@Yui_Musubiの最初のコメントが蘇る。『あなたの音、私には届きました』。たった一言だったが、確かにあの時、自分の存在は誰かに届いたのだ。そして、陽乃花という仲間もできた。目の前の、こんなにも一生懸命で、そして不意に見せる無防備な姿が、こんなにも心をかき乱し、目が離せないこの少女との繋がりを、こんな形で失ってたまるか。
「……終わりになんか、させるかよ」
凪は、サンドイッチを強く握りしめながら、絞り出すように言った。
「オレも……諦めへん。あいつに、犬童に、もう一度……いや、何度でも挑んでやる。そして、今度こそ……」
言葉は途切れたが、その瞳には、消えかけていた闘志の炎が再び燃え上がり始めていた。
「! ポーンくん!」陽乃花の顔が、ぱあっと明るくなる。「だよね! そうこなくっちゃ! さすが、あたしが見込んだポーンくんだよ!」
彼女は勢いよく立ち上がり、凪に向かって手を差し伸べた。その動きに合わせて、ふわりと広がるミニスカートの裾が、またしても凪の視界の端を掠め、彼の心臓を不必要に早鐘を打たせた。陽乃花は、そんな凪の内心には全く気づいていない様子で、先ほどのハプニングなど忘れたかのように屈託なく笑っている。
「よし、じゃあ作戦会議だ! あのルール野郎をどうやってギャフンと言わせるか、一緒に考えよ!」
凪は、陽乃花の差し伸べた手を見つめた。その手は小さく、少し震えているようにも見えたが、それでも確かな温もりと力強さを感じた。そして、彼女のその眩しい笑顔と、どこか危うげな魅力、そして先ほど垣間見てしまった秘密の光景に、知らず知らずのうちに強く引き込まれている自分に気づいた。
凪は、ゆっくりとその手を取った。
失ったものは大きい。だが、二人にはまだ、諦めない心と、互いを支え合う絆があった。
灰色の現実の中で、彼らの再起への物語が、今、静かに、しかし確かに動き出そうとしていた。
そして、凪の内側では、あの敗北の経験と、陽乃花との新たな誓いが、未知なる力の覚醒を促していることに、彼自身まだ気づいていなかった。
(第十話:了)