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婚約破棄されたので記録係になったら、消されたはずの人々が世界を変え始めました  作者: 月守いとは


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第9話 ここで生きると、決めます

 筆先が、紙の上で止まっている。


 わたくしはしばらくそのまま動かなかった。


 目の前には二つの帳簿がある。


 一つは、王都からの指示に従って整えられた記録。

 もう一つは、わたくしが書き足した、断片を拾い集めた記録。


 どちらも「記録」だ。


 けれど、その意味はまったく違う。


 前者は、残すために削られたもの。

 後者は、残すために足されたもの。


 どちらが正しいのか。


 その問いに、明確な答えはない。


 王家の命令に従うことは、間違いではない。

 むしろ、それが正しい在り方だ。


 けれど。


 わたくしの中で、もう一つの考えが、はっきりと形になりつつあった。


 ――このままでは、何も残らない。


 あの夜のことも。

 ここにある名前たちのことも。


 すべてが、形だけになって消えていく。


 それを、ただ見ているだけでいいのか。


「……いいえ」


 小さく、しかし確かに否定する。


 それは、誰に向けた言葉でもない。


 ただ、自分自身に対する答えだった。


 わたくしはゆっくりと息を吸い、筆を持ち直す。


 そして、机の上の帳簿を整理した。


 王都からの正式記録は、そのままにしておく。


 命令に背くわけではない。


 それはそれで、必要なものだ。


 けれど。


 それとは別に、もう一冊の帳簿を開く。


 空白のページ。


 まだ何も書かれていない場所。


 そこに、筆を置く。


 わたくしは一瞬だけ目を閉じた。


 何を書くのか。


 どこまで書くのか。


 それは、すべて自分で決めることになる。


 これまでのわたくしなら、迷っただろう。


 正しいかどうか。

 許されるかどうか。


 それを基準に考えていたから。


 けれど今は違う。


 これは、わたくしが選ぶことだ。


 ゆっくりと、筆を動かす。


 紙の上に、最初の一行が刻まれる。


 ――王太子婚約解消事案 記録補遺。


 補遺。


 正式な記録ではない。


 けれど、消えない形で残すためのもの。


 続けて、言葉を重ねていく。


 その夜のこと。


 交わされた言葉。

 沈黙。

 空気。


 すべてを正確に書くことはできない。


 それでも。


 何もないよりはいい。


 わたくしは手を止めずに書き続けた。


 時間の感覚が、少しずつ曖昧になる。


 ただ、紙の上に言葉を置いていく。


 それだけに集中する。


 どれくらい経ったのか。


 ふと、気配を感じて顔を上げる。


 そこに、エドガーが立っていた。


 静かに、こちらを見ている。


 わたくしは筆を置き、立ち上がった。


「……失礼を」


「続けてください」


 エドガーは、短くそう言った。


 わたくしは一瞬だけ迷い、それから首を振る。


「いえ、構いません」


 そして、正面から彼を見た。


「これは、命令に含まれていない記録です」


 言葉を選びながら、続ける。


「正式な文書とは別に、補足として残そうと考えました」


 エドガーは無言で聞いている。


 その表情は変わらない。


 けれど、視線だけが、わたくしの言葉を追っている。


「命令に従うのであれば、不要なものです」


 わたくしは続ける。


「むしろ、残すべきではない可能性もあります」


 そこで一度、言葉を切る。


 そして、はっきりと告げた。


「それでも、残します」


 沈黙が落ちる。


 文書庫の静けさが、二人の間に広がる。


 やがて、エドガーが口を開いた。


「それは」


 短い言葉。


「命令違反です」


 予想通りの指摘だった。


 わたくしは、わずかに頷く。


「承知しております」


 その言葉を口にしたとき、自分の中で何かが定まったのを感じた。


 恐れはない。


 不安も、ほとんどない。


 ただ、選んだという感覚だけが、はっきりとある。


 エドガーはしばらくわたくしを見つめ、それからゆっくりと視線を帳簿へ移した。


 開かれたページ。


 書きかけの文字。


 それらを確認するように見たあと、静かに言った。


「……ここは、忘れられたものが集まる場所です」


 その言葉は、これまでに何度も聞いた説明の延長のようでいて、どこか違っていた。


「消されるものも、残らなかったものも、すべてここに来る」


 彼はゆっくりと続ける。


「その中で、何を残すかは――本来、決められていない」


 わたくしは、その言葉を静かに受け止めた。


 決められていない。


 つまり。


 選んでいいということだ。


 エドガーはそれ以上何も言わず、軽く一礼した。


 そして、そのまま静かに立ち去る。


 足音が遠ざかる。


 再び、文書庫に静寂が戻る。


 わたくしは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 目の前には、書きかけの記録。


 そして、まだ残っている余白。


 これから何を書くのか。


 どこまで残すのか。


 それはすべて、自分で決めることになる。


 そのことに、わたくしは小さく息を吐いた。


 そして、筆を取り直す。


 迷いは、もうなかった。


 これは、命令ではない。


 役割でもない。


 誰かに求められたものでもない。


 それでも、やると決めた。


 だから、書く。


 ゆっくりと、しかし確かに、言葉を刻んでいく。


 その一つ一つが、自分の選択であると感じながら。


「……わたくしは」


 小さく呟く。


 その言葉は、自然と形になった。


「ここで生きます」


 誰に聞かせるでもない。


 ただ、自分で決めるための言葉。


 役割としてではなく。


 誰かの期待でもなく。


 自分の意思で。


 ここにいると、決める。


 わたくしは、再び筆を動かした。


 静かな文書庫の中で。


 誰にも読まれないかもしれない記録を。


 それでも、確かにそこに残るものとして。


 これは――


 わたくしの記録だ。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。


第1章、完結です。


セシリアは「婚約破棄された令嬢」から、

「自分で選ぶ人間」へと一歩進みました。


派手なざまぁも逆転もありませんが、

この“選択”が、これから大きな波を生んでいきます。


第2章では、王都・過去・人間関係が動き出します。

静かな物語が、少しずつ外へ広がっていきます。


もしここまで少しでも面白いと感じていただけたら、

ぜひブックマークして続きを追っていただけると嬉しいです。

ここからが本番です。

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