第8話 消される側だったわたくし
その日は、手が止まることが多かった。
いつもなら、帳簿を開けば自然と文字を追い、気づけば時間が過ぎている。ここに来てから、初めて得た感覚だった。
けれど今日は違う。
視線は文字の上にあるのに、意味が頭に入ってこない。
意識が、別のところへ引き寄せられている。
――円満に解消。
――問題なし。
――特記事項なし。
書簡に記されていた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
わたくしは、ゆっくりと帳簿を閉じた。
そして立ち上がり、文書庫の奥へと歩き出す。
目的ははっきりしていた。
王家関連の記録がまとめられている棚。
そこに、該当の記録があるはずだ。
いくつかの棚を確認し、やがて目的の分類を見つける。
王太子関連記録。
その中から、年代を絞る。
そして――
見つけた。
革装丁の一冊。
表紙には簡潔に記されている。
――婚約解消記録。
わたくしはそれを手に取り、ゆっくりと机へ戻った。
椅子に座り、静かに開く。
ページをめくる。
そこに書かれていたのは――
予想通りの内容だった。
「双方合意」
「円満な解消」
「関係に影響なし」
簡潔で、整っていて、問題のない記述。
あの夜の空気は、どこにもない。
視線の重さも、沈黙の圧も、言葉の揺らぎも。
すべて削ぎ落とされている。
わたくしは、しばらくそのページを見つめていた。
違和感は、はっきりしている。
これは、事実ではない。
少なくとも、すべてではない。
「……違う」
小さく、声が漏れた。
その言葉は、思った以上に重かった。
これまで、わたくしは「正しいもの」を選び続けてきた。
正しい言葉。
正しい振る舞い。
正しい判断。
それが常に求められていたから。
けれど今、目の前にあるのは。
正しく整えられた“別のもの”だ。
間違ってはいない。
嘘とも言い切れない。
けれど、真実でもない。
その曖昧さが、胸の奥に引っかかる。
わたくしはゆっくりと息を吐いた。
そして、気づく。
あの夜の自分は、この記録の中にいない。
そこにあるのは、出来事の「形」だけだ。
わたくしが何を感じたか。
何を選んだか。
何を失ったか。
それらは、どこにも残っていない。
「……消えるのですね」
ぽつりと呟く。
それは、驚きではなかった。
理解していたはずのことだ。
けれど。
こうして実際に目の前にすると、別の感覚になる。
記録に残らないということは。
最初からなかったことになる、ということだ。
少なくとも、後から見る人間にとっては。
わたくしは、ふと自分の手を見た。
少しだけ、力が入っている。
震えてはいない。
けれど、確かにそこに、感情がある。
これは何だろう。
怒りか。
違う。
悲しみか。
それも違う。
もっと、静かなもの。
けれど、確実にそこにある。
わたくしは、帳簿を閉じた。
そして、別の帳簿に視線を向ける。
自分が書き足した記録。
名前のない人々に、少しだけ意味を残そうとしたもの。
それと、今の記録。
どちらも、同じ「文書」だ。
けれど、その在り方は、あまりにも違う。
片方は、消えるもの。
片方は、残そうとするもの。
その違いが、はっきりと見えた。
「……わたくしは」
言葉が、ゆっくりと形になる。
これまで、わたくしは“残る側”だった。
名前があり、立場があり、記録されるべき存在。
そう思っていた。
けれど違う。
わたくしもまた――
消される側だった。
その事実が、静かに胸に落ちる。
特別ではない。
例外でもない。
ただの一つの事案として、処理される存在。
それが、今の自分だ。
わたくしはゆっくりと立ち上がる。
文書庫の中を見渡す。
ここにある無数の記録。
その多くが、誰にも読まれず、意味を与えられずに置かれている。
けれど、それでも。
ここにある限り、完全には消えない。
誰かが手に取れば、そこにあったことを知ることができる。
わたくしは、自分の机へ戻る。
筆を手に取る。
そして、しばらくの間、動かなかった。
何を書くべきか。
何を残すべきか。
それは、まだはっきりしていない。
けれど。
ひとつだけ、確かなことがある。
このままでは、何も残らない。
それだけは、わかっていた。
わたくしは、ゆっくりと筆を下ろす。
まだ、決めきれてはいない。
けれど。
もう、見て見ぬふりはできなかった。
読んでいただきありがとうございます。
ここでセシリアは、
「自分も消される側だった」と初めて自覚しました。
この気づきが、この物語の大きな転換点になります。
次話ではついに、
セシリアが“選択”をします。
安全か、それとも——。
ここが第1章のクライマックスです。
ぜひブックマークして、最後まで見届けていただけると嬉しいです。




