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婚約破棄されたので記録係になったら、消されたはずの人々が世界を変え始めました  作者: 月守いとは


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第6話 あなたは、それを残したいのですね

 気づけば、数刻が過ぎていた。


 文書庫の中に差し込む光はすでに傾き、棚の影が長く床に伸びている。静寂は変わらず、ただ紙をめくる音だけが、一定のリズムで空間に溶けていた。


 わたくしは、ある一冊の帳簿の前で手を止めていた。


 表紙には、かすれた文字でこう書かれている。


 ――北部開拓村 移住者記録。


 何気なく手に取ったものだった。


 けれど、ページを開いた瞬間、わたくしはそこから目を離せなくなった。


 名前が並んでいる。


 年齢、出身、家族構成、移住理由。


 その一つ一つが、簡潔に、しかし確かに書かれている。


 ――収穫不良により、生活困窮。

 ――次男にて相続権なし。

 ――家族死亡、単身にて移住。


 どれも短い。


 けれど、その裏にある人生は、決して短くない。


 さらにページをめくる。


 途中から、記録が途切れている箇所があった。


 名前はあるのに、その後の記録がない。


 移住したはずの人々が、どうなったのか、どこにも書かれていない。


「……なぜ」


 思わず呟く。


 その理由は、想像できた。


 必要がなかったのだ。


 移住した時点で、彼らの役割は終わる。

 その後の人生は、記録する価値がないと判断された。


 だから、書かれなかった。


 ただ、それだけのこと。


 けれど。


 それで、本当に終わりなのだろうか。


 わたくしは机に戻り、帳簿を広げたまま考える。


 もし、この人たちがその後どうなったのか、わからないままだとしたら。


 彼らは、ここに「いた」という事実だけを残して、消えてしまうことになる。


 それは、どこかおかしいように思えた。


 理由はうまく説明できない。


 ただ、そう感じた。


 わたくしは立ち上がり、別の棚へと向かう。


 同じ地域の記録を探す。


 収穫報告、治安報告、税収記録。


 断片的な情報を拾い集める。


 それらを照らし合わせれば、ある程度の推測はできるはずだ。


 誰がどこで暮らし、何が起きていたのか。


 完全ではなくても、何もないよりはいい。


 わたくしは再び机に戻り、筆を取った。


 そして、帳簿の余白に、静かに書き足していく。


 ――推定:同年、北部にて疫病発生。記録より、死亡者多数。


 事実ではない。


 あくまで、記録から導いた推測だ。


 それでも。


 何も残らないよりは、ずっといい。


 手を動かしながら、わたくしは気づいていた。


 これは、本来の仕事ではない。


 命じられたのは整理と分類だ。


 記録を書き足すことではない。


 けれど、手は止まらなかった。


 理由はわからない。


 ただ、このままにしておくことが、どうしてもできなかった。


 どれくらい時間が経ったのか。


 ふと、気配を感じて顔を上げる。


 入口の方に、誰かが立っていた。


 エドガーだった。


 いつからそこにいたのか、まったく気づかなかった。


「……失礼いたしました」


 わたくしはすぐに立ち上がる。


「いえ」


 エドガーは首を振った。


 そして、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 足音は相変わらず静かだ。


 彼は机の上の帳簿に視線を落とした。


 開かれたページ。


 書き足された文字。


 しばらく無言が続く。


 やがて、彼が口を開いた。


「それは」


 短い言葉。


 けれど、その先を促しているのは明らかだった。


 わたくしは、ほんの一瞬だけ迷う。


 これは、本来の業務ではない。


 咎められる可能性もある。


 けれど――


「……記録が途中で途切れておりましたので」


 正直に答えた。


「別の資料と照らし合わせて、推測を補いました」


 言い終えてから、わたくしは自分の言葉の不確かさに気づく。


 推測。


 つまり、正確ではない。


 それを記録に残すことが、正しいのかどうか。


 これまでのわたくしなら、絶対にしなかったことだ。


 正しくないものは、残さない。


 それが基本だったから。


 けれど、今は違う。


 エドガーはしばらく何も言わず、帳簿を見ていた。


 やがて、ページを一枚めくる。


 そして、また戻す。


 その動作は、どこか慎重だった。


「……なぜ」


 彼が言った。


「そこまで、するのですか」


 問いは簡潔だった。


 けれど、その意味は重い。


 なぜ、余計なことをするのか。

 なぜ、求められていないことをするのか。


 わたくしは少しだけ考え、それから口を開いた。


「わかりません」


 正直な答えだった。


「ただ……このまま何も残らないのは、少し……」


 言葉が途切れる。


 適切な表現が見つからない。


 けれど。


「もったいない、と感じました」


 それが、一番近い言葉だった。


 エドガーはわたくしを見た。


 その目は、初めてわずかに感情を帯びているように見えた。


「もったいない、ですか」


「はい」


 それ以上の説明はできない。


 理屈ではないからだ。


 ただ、そう感じた。


 それだけのこと。


 再び、沈黙が落ちる。


 文書庫の静けさが、二人の間に広がる。


 やがて。


 エドガーは、ゆっくりと息を吐いた。


「……そうですか」


 それだけ言って、彼は帳簿を閉じた。


 そして、机の上にそっと置く。


「あなたは」


 わたくしを見る。


「それを残したいのですね」


 その言葉に、わたくしはわずかに目を見開いた。


 残したい。


 そう言われて、初めて自覚する。


 わたくしは、これを残したいのだ。


 誰にも読まれなくても。


 評価されなくても。


 それでも、ここにあったものとして。


「……はい」


 小さく、しかしはっきりと答える。


 エドガーは、ほんのわずかに頷いた。


「わかりました」


 それ以上、何も言わない。


 咎めることも、評価することもなく。


 ただ、受け入れた。


 その事実が、わたくしの胸に静かに落ちる。


 初めてだった。


 正しさでもなく、役割でもなく。


 ただ「やりたいこと」を、そのまま受け取られたのは。


 わたくしは、再び帳簿に視線を落とす。


 書きかけの文字。


 まだ残っている余白。


 そこに、何を残すのか。


 それは、誰にも決められていない。


 わたくしが、決めていい。


 そのことが、ひどく不思議で――


 そして、ほんの少しだけ、温かかった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


セシリアは初めて、

「役割ではない行動」を取り、

それが“否定されなかった”経験をしました。


これは小さな出来事ですが、

彼女にとっては大きな一歩です。


次からいよいよ「過去(王都)」との接触が始まります。


ここから一気に物語が動きますので、

気になった方はぜひブックマークして追ってください。

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