第5話 誰も読まない記録
出立から三日後、わたくしは辺境の離宮に到着した。
王都から遠く離れたその地は、想像していた以上に静かだった。街と呼べるほどの規模はなく、わずかな集落と、古い石造りの建物が点在しているだけだ。
離宮はその中でも、ひときわ大きな建物だった。
かつては王族の滞在に使われていたらしいが、今はほとんど人の気配がない。外壁はところどころ風雨にさらされ、蔦が絡みついている。
「こちらになります」
案内役の男性が、短くそう告げた。
無駄な言葉はない。
彼はこの離宮の管理を任されている人物らしく、名前はエドガーと名乗った。年は三十代半ばほど。感情の起伏が表に出にくい、落ち着いた雰囲気の人だ。
わたくしは軽く頷き、彼の後に続いた。
重たい扉が開かれる。
中に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。石造りの廊下は広く、足音がよく響く。壁には古い絵画や装飾が残されているが、手入れは最小限のようだった。
使われていない場所特有の、静かな埃の匂いがする。
「文書庫は奥です」
エドガーは振り返らずに言った。
わたくしも余計なことは尋ねない。
ここでは、必要なことだけを受け取ればいい。
いくつかの廊下を抜け、階段を下りる。地下に近づくにつれて、空気はさらに冷たくなっていった。
やがて、ひときわ大きな扉の前で足が止まる。
「ここです」
エドガーが扉を押し開けた。
その先に広がっていたのは――
無数の棚だった。
天井の高い空間いっぱいに、木製の棚が整然と並んでいる。そこに収められているのは、すべて紙だ。束ねられた書類、革装丁の古い帳簿、巻物、封印されたままの箱。
そして、それらのほとんどが、手を触れられていない様子だった。
空気が重い。
長い時間を閉じ込めたような、静かな圧がある。
「……思っていた以上に、量がございますね」
自然と口からこぼれる。
「ええ」
エドガーは簡潔に答えた。
「ここは、王都で扱われなくなった記録の保管場所です」
「扱われなくなった……?」
「必要とされなくなったもの、と言い換えてもいいでしょう」
その言葉に、わたくしは棚の一つへと視線を向けた。
そこにあるのは、過去だ。
かつては誰かに必要とされ、書かれ、保管された記録。
けれど今は、誰も読まない。
「主な業務は整理と分類です」
エドガーが続ける。
「どの記録がどこにあるのか、それすら曖昧な状態ですので」
「閲覧されることは?」
「ほとんどありません」
即答だった。
少しだけ、胸の奥に何かが引っかかる。
誰も読まない記録。
それはつまり――存在していないのと、ほとんど同じということだ。
「……承知いたしました」
わたくしはゆっくりと頷いた。
仕事の内容は、理解できる。
評価もされず、成果も見えにくい。
けれど、与えられた役割である以上、やるべきことは明確だ。
「本日から、こちらをお使いください」
簡素な机と椅子が、文書庫の一角に置かれていた。
最低限の筆記具と帳簿。
本当に、それだけだ。
「必要なものがあれば、申し付けてください」
それだけ言うと、エドガーは軽く一礼し、その場を離れた。
足音が遠ざかり、やがて完全に消える。
残されたのは、わたくしと、無数の記録だけだった。
静かだ。
あまりにも静かで、自分の呼吸音さえ大きく感じる。
わたくしはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて最も近くの棚へと歩み寄った。
一冊の帳簿を手に取る。
表紙には、かすれた文字で年代と簡単な内容が記されている。
――地方税収報告書。
開いてみる。
そこには、びっしりと数字と記述が並んでいた。収穫量、徴税額、支出、補填。淡々とした記録。
けれど、その行間には確かに「人の生活」がある。
どこで作物が取れなかったのか。
どこで補助が必要だったのか。
どの地域が苦しんでいたのか。
それらはすべて、ここに書かれている。
そして。
誰にも読まれていない。
わたくしは、ゆっくりとページをめくった。
次の棚へ、さらに次へ。
内容はさまざまだ。
失敗した政策の報告。
途中で打ち切られた事業計画。
処罰された役人の記録。
名前だけが残された兵士の名簿。
どれも、華やかさとは無縁のものばかりだ。
王都で語られることのない、裏側の記録。
「……なるほど」
小さく呟く。
ここは、そういう場所なのだ。
必要とされなくなったものが、集められる場所。
言い換えれば――
忘れられたものが、置かれる場所。
わたくしは机へ戻り、一冊の帳簿を開いたまま座った。
そして、もう一度ページに目を落とす。
不思議なことに、嫌ではなかった。
むしろ、落ち着く。
誰かに見られているわけではない。
評価されるわけでもない。
ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るだけでいい。
それは、これまでの生活とはあまりにも違っていた。
王都では、常に見られていた。
常に評価されていた。
正しくあることを求められ、間違えないことを期待されていた。
けれどここには、それがない。
正解も、不正解もない。
ただ、記録があるだけだ。
わたくしはページをめくる。
一行一行、丁寧に追っていく。
気がつけば、時間の感覚が少し曖昧になっていた。
外の光が変わり、文書庫の中の影もゆっくりと形を変えていく。
それでも、手は止まらなかった。
「……これなら」
ふと、思う。
これなら、できるかもしれない。
誰にも期待されない場所で。
正しさを求められない場所で。
ただ、自分の手で何かを積み上げていくこと。
それは、初めての感覚だった。
わたくしは静かに息を吐く。
そして、もう一枚ページをめくった。
誰も読まない記録を、わたくしだけが読んでいる。
その事実が、ほんのわずかに、胸の奥を温めた気がした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少し地味な回ですが、この物語の“核”に触れ始めています。
セシリアは初めて、
「評価されない場所」で「役割を持たない状態」に置かれました。
それでも、なぜか落ち着いてしまう。
この違和感が、これからの大きな変化につながっていきます。
次話では、ここで初めて“他者”との関係が動きます。
そして、セシリアがこの場所でどう見られているのかが少し明らかになります。
気になった方は、ぜひブックマークして続きを追ってください。
ここから少しずつ“物語”が動き出します。




