第3話 失ったはずなのに、なぜか軽い
屋敷へ戻ったのは、夜も更けた頃だった。
馬車の中で、わたくしは一度も口を開かなかった。向かいに座る父も同様で、揺れる灯りの中、ただ静かに書類へ目を落としている。外の景色は暗く、時折街灯が流れていくだけだった。
いつもなら、何かしらの確認が入る。
夜会の振る舞いについて。
誰と何を話したか。
どの家とどの程度の距離を保ったか。
けれど今夜は、それがない。
代わりにあるのは、沈黙だけだった。
それが、すべてを物語っているように思えた。
屋敷に着くと、すでに使用人たちは状況を知っているらしく、誰一人として余計な言葉をかけてこなかった。頭を下げる角度はいつもと同じだが、その奥にある空気がわずかに違う。
同情とも、遠慮ともつかない距離。
わたくしはそれを正確に認識しながら、何も言わずに廊下を進んだ。
「セシリア」
階段を上がる手前で、父に呼び止められる。
振り返ると、父はすでに書類を閉じていた。その表情は、夜会のときと同じく、ほとんど感情を表に出していない。
「明日の朝、話がある。執務室へ来なさい」
「はい」
それだけだった。
慰めも、怒りもない。
ただ「話がある」とだけ告げられる。
けれどその言葉の意味は、よくわかっていた。
個人の問題ではなく、家の問題として処理される。
それがエーヴェルディア公爵家のやり方だ。
わたくしは軽く一礼し、自室へと戻った。
扉を閉めた瞬間、ようやく一人になる。
静かだ。
あまりにも静かで、耳鳴りがするほどだった。
わたくしはその場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと息を吐いた。
――泣くだろうか。
ここなら誰もいない。
取り繕う必要もない。
そう思って、目を閉じる。
けれど、やはり涙は出てこなかった。
代わりに、胸の奥に広がるのは、奇妙な感覚だった。
「……軽い」
思わず、声に出ていた。
軽い。
それは決して、喜びではない。
むしろ状況は最悪に近い。婚約は破棄され、王家との関係は揺らぎ、社交界での立場も大きく損なわれた。今後の縁談にも影響が出るだろうし、家にとっても無視できない損失だ。
それなのに。
胸の奥に、重苦しい何かが残っていない。
むしろ、長い間抱えていた見えない重りが、いつの間にか外れてしまったような。
そんな、頼りない軽さだった。
わたくしはゆっくりと歩き、窓際へと寄る。カーテンを少しだけ開けると、夜の庭が広がっていた。月明かりに照らされた石畳と、整えられた低木の影。
見慣れた光景だ。
けれど、どこか違って見える。
それはたぶん、わたくしの側が変わってしまったからだ。
これまでこの庭は、「公爵令嬢としてふさわしい振る舞いをする場所」だった。
歩き方ひとつ、立ち止まり方ひとつ、すべてが見られている前提で整えられていた。
けれど今、そこに立つ理由がない。
正しくある必要も、見られることを意識する必要も。
ふと、思う。
もし、誰も見ていないのなら。
わたくしは、どう歩くだろう。
どう振る舞うのだろう。
その問いに対する答えが、すぐには出てこない。
それが少しだけ、不思議だった。
これまでのわたくしは、どんな場面でも「最適な振る舞い」を選べた。迷うことはなかった。常に正解があり、それを選び続けてきたから。
けれど今、その正解がない。
代わりにあるのは、何も決まっていない空白だけだ。
「……困りますね」
小さく呟く。
本来であれば、不安になるべき状況だ。
先の見えない未来。
失われた立場。
揺らぐ家の期待。
それらを思えば、恐怖で動けなくなってもおかしくない。
なのに。
どうしてか、その不安が、はっきりとした形を持たない。
代わりにあるのは、ぼんやりとした感覚。
何かが終わって、何かが始まる前の、曖昧な時間。
わたくしは窓から離れ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そして、両手を膝の上に重ねる。
その仕草も、これまで通りに整っている。
けれど、その内側は、これまでとまるで違っていた。
――正しくなくてもいいのなら。
その考えが、ふと浮かぶ。
すぐに打ち消すべきもののはずだった。
エーヴェルディアの娘として、それはあまりにも逸脱している。
けれど、今のわたくしには、その言葉を完全には否定できなかった。
正しくあること。
それが、これまでのすべてだった。
それを失った今、残っているものは何だろう。
役割を取り上げられたあとに、何が残るのか。
答えは、まだ見えない。
ただひとつ、確かなことがある。
わたくしは、あの場所で、泣かなかった。
そして今も、泣いていない。
それは強さではない。
誇りでもない。
ただ、そういう人間であるという事実。
その事実を前にして、わたくしはようやく、小さく息を吐いた。
そして、ほんのわずかに――
口元が、緩んだ気がした。
それが笑みだったのかどうか、自分でもよくわからない。
ただ。
失ったはずなのに、なぜか軽い。
その感覚だけが、確かにそこにあった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
「婚約破棄=不幸」という前提が、少し揺らいできたのではないでしょうか。
この物語は、ここから“救われる話”ではなく、
「この軽さは何なのか?」を掘り下げていきます。
次話から舞台は大きく動きます。
セシリアは“娘”ではなく、“家の判断”として扱われます。
気になった方は、ぜひブックマークして続きを追ってください。
ここから物語が一段深くなります。




