第2話 正しい令嬢であることに、疲れていたのかもしれない
控室の扉が閉まった瞬間、外の喧騒が遠くなった。
重厚な木の扉は音をよく遮る。さきほどまであれほど近くにあったざわめきも、今はまるで別の世界の出来事のように、かすかに響くだけだった。
わたくしはその場で立ち止まったまま、しばらく動かなかった。
泣くべきだ、と思った。
ここなら誰も見ていない。令嬢としての体裁を保つ必要もない。泣いてもいい場所だ。むしろ、泣かなければならないのかもしれない。婚約を破棄された令嬢が、一人になっても涙ひとつ流さないなど、あまりにも不自然だ。
けれど。
「……出ませんのね」
呟いてみても、やはり目元は乾いたままだった。
喉の奥に、何かが引っかかっているような感覚はある。息を深く吸えば、胸の奥が少し痛む。それでも、それは涙に変わらない。
代わりに、奇妙な静けさだけが残っていた。
わたくしはゆっくりと歩き出し、控室の中央に置かれた椅子へと腰を下ろした。ドレスの裾が床に広がる。いつもなら皺の一つも気になるところだが、今はどうでもよかった。
視線を落とすと、手がわずかに震えているのが見えた。
恐怖だろうか。
それとも、ようやく遅れてやってきた動揺か。
わからない。
ただ、その震えを見つめながら、わたくしはふと思い出した。
――初めて「正しくなければならない」と言われた日のことを。
七歳の春だった。
まだ今ほど厳格な教育が始まる前、わたくしは庭でよく転んでいた。走るのが好きで、木陰を追いかけるように駆け回っては、よく膝を擦りむいた。
その日も、石畳の縁に足を引っかけて転び、泣きながら屋敷へ戻った。血が滲んだ膝を見せて、侍女に手当てをしてもらおうとしたのだ。
けれど、そこにいたのは母だった。
母はわたくしの膝を一瞥し、それから静かに言った。
「エーヴェルディアの娘が、人前でそのような姿を見せてはなりません」
声は優しかったが、拒絶の余地はなかった。
「転ぶことが悪いのではありません。転んだ後に、どう振る舞うかが大切なのです。痛みがあっても、泣かないこと。乱れた姿を見せないこと。それが、貴族としての品位です」
わたくしはその場で涙を引っ込めた。
痛みは消えなかったけれど、泣くことはやめた。
それが正しいのだと、理解したから。
それ以来、わたくしは泣くことを覚えなかった。
泣く前に、整える。
乱れる前に、抑える。
感情が顔に出るより先に、正しい表情を選ぶ。
そうやって少しずつ、わたくしは「エーヴェルディアの娘」になっていった。
「……だから、でしょうか」
今になって、ようやく腑に落ちる。
泣けないのではない。
泣き方を知らないのだ。
婚約破棄という出来事がどれほど大きくても、それにどう反応すればよいのか、わたくしの中に指針がない。少なくとも「正しい反応」は教えられていなかった。
正しくない感情は、後回しにする。
それが、これまでのやり方だった。
わたくしは指先を軽く握りしめた。手袋越しでもわかるほど、指先が冷えている。
――息苦しい。
先ほど殿下が口にした言葉が、遅れて胸に沈んでいく。
息苦しい関係だった、と。
その言葉に対して、怒りは湧かなかった。
代わりに、ひどく静かな納得があった。
そうかもしれない、と。
思い返せば、殿下と二人で過ごす時間に、安らぎを感じたことは少なかった。気まずいわけではない。むしろ逆で、常に整いすぎていた。
会話は途切れず、話題は適切で、互いに失礼なことは言わない。
完璧だった。
完璧すぎて、何も残らなかった。
殿下が何を考えているのか、わたくしは理解しているつもりだった。けれどそれは、本当に「理解」だったのだろうか。それとも、王太子としての殿下に対して、最も適切な応答を選び続けていただけなのだろうか。
もし後者だとしたら。
殿下が息苦しさを感じたのも、無理はない。
「……わたくしは」
言葉が途切れる。
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと空いた場所があるのを感じていた。
それは悲しみではなく、喪失でもなく。
――空白。
これまで何かで満たされていたはずの場所が、急に何もなくなってしまったような感覚。
婚約者という立場。
王太子妃になる未来。
公爵家の期待。
それらすべてが、今この瞬間に失われた。
ならば、わたくしはこれから何になるのだろう。
その問いに対する答えが、どこにも見当たらない。
扉の外で、かすかな足音がした。
控室の扉が静かに開き、侍女が一人、頭を下げて入ってくる。
「お嬢様。お着替えのご用意が整っております」
「……ええ」
反射的に返事をする。
いつも通りのやり取りだ。けれど、その「いつも通り」が、どこか現実感を失っている。
侍女はわたくしの背後に回り、慣れた手つきでドレスの留め具を外し始めた。重たい装飾がひとつずつ外されていくたびに、体が少しずつ軽くなっていく。
まるで、何かを脱ぎ捨てているようだった。
ただの衣装ではない。
もっと別の、長い時間をかけて身につけてきたもの。
「お嬢様、お怪我は……」
「ありません」
言い終えてから、少しだけ考える。
本当に怪我はないのだろうか。
体には、確かに何もない。
けれど、では心は。
その問いに答える言葉を、わたくしはまだ持っていなかった。
着替えを終え、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分の姿だった。整った髪、乱れのない表情、わずかに青ざめた頬。
完璧な公爵令嬢。
けれど、その肩書きはもう、意味を持たない。
鏡の中の自分を見つめながら、わたくしはゆっくりと瞬きをした。
「……わたくしは」
再び言葉を探す。
何を言うべきかではなく、何を思っているのかを。
これまでのわたくしは、常に「正しい言葉」を選んできた。求められる答えを先に考え、それに自分を合わせてきた。
けれど今は、その必要がない。
正解を求める相手がいない。
ならば。
「……わたくしは、どうしたいのでしょう」
その問いは、ひどく曖昧で、ひどく頼りなかった。
けれど同時に、これまで一度も口にしたことのない問いでもあった。
どうあるべきか、ではない。
どうしたいか。
その違いが、こんなにも大きいものだとは思わなかった。
答えは、まだ出ない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
あの大広間で、わたくしは泣かなかった。
それは、強さではない。
誇りでもない。
ただ、そういう人間になってしまったというだけの話だ。
そして――
その事実に、ほんのわずかだけ、安堵している自分がいることを。
わたくしは、まだうまく受け止められずにいた。
読んでいただきありがとうございます。
「泣けない主人公」という違和感が、少しずつ見えてきたと思います。
この物語は、ここから“どう立ち直るか”ではなく、
「そもそもどう生きていたのか」を解体するところから始まります。
次話では、家としての判断が下されます。
セシリアは“娘”としてではなく、“駒”として扱われることになります。
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第3話で、第1ブロックのひとつの区切り(小さなカタルシス)まで進みます。




