第15話 それでも残します
その日の作業は、いつもより静かだった。
音がないわけではない。
紙をめくる音。
筆先が擦れる音。
遠くで風が鳴る音。
けれど、それらすべてが、どこか遠くに感じられる。
文書庫の中にあるのは、沈黙ではなく――張り詰めた均衡だった。
わたくしは机に向かい、帳簿を開いている。
目の前にあるのは、これまでと同じようで、少しだけ違うページ。
補遺の記録。
そして、その隣には、王都からの指示書。
削るべきもの。
整えるべきもの。
その両方が、同時にそこにある。
わたくしはしばらくその状態を見つめていた。
どちらも正しい。
どちらも必要だ。
けれど、両立はしない。
どちらかを選べば、どちらかを失う。
それは、はっきりしている。
「……判断はついたか」
不意に、声が落ちた。
顔を上げると、レオンがすぐそこに立っている。
いつの間にか、距離が近い。
逃げ場のない位置。
けれど、視線は冷静だった。
圧をかけているわけではない。
ただ、確認している。
「削除対象の件だ」
短く続ける。
「どうする」
選択を、求められている。
わたくしは、わずかに息を吸った。
この問いに、曖昧な答えは許されない。
保留はできない。
ここで決める必要がある。
わたくしはゆっくりと立ち上がった。
そして、机の上の帳簿に手を置く。
「……命令には、従います」
最初に、そう言った。
レオンの目が、わずかに細くなる。
続きを待っている。
「正式な記録は、指示通りに整理いたします」
それは事実だ。
否定するつもりはない。
王家の記録は、王家のものだ。
それを管理するのは、彼らの役割だ。
けれど。
「その上で」
言葉を重ねる。
「別の形で、残します」
空気が、わずかに変わる。
レオンは動かない。
ただ、視線だけが強くなる。
「補遺として」
帳簿を指す。
「正式記録とは別に」
ここに。
残す。
「……それは」
レオンが口を開く。
「二重記録だ」
「はい」
「管理を複雑にする」
「承知しております」
すべて、理解している。
非効率だということも。
問題があるということも。
それでも。
「それでも、残します」
同じ言葉を、もう一度。
今度は、迷いなく。
はっきりと。
沈黙が落ちる。
文書庫の空気が、ぴんと張り詰める。
エドガーは何も言わない。
ただ、その場に立っている。
レオンは、しばらくわたくしを見つめていた。
その視線は、評価でも否定でもない。
測っている。
どこまで本気か。
どこまで理解しているか。
それを。
「理由は」
短い問い。
わたくしは、一瞬だけ考える。
理屈ではない。
それはわかっている。
けれど、言葉にしなければならない。
「……そこにあったからです」
口から出たのは、シンプルな言葉だった。
飾りも、論理もない。
「消えていいものではないと、感じました」
それだけ。
それ以上は、言えない。
けれど、それで十分だった。
レオンは、わずかに息を吐いた。
「感覚か」
その言葉には、わずかな苦味があった。
「非論理的だ」
「はい」
否定しない。
その通りだから。
けれど。
「ですが」
続ける。
「それでも、必要だと思います」
必要。
その言葉を、自分で使うとは思わなかった。
これまでのわたくしは、「正しいかどうか」で判断していた。
けれど今は違う。
必要かどうか。
それで、選んでいる。
レオンはしばらく黙っていた。
その沈黙は、否定のためのものではない。
思考の時間。
やがて。
「……非効率だな」
いつもの言葉。
けれど。
その響きが、また少し変わっていた。
断定ではない。
評価でもない。
ただ、事実としての言葉。
「だが」
一拍。
「完全に無意味とは言い切れない」
その一言に、わたくしはわずかに目を見開いた。
否定ではない。
初めての、明確な変化。
レオンは帳簿に視線を落とす。
「管理の外にある記録は、統制できない」
それは、問題だ。
彼の立場からすれば。
けれど。
「それがどう作用するかは……現時点では判断できない」
言葉を選びながら、そう言った。
完全な理解ではない。
だが、切り捨ててもいない。
その中間。
わたくしは静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
自然と、そう言っていた。
許可ではない。
承認でもない。
けれど。
止められなかった。
それだけで、十分だった。
レオンは何も答えず、背を向ける。
そのまま、棚の方へと歩いていく。
会話は終わった。
けれど。
わたくしの中で、確かに何かが変わっていた。
選んだ。
そして、それを否定されなかった。
その事実が、静かに根を張る。
わたくしは机に戻り、帳簿を開く。
筆を取る。
そして、迷いなく書き始めた。
これは、正しいかどうかではない。
評価されるかどうかでもない。
それでも。
ここにあったものを、残す。
そのための行為。
「……わたくしは」
小さく呟く。
「残します」
その言葉は、もう揺らがなかった。
読んでいただきありがとうございます。
セシリアが初めて「明確な選択」をしました。
これは小さな反抗ですが、
彼女にとっては決定的な一歩です。
そしてレオンも、完全には否定しませんでした。
ここから二人の関係が少しずつ変わっていきます。
次話では、「その記録が誰に届くのか」が描かれます。
物語の意味が一段深くなります。
ぜひブックマークして続きを追ってください。
ここからさらに面白くなっていきます。




