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婚約破棄されたので記録係になったら、消されたはずの人々が世界を変え始めました  作者: 月守いとは


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第12話 これは無意味だ

 文書庫の空気は、昨日とは明らかに違っていた。


 静けさは変わらない。

 けれど、その中に「見られている」という感覚がある。


 レオン・ヴァルディス。


 彼は無駄に動かない。


 だが一度棚の前に立てば、短時間で記録を確認し、必要な箇所だけを抜き出し、次へ進む。その動きには迷いがなく、まるであらかじめ答えを知っているかのようだった。


 わたくしは机に向かいながら、その様子を横目で見ていた。


 昨日の言葉が、まだ頭の中に残っている。


 ――検証不能な情報は、記録としての価値を持たない。


 ――記録の目的は、管理だ。


 正しい。


 少なくとも、これまでのわたくしならそう判断していた。


 それでも。


 手元の帳簿に目を落とすと、その考えはわずかに揺らぐ。


 そこにあるのは、確かに不完全な記録だ。


 推測であり、確証はない。


 けれど、何もないよりは――


「そこ」


 不意に声がかかる。


 顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。


「その帳簿を」


 短い指示。


 わたくしは静かに立ち上がり、手元の帳簿を差し出す。


 レオンはそれを受け取り、ページをめくる。


 そして、例の箇所で止まる。


 わたくしが書き足した部分。


 彼はそれをしばらく見つめていた。


 沈黙。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……これは、削除対象だ」


 やはり、そう来る。


 予想していた言葉。


 それでも、胸の奥がわずかに動いた。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 自分でも驚くほど、静かな声だった。


 レオンは帳簿から目を離さずに答える。


「根拠が不明確だ」


「複数の記録を照合した上での推測です」


「推測は記録ではない」


 即答だった。


 迷いがない。


「事実として確認できない以上、それは情報ではなく解釈だ」


 ページを指でなぞる。


「解釈は、記録に含めるべきではない」


 その言葉は、冷たい。


 だが、理にかなっている。


 だからこそ、否定しにくい。


「……ですが」


 わたくしは続ける。


「このままでは、何も残りません」


「残らない方がいい場合もある」


 すぐに返される。


「不確かな情報は、誤った理解を生む」


 視線が上がる。


 まっすぐに、こちらを見る。


「それは害だ」


 言い切る。


 その断定の強さに、わたくしは一瞬だけ言葉を失った。


 害。


 それは、単なる不要ではない。


 存在すべきでないもの、という意味だ。


 わたくしの書いたものは、そこに分類されている。


 しばらく沈黙が続く。


 文書庫の空気が、少しだけ重くなる。


 その中で、わたくしは自分の考えを探していた。


 これまでなら。


 ここで引いたはずだ。


 正しい判断に従う。


 それが最善だと理解しているから。


 けれど。


「……それでも」


 言葉が出る。


 止める前に。


「それが、誰かの手がかりになることもあります」


 レオンの目が、わずかに細くなる。


 反論を待っている。


「完全ではなくても」


 続ける。


「何もないよりは、意味がある場合も」


「それは記録の役割ではない」


 即座に返される。


「記録は、判断のための基盤だ」


 言葉が重なる。


「曖昧さは、基盤を崩す」


 その理屈は、揺るがない。


 隙がない。


 だからこそ。


 わたくしは、少しだけ息を吸った。


「……では」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「誰も判断しない記録は、どう扱われるべきでしょうか」


 一瞬だけ、空気が止まる。


 レオンの視線が、わずかに変わる。


 初めて、思考が入ったような間。


「……何を言っている」


「ここにある多くの記録は、読まれていません」


 文書庫を見渡す。


 無数の棚。


 無数の記録。


「判断の基盤として使われていないものも、多くあります」


 それは事実だ。


 だからこそ、ここにある。


 レオンは黙って聞いている。


 否定はしない。


 だが、肯定もしない。


「それでも」


 わたくしは続ける。


「残されています」


 なぜか。


 その問いは、まだ明確な答えを持たない。


 けれど。


 確かに、ここにある。


 レオンはゆっくりと帳簿を閉じた。


 そして、机の上に置く。


「……非効率だ」


 再び、その言葉。


 だが今度は、少しだけ違う響きだった。


「だが」


 一拍。


「すべてを排除することも、現実的ではない」


 わたくしは、その言葉を静かに受け止めた。


 完全な否定ではない。


 だが、認めてもいない。


 その中間。


「これは保留とする」


 短く言う。


「他の記録との整合性を確認するまで、削除は行わない」


 それだけで、彼は背を向けた。


 会話は終わった。


 けれど。


 わたくしの中で、何かが確かに変わっていた。


 否定された。


 それでも、完全には消されなかった。


 その事実が、静かに残る。


 わたくしは帳簿を見つめる。


 そこにある文字。


 まだ、消えていない。


「……無意味、ではないのですね」


 小さく呟く。


 その言葉に、答える者はいない。


 けれど。


 わたくしの中では、はっきりとした感覚があった。


 これは、まだ終わっていない。

読んでいただきありがとうございます。


レオンとの価値観の衝突が本格的に始まりました。


「正しさ」と「残したいもの」

どちらも間違っていないからこそ、ぶつかります。


次話では、この対立がさらに深まり、

王都側の意図も少しずつ見えてきます。


ここから物語は一段階ギアが上がります。

気になった方は、ぜひブックマークして続きを追ってください。

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