第11話 監査官の来訪
その来訪は、予告なく訪れた。
昼過ぎ、文書庫の空気がわずかに変わったのを、わたくしは先に感じていた。足音が違う。ここにいる人間のものではない、ためらいのない歩幅。
やがて、入口に一人の男が現れる。
黒に近い濃紺の外套。装飾は最小限だが、質は明らかに上等。無駄のない立ち姿と、周囲を観察する視線の速さが、ただ者ではないことを示していた。
エドガーがすぐに一歩前へ出る。
「ご到着をお待ちしておりました」
男は軽く頷いた。
「予定より早くなった」
声は低く、無機質に近い。
それから、視線がこちらへ向けられる。
一瞬で、値踏みされる感覚があった。
「こちらが?」
「はい。エーヴェルディア公爵令嬢、セシリア様です」
紹介を受け、わたくしは立ち上がり、礼をした。
「セシリア・エーヴェルディアでございます」
男はわずかに顎を引く。
「レオン・ヴァルディス。王都文書局より派遣された監査官だ」
やはり。
わたくしはその肩書きを聞いた瞬間、胸の奥が静かに引き締まるのを感じた。
監査官。
つまり――記録を“確認し、正す”側の人間。
「本日より、当離宮文書庫の記録整理状況を確認する」
レオンは周囲を一瞥する。
棚の配置、帳簿の状態、机の上の書類。
すべてを、短時間で把握しているようだった。
「進捗は」
エドガーに向けられた問い。
「整理は進行中です。分類は七割ほど完了しています」
「遅いな」
即答だった。
責める口調ではない。
ただ、評価としての言葉。
「理由は」
「未整理記録の状態が想定以上に悪く……」
「想定が甘い」
そこで会話は切られた。
エドガーは何も言い返さない。
ただ、受け入れている。
そのやり取りを、わたくしは静かに見ていた。
レオンは視線をこちらへ戻す。
「あなたは」
短く区切るような言い方。
「何をしている」
問いは、あまりにも直接的だった。
わたくしは一瞬だけ考え、それから答える。
「文書の整理と、記録の補足を」
「補足?」
わずかに、声の調子が変わる。
興味か、それとも警戒か。
「はい。途中で途切れている記録について、関連資料をもとに補記を行っております」
言い終えると、レオンはゆっくりと机に近づいた。
帳簿を一冊手に取る。
ページをめくる。
そして、止まる。
わたくしが書き足した部分。
そこを、じっと見ている。
沈黙が落ちる。
文書庫の空気が、わずかに張り詰める。
「……これは」
低い声。
「あなたが書いたのか」
「はい」
「根拠は」
間髪入れない。
「複数の記録を照合し、推測を」
「推測」
言葉を繰り返す。
その響きは、明らかに肯定ではない。
レオンは帳簿を閉じた。
そして、机に置く。
「これは記録ではない」
断言だった。
迷いがない。
「検証不能な情報は、記録としての価値を持たない」
その言葉は、鋭かった。
刃のように、余計なものを削ぎ落とす。
「……ですが」
わたくしは口を開く。
「何も残らないよりは」
「残らない方が正確だ」
遮られる。
一切のためらいなく。
「不確かな情報は、誤認を生む。誤認は判断を誤らせる」
視線が、まっすぐに向けられる。
「記録の目的は、管理だ」
その一言は、重かった。
これまでわたくしが感じてきたものと、真っ向からぶつかる言葉。
「感情ではない」
静かに、しかし確実に。
わたくしの中の何かを否定するように。
文書庫が、さらに静かになる。
エドガーは何も言わない。
ただ、その場に立っている。
わたくしは、レオンの言葉を受け止めながら、ゆっくりと息を吸った。
否定されることは、予想していた。
むしろ、それが当然だ。
これは、正しいやり方ではない。
これまでの自分なら、そう判断していた。
けれど。
今は違う。
わたくしは、帳簿に手を置いた。
「……それでも」
言葉が、自然と出る。
「これは、ここにあったものです」
レオンの眉が、わずかに動く。
初めて、反応らしい反応だった。
「消えるべきではない、と感じました」
理由は、うまく言えない。
理屈ではないから。
けれど、それでも。
確かに、そう思った。
レオンはしばらくわたくしを見つめていた。
その視線は鋭いままだが、どこか測るような色を帯びている。
「……非効率だな」
やがて、そう言った。
それは否定ではあったが、先ほどとは少し違っていた。
切り捨てるような響きではない。
評価としての言葉。
「だが」
一拍置く。
「確認は続ける」
それだけ言って、彼は別の棚へ向かった。
会話は終わった。
けれど。
文書庫の空気は、確実に変わっていた。
静かな場所に、異物が入った。
その存在は、まだ波を起こしてはいない。
けれど。
確実に、何かを揺らし始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
ついに“対立者”が登場しました。
レオンは敵ではありませんが、
セシリアの価値観を真正面から否定する存在です。
ここから物語は一気に「思想のぶつかり合い」に入ります。
次話では、
「記録とは何か」という核心に踏み込みます。
少しでも続きが気になったら、
ぜひブックマークして追っていただけると嬉しいです。
ここから面白さが一段上がります。




