第10話 読まれる記録
その変化は、あまりにも静かに訪れた。
いつも通りの朝だった。
文書庫の中はひんやりとしていて、外の光はまだ弱く、棚の影が長く床に落ちている。わたくしは机に向かい、前日書き進めた記録の続きを確認していた。
筆を取り、言葉を整える。
書き直すことも、削ることもある。
それでも、最初に書いたものを完全に消すことはしない。
それが今の、わたくしのやり方だった。
――誰かが読むかもしれない。
その可能性を、少しだけ考えるようになっていた。
けれど、それはあくまで「もしも」の話で。
現実には、ここにある記録はほとんど読まれない。
それは、変わらないはずだった。
「……あの」
不意に、声がした。
わたくしは顔を上げる。
入口の近くに、小柄な少女が立っていた。
見覚えはある。
離宮で働いている下働きの一人だ。名前は――確か。
「ミア、でよろしかったでしょうか」
声をかけると、少女は少し驚いたように目を丸くした。
「は、はい……!」
それから慌てて頭を下げる。
「お、お邪魔でしたら、その……すぐに……」
「いいえ、構いません」
わたくしは首を振った。
ここに誰かが来ること自体、珍しい。
それだけで、少しだけ空気が変わる。
「どうかなさいましたか」
そう尋ねると、ミアはもじもじと手を握りしめた。
何かを言いたいが、どう切り出せばいいかわからない。
そんな様子だった。
しばらくの沈黙のあと、彼女は意を決したように口を開いた。
「あの……これ……」
差し出されたのは、一冊の帳簿だった。
見覚えがある。
わたくしが書き足した、あの記録だ。
「……お読みになったのですか」
思わず、そう聞いていた。
ミアはこくりと頷く。
「はい……その、字は全部は読めないんですけど……でも、少しだけ……」
言いながら、彼女は帳簿を大事そうに抱えた。
その仕草が、わたくしには少し意外だった。
ここにあるものは、基本的に「扱われないもの」だ。
丁寧に扱われることは、ほとんどない。
けれど、彼女は違った。
「……何か、ございましたか」
問いかけると、ミアは少しだけ顔を上げた。
その目は、どこか迷っているようで、でもはっきりとした何かを含んでいた。
「この人……」
彼女は帳簿のあるページを開く。
指先で、ある名前を示した。
「この人、うちのおばあちゃんの話に出てきた人と……同じ名前で……」
わたくしはその箇所を見る。
北部開拓村の記録。
途中で途切れていた名前。
そして、わたくしが推測を補った箇所。
「おばあちゃんが、昔……一緒に村に行ったって……でも、そのあと、どうなったか知らないって……」
ミアの声は、少しだけ震えていた。
「でも、ここに……少しだけ書いてあって……」
彼女は、わたくしが書き足した一文を指でなぞる。
――疫病の可能性。
確定ではない。
あくまで推測。
それでも。
「……たぶん、こうだったんだなって……」
小さく、そう言った。
その言葉に、わたくしは一瞬、何も返せなかった。
これは、正確な記録ではない。
証明もされていない。
それでも。
目の前の少女にとっては、それが一つの「答え」になっている。
「……そう、ですか」
ようやく、それだけ言葉にする。
ミアはこくりと頷いた。
「はい……」
少しだけ、表情が柔らかくなる。
安心したような、納得したような。
そんな顔だった。
わたくしは、その様子を静かに見つめていた。
胸の奥で、何かがゆっくりと動く。
これまでの記録は、誰にも読まれなかった。
意味を持たなかった。
ただ、そこにあるだけだった。
けれど今。
目の前で、確かに「読まれている」。
そして、意味を持っている。
「……ありがとうございます」
ミアが、ぽつりとそう言った。
予想していなかった言葉だった。
「少しだけ……わかった気がして……」
その言葉に、わたくしは目を伏せる。
わかった気がする。
それは、完全な答えではない。
けれど、何もないよりはずっといい。
そのことを、わたくしは知っている。
だから。
「……いいえ」
静かに、首を振る。
「わたくしは、ただ書いただけですので」
それが本音だった。
誰かのために書いたわけではない。
ただ、残したかった。
それだけだ。
けれど。
その結果として、誰かに届くのなら。
それは――
わたくしの想像よりも、ずっと意味のあることなのかもしれない。
ミアはもう一度、頭を下げた。
そして、帳簿をそっと机に戻す。
「あの……また、読んでもいいですか」
「ええ」
自然と、そう答えていた。
ミアは嬉しそうに頷き、小さく礼をしてから、静かに去っていった。
足音が遠ざかる。
再び、文書庫に静寂が戻る。
けれど。
先ほどまでとは、少しだけ違っていた。
わたくしは机の上の帳簿を見つめる。
そこにある文字。
自分で書いたもの。
それが、誰かに読まれた。
意味を持った。
「……読まれるのですね」
小さく呟く。
その言葉は、驚きでもあり、確認でもあった。
記録は、残るだけではない。
読まれることで、初めて意味を持つ。
そのことを、今さらのように理解する。
わたくしはゆっくりと筆を取った。
そして、新しいページを開く。
何を書くのか。
それはまだ決まっていない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
――これは、誰かが読むかもしれない。
その事実が、わたくしの手を、ほんの少しだけ強く動かした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第2章の導入です。
初めて「読まれる」という体験が、
セシリアの中で静かに意味を変え始めました。
ここから物語は、
“個人の選択”から“他者との関係”へと広がっていきます。
そして次話、ついに外部からの人物が登場します。
ぜひブックマークして続きを追っていただけると嬉しいです。
ここから一気に空気が変わります。




