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婚約破棄されたので記録係になったら、消されたはずの人々が世界を変え始めました  作者: 月守いとは


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第1話 婚約破棄の夜、わたくしは泣かなかった

婚約破棄から始まる物語ですが、いわゆる「ざまぁ」や恋愛メインではありません。


誰にも読まれない記録、消されていく名前、

そして「残すこと」に意味があるのかを描いていくお話です。


静かに始まりますが、少しずつ世界が動いていきます。

最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 その夜、わたくしは大広間の中央に立っていた。


 磨き上げられた白い石の床には、無数の燭台の光が金の筋となって揺れている。高い天井からは王家の紋章を染め抜いた垂れ幕が下がり、弦楽の音はつい先ほどまで、春の夜会にふさわしい穏やかさを保っていた。


 けれど今、その音は止んでいる。


 静まり返った広間に響いているのは、王太子殿下のよく通る声だけだった。


「よって私はここに宣言する。セシリア・エーヴェルディア公爵令嬢との婚約を、破棄する」


 その言葉は、あまりにも明瞭で、あまりにも整っていた。


 まるで長く練習された台本の一節のように。


 わたくし――セシリア・エーヴェルディアは、ゆっくりとまばたきをした。目の前に立つ王太子アルベルト殿下の顔は、少し青ざめて見えたが、口元だけは妙に固く引き結ばれている。隣には、薄桃色のドレスをまとった子爵令嬢ミレイユが寄り添い、怯えたように殿下の袖を掴んでいた。


 周囲から、息を呑む気配が広がる。


 誰かが扇を取り落とし、乾いた音が床を打った。


 誰かが小さく「まあ」と囁き、誰かが興奮を隠しきれない声で隣とささやき合う。視線という視線が、舞台役者でも眺めるように、わたくし一人へと注がれていた。


 泣くべきだ、とわたくしは思った。


 こういう場面では、泣くのが正しいのだろう。少なくとも、多くの人が期待しているのはそういう反応だ。顔を青ざめさせ、震える声で無実を訴えるか、あるいは悲鳴のひとつでも上げて崩れ落ちるか。そのどちらかであれば、この場にいる人々は安心してそれぞれの役を演じられる。


 婚約を破棄された哀れな令嬢。

 それを断罪する高貴な王太子。

 新たな寵愛を受ける可憐な娘。

 事情を知らぬながら成り行きを見守る社交界。


 誰にとっても分かりやすい。


 けれど、わたくしの胸の内には、涙ひとつ浮かんでこなかった。


 冷たい。


 ただ、そう感じた。


 冬の朝、水差しに手を入れた時のような冷たさが、心の深いところを満たしている。痛みと呼ぶには輪郭が曖昧で、悲しみと呼ぶには熱が足りない。わたくしはただ、その冷たさを抱えたまま、王太子殿下を見上げていた。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 自分の声が思った以上に静かで、わたくしは少し驚いた。


 広間の空気が、ぴんと張り詰める。


 殿下は一瞬だけ目を逸らし、それからまるで決意を固めるように顎を上げた。


「君は公爵令嬢として、王太子妃となるにふさわしい品位と知性を備えている。だが、それだけだ」

「……それだけ、でございますか」

「君は常に正しく、常に完璧だった。私が何を言おうと、君は正解を返した。王家の利益、公爵家の責務、社交界への配慮、すべてを見事にこなした。だが私は……そのような関係に、息苦しさを覚えていた」


 広間がざわめく。


 その言葉は、おそらく多くの者にとって予想外だったのだろう。もっと刺激的な罪状――嫉妬、嫌がらせ、陰湿な妨害、あるいは不貞。そういうわかりやすい悪意の告発を期待していた人間も少なくないはずだ。


 けれど殿下が口にしたのは、ひどく曖昧で、ひどく個人的な言葉だった。


 息苦しい。


 その一言に、なぜか胸の奥がかすかに揺れた。


「ミレイユは違う」と、殿下は続けた。「彼女は未熟だ。礼儀も完璧ではない。だが彼女は私を見てくれる。王太子としてではなく、一人の人間として。私は、その温かさを選びたい」


 隣のミレイユ嬢が、はっとしたように目を見開き、それから感極まったように伏し目がちになる。


 それはおそらく、殿下にとっては真実なのだろう。


 だからこそ、少しも芝居じみて聞こえない。


 わたくしは広間の隅に控える父を見た。エーヴェルディア公爵は微動だにせず、鋭い目で事態を見つめている。母は扇を口元に当てたまま、表情を読み取らせない。どちらも、わたくしを助けるつもりはないのだと、その沈黙だけでわかった。


 当然だ。


 これはわたくし個人の感情の問題ではなく、家と王家の問題である。彼らがここで不用意に口を挟めば、より多くを失う。


 そう教えられて育ってきた。


 エーヴェルディアの娘は、常に家の利益を最優先しなければならない、と。


 七歳で礼法を叩き込まれ、十歳で王宮作法を学び、十三歳で外交文書の要約を命じられた。刺繍や舞踏だけではない。領地経営の基礎、税制の仕組み、貴族家同士の婚姻関係、歴代王妃の嗜好と失脚理由。必要だと言われたものは、すべて覚えた。


 間違えないこと。

 乱れないこと。

 求められた以上を返すこと。


 それが、わたくしの生き方だった。


 殿下と初めて顔を合わせたのは、わたくしが八歳の時だ。あちらは十歳で、すでに王太子としての教育を受けていた。子どもらしく笑うことの少ない方だったけれど、聡明で、気位が高くて、少し不器用だった。


 わたくしは、その隣に並ぶにふさわしいよう努めた。


 殿下が一歩進めば、わたくしも一歩。

 殿下が求める前に、必要なものを用意する。

 殿下の言葉が詰まれば、補う。

 沈黙が落ちれば、場に最適な話題を差し出す。


 そうしているうちに、いつしかわたくしは、殿下の考えを先回りして答えるようになっていた。


 それが支えになると、信じていた。


 それが婚約者の務めだと、疑いもしなかった。


「セシリア嬢」


 不意に名前を呼ばれ、現実に引き戻される。


 声の主は国王陛下だった。玉座の前に立つ陛下は、深い疲れをその目に宿しながらも、厳かな口調を崩さない。


「王太子の意思は、すでに私にも伝えられている。此度の件、王家としては婚約の解消を認める」

「……承知いたしました」


 その瞬間、わたくしの婚約は正式に終わった。


 広間のあちこちで、抑えた声が波のように広がる。哀れみ、安堵、好奇心、侮り、計算。貴族たちの感情は香水のように濃く混ざり合い、けれどそのどれもが、わたくしには遠いものに思えた。


 泣かなければ。


 まだ、そう思っている。


 婚約を破棄された令嬢が、何事もなかったように立っているのは、きっと気味が悪い。少なくとも社交界では、美しい悲嘆にくれる方が、後々の同情を買いやすいだろう。傷ついた令嬢としての立場を守るには、その方が賢明かもしれない。


 けれど、涙は出ない。


 代わりに浮かんできたのは、あまりにも場違いな感覚だった。


 ――ああ、終わったのだ。


 それは絶望ではなく、妙な静けさを伴っていた。


 長い長い回廊を、ずっと正しい姿勢で歩き続けてきた末に、ようやく出口の扉が開いた時のような。足元は不安定で、先が見えるわけでもないのに、それでも一歩止まって息をつけるような、そんな感覚。


 そのことに気づいた瞬間、わたくしはぞっとした。


 終わってしまって、少しだけ楽だと感じている。


 その事実が、婚約を失ったことそのものよりも恐ろしかった。


「申し開きはないのか?」

 どこかの伯爵が、野次に近い声を上げた。

「殿下に対して謝罪もなさらないとは」

「それとも、何か弁明がおありで?」


 わたくしはそちらに視線を向けた。彼らは皆、続きを待っている。断罪劇の第二幕を。悪役の言い逃れか、敗者の涙を。


 けれど、わたくしの口から出たのは、自分でも意外なほど素直な言葉だった。


「……ございません」


 広間が一層ざわつく。


 アルベルト殿下がわずかに眉をひそめた。怒りではなく、戸惑いに近い表情。たぶん殿下も、もっと何かあると思っていたのだろう。非難でも、恨み言でも、あるいは潔白の主張でも。


 わたくしはスカートの脇をつまみ、王と王妃へ向けて深く礼をした。幼い頃から何百回と繰り返した、完璧な礼だった。


「これまで王家より賜りましたご厚情に、心より感謝申し上げます。未熟な身ゆえ至らぬ点も多々あったことと存じますが、本日まで王太子殿下の婚約者として在れましたことを、光栄に思います」


 唇が、するりと定型句を紡ぐ。


 いつも通りだ。

 いつも通り、間違いなく、美しく。


 それなのに、その言葉を口にしながら、わたくしは自分がひどく空っぽな器になったような気がしていた。


 礼を終えて顔を上げると、視界の端でミレイユ嬢がわたくしを見ていた。その瞳には、勝ち誇りよりも、むしろ怯えに似た色があった。彼女もまた、この場の重さに押し潰されそうなのだろう。


 ふいに、責める気持ちは湧かなかった。


 彼女を憎めば、いくらか楽だったかもしれないのに。


 けれど実際には、わたくしは彼女のことをほとんど知らない。知っているのは、殿下が彼女の前では笑うようになったことと、最近の茶会でわたくしが口を開くより先に、彼女が何度か殿下の袖を引いていたことくらいだ。


 あの時、殿下は少し困ったようで、それでもどこか安堵したように見えた。


 その表情の意味を、わたくしは考えたことがなかった。


 考える必要がないと思っていた。

 婚約は感情で揺らぐものではないと、信じていたから。


 もしかすると、最初から間違っていたのは、わたくしの方だったのかもしれない。


 そんな思いがよぎり、すぐに打ち消す。正しいとか間違いとか、そういう単純な話ではないはずだ。ただ、何かがずっと前から噛み合っていなかった。それだけは、今さらのようにわかった。


「セシリア」


 低い声で呼ばれ、振り返る。父だった。


「控室へ下がりなさい」

「はい、お父様」


 それだけだった。慰めも、叱責もない。


 けれどその短い言葉に、わたくしはかえって救われた。余計な感情を交えられれば、今度こそ何かが決壊していたかもしれない。


 わたくしはもう一度だけ広間を見渡した。眩い光、きらめく宝石、上質な絹、緊張と興奮に頬を染めた貴族たち。この場所は、わたくしが生まれた時から目指すべき舞台だった。


 ここで失敗してはならない。

 ここで恥をかいてはならない。

 ここで選ばれ続けなければならない。


 そうやって生きてきた。


 なのに今、そこから降ろされたわたくしの胸にあるのは、焼けるような屈辱ではなく、底の見えない静けさだった。


 きっと、あとから来るのだろう。

 怒りも、悲しみも、恐怖も。

 部屋に戻って一人になれば、遅れて涙があふれるのかもしれない。


 そう思いながら、わたくしは人々の視線を背に、大広間の出口へ向かって歩き出した。


 一歩、また一歩。


 背筋を伸ばし、速度を乱さず、裾を鳴らしすぎないように気をつけて。最後まで正しい公爵令嬢として、この場を去るために。


 けれど扉の前まで来た時、不意にひどくおかしな考えが胸をよぎった。


 もし、わたくしが今まで演じてきた“正しいセシリア”が、ここで終わったのだとしたら。


 では、扉の向こうに出るのは、いったい誰なのだろう。


 その答えは、まだわからない。


 ただひとつ確かなのは、婚約を破棄されたこの夜、わたくしは結局、一滴の涙も流さなかったということだけだった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


もし少しでも

「この主人公、ただの可哀想な令嬢ではなさそう」

「ここからどう再出発するのか気になる」

と思っていただけたら、ブックマークして追いかけてもらえると嬉しいです。


次話では、婚約破棄の直後にセシリアが何を失い、逆に何から解放されたのかを、もう少し深く掘っていきます。

“泣けなかった理由”が、少しずつ見えてきます。


当面の間は1日3話を投稿予定です。

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