70.歴史家は笑う
フレデリックたちが顔を見合わせて笑っていると、イングラム翁がグレアムを見てにんまりと笑った。
「なるほど、グレアム。楽しみだの?」
「そうでございましょう?わたくし、恐らく生まれて初めてレオに感謝いたしましたよ」
「良く言うわい」
ほっほっほっ、とイングラム翁が楽しそうに肩を揺らして笑った。グレアムも珍しいほど表情を崩して笑っているし、叔父の呼び名がレオになってしまっている。これもまた、イングラム翁とグレアムの間のひとつのつながりゆえなのだろう。
「さて、もうそろそろ時間じゃが質問はあるかな?」
ひとしきり笑うとイングラム翁がフレデリックたちを目を細めて見回した。
イングラム翁もすっかりと言葉が崩れているが、自分たちもまたイングラム翁の生徒のひとりになれたようでフレデリックにはそれがむしろ嬉しく感じる。
知りたいことはたくさんあるが、それを聞くべきはきっと今ではないと思う。
それでもせっかくの機会を逃したくなくてフレデリックが悩んでいると、アイザックが「あの…」と小さく手を上げた。
「僕も質問してよろしいでしょうか?」
「もちろんじゃよ、何でも言うてごらん」
「あの……離宮の森にも立ち入り禁止区域にもこの国には自生しないはずの大きな白いユリが咲いているんです。もしかして離宮の森や立ち入り禁止区域に珍しい植物が多いのは、その洪水のときに流された過去の薬草園にあった種が芽吹いたり、無事だった植物が根付いたりしたものなんでしょうか?」
緊張した面持ちで何度も瞬きをしつつアイザックが言った。
イングラム翁はそんなアイザックを見て目尻に沢山のしわを寄せてまた嬉しそうに笑い何度も頷いた。
「ほっほっほっ!スペンサー侯爵令息は良く勉強をしておるの。歴史を知っていても植物について知らねば気が付けぬ。植物を知っていても歴史を知らねば気が付けぬ」
「あ…ありがとうございます!」
アイザックが頬を染めて嬉しそうに笑った。歴史の好きなアイザックはイングラム翁を強く尊敬しているのだ。
イングラム翁はそれまで難しい言葉で綴られてきた歴史書を子供たちにも分かりやすいようにと、要約して容易な言葉で書き記した『こども歴史集』全十巻を二十年かけて書き上げた人物だ。アイザックの愛読書であり、スペンサー侯爵家には十巻全てが揃っている。
今もイングラムの有志が歴史が進むたびに国に納める正史と並行して書き続け、まとまったら十一巻目を出版するらしい。
いつかアドラムの反乱についても書かれる日が来るのだろう。その時、歴史家イングラムはアドラムをどう書くのだろう。それを判断するのは何十年もあとの世の者たち…そういうことだ。
イングラム翁が楽し気にワーズワース子爵を振り返ると、子爵もまたイングラム翁とよく似た目元でにっこりと笑って頷いた。
「その通りじゃよ、スペンサー侯爵令息。あの森に珍しい植物が多いのは以前の薬草園の名残じゃ。洪水で流されたのか、残されていた種や植物を生き残ることを信じた誰かが森に逃がしたのか…それは分からん。だが東の研究所があったゆえに今の森がある。そうして、それらは間違いなくエヴァレットが一番詳しい」
「俺も良いでしょうか」
歴史の授業中に質問をすることなど一度も無かったレナードが手を上げた。振り向くと、いつもはぼんやりとしている目がはっきりと開いている。
「ああ、言うてごらん」
「エヴァレットであれば誰でも各地の立ち入り禁止区域の一部に入れるんですよね?エヴァレットを守りたい者も、一緒に禁止区域へは入れるんですか?」
「ふむ……君はエヴァレットに守りたい者がいるのかの?」
「いや、俺じゃなくて…兄の婚約者がエヴァレット直系の令嬢なんです。跡継ぎでは無いんですが」
「ああ、次代のリンドグレン侯爵に令嬢が嫁入りするんじゃったな」
「そうです」
ふむ、とイングラム翁は顎に手をやると少し考えた後にゆっくりと首を横に振った。
「そもそも、エヴァレットから出る時点で禁止区域立ち入りの特例は無くなるの」
「え」
「エヴァレット嬢は禁止区域に入れなくなるのか!?」
あまりの驚きにフレデリックは会話に割り込んでしまった。アイザックも「駄目なんですか」と目を丸くしている。
「あ、すまない、レナード」
「いえ、俺も同じ気持ちですから」
ぎゅっと眉根にしわを寄せたレナードが唇を噛んだ。
生き生きと、森の中を駆け回っていたリリアナが立ち入り禁止区域に入れなくなる。
もちろん一般区域には入れるのだから森には入れるが、あの薬草第一のようなリリアナが珍しい薬草を取りに色々な場所へ入れなくなるのは…まるで蝶から羽をもぐようなものでは無いだろうか。萎れてしまいはしないだろうか。
「ほっほっほっ、エヴァレット嬢はずいぶんと次代の信頼を得ているようじゃの」
「森の…薬草の申し子のような令嬢なんだ。珍しい草花を求めて国中を駆け巡って楽しそうに笑って…そんな姿しか想像できない」
ふるふるとフレデリックが首を横に振るとイングラム翁はぐっと目を細めた。
「じゃが誉れ高き騎士の家リンドグレン侯爵家の奥方ですぞ?国中を駆け巡られては誰がリンドグレンを守って行かれるのですかな?」
「それは……」
フレデリックは言い淀んだ。貴族家の夫人の役割は重い。家を取り仕切り時には領地も取り仕切る。その上で子を産み、育み、社交までこなす。言葉で言うのは簡単だが少し想像するだけでも頭が下がる。
その大切な仕事を放り出して各地を巡ることが正しいのか…それを決めるのはリンドグレン侯爵家でありフレデリックには何も言えない。
「問題ありません。リンドグレン自体がじっとしてませんから。それに俺の母も家にほとんどいないですがどうとでもなってます」
リンドグレンの血筋がさらりと言った。レナードは跡継ぎでは無いがきっとキースも同じことを言うのだろう。想像がつく。
淡々と言い切ったレナードにイングラム翁が破顔した。
「ほほほ!その通りじゃの!リンドグレンは今でこそ騎士家じゃがそもそもが森の民じゃからの!」
「森の民?」
フレデリックがちらりとレナードを見ると、レナードも同じように首を傾げている。フレデリックたちの不思議そうな表情を見てイングラム翁は満足そうに頬を緩めて頷いた。
「安心せい。エヴァレット嬢がリンドグレンの奥方になるのはエヴァレット嬢のためにもなる。リンドグレンは古には森と共に生きる民じゃった。リンドグレンが獣を狩って野や森を整えエヴァレットがその野や森で草花を摘み薬を作る。そうして支え合ってきたのがふたつの民じゃ。建国より更に遠い昔のことでほとんど忘れ去られておるが、リンドグレンに入ることこそがエヴァレットの姫が最も自由に生きられる道じゃよ」
「つまり、どういうことだ?」
「エヴァレット嬢は家でも特に能力を認められておるんじゃろうの。リンドグレンに嫁に出すことでその能力を守ったんじゃよ。リンドグレンは騎士の家じゃが、今も森と共に生きておるじゃろう?」
「そういえばお前、六歳で厄災熊に遭遇したって言ってたな?」
「まあ、うちでは普通です」
「言うておくが普通の騎士家は討伐以外でそうそう森の奥まで入らんぞ?ましてや子は絶対入らん」
「そう、なんですか……?」
レナードが愕然とした顔でイングラム翁を見ている。
フレデリックもおかしいとは思っていたのだ。やはりリンドグレン侯爵家が凄かった。
「森の民の名残じゃろうな。森で生きる術を叩きこまれとるんじゃろ。ゆえにどれほどエヴァレットの姫が自由に動き回ってもリンドグレンは着いて行けるし守ることもできる。どこよりも安全なのがリンドグレンの側、ということじゃの」
「だが、リンドグレンに入ると禁止区域立ち入りの特例が無くなるのだろう?」
「特例が無くなるだけですからの。許可をお出しになればよろしい」
「あ、そういうことか」
特例は無くとも王族の許可があれば良いだけだ。誰が出さずとも立太子後のフレデリックなら出せる。
「見事な差配ですの。古の薬草の民の姫が森の民の次期長と忘れ去られた縁を結び、義弟が殿下を守る剣となったことで次代の王である殿下の信を得て殿下の御代を支える大切なひとりとなる…。いやはや、いったいどこの誰がいつから仕組んでいたことでしょうなあ」
楽しそうに肩を揺らすイングラム翁に、フレデリックたちは顔を見合わせて首を傾げた。




