第38話 第四部 3『インターハイが始まった』
「中川君は……やっぱり長距離かなー。秋山先生は去年から何度も言ってたんだよね。センゴよりゴセンだろうなって……」
「うーん、今みたいな激しく競ったレース見てると、中川の性格には合わないみたいだな。コーナーなんか肩で押し合いしてるだろう。あいつの体、何回もふらついてた。やっぱ、中距離は格闘技か……」
「あの子の性格じゃあないわよねー。一人のときはとってもきれいな走りなのに」
「でもよく3分台で走ったさ。プラスの最後の一人が3分51だから、やっぱレベル高いわ。あいつの組が一番速かったから、引っ張られたにしても3分53で走ったからな」
1500m予選で中川健太郎は三着取りに残れなかった。
沼田先生は初めて4分を切った中川健太郎の健闘を喜びながらも、五日日程の初日、しかも午前中で競技が終わってしまうのを残念がっている。でも、こればかりは仕方がない。実力の世界であることの証だった。
「いやー、速いっわー!やっぱ全国はさすがに……、だけど中川君もすごいんでないかい! 53秒で走ったっしょ! いやいやー、全道大会だったら優勝だったっしょ!」
5メートルも離れたところから本人より先に田上先生の声がやって来た。その大きな声で周りにいた何人もの他校の先生たちが一斉に振り向いている。
「うちの小椋よりタイムいいもんね! いつの間にあんなスピードつけたのさー。もう駅伝に借りたいくらいだわー!」
「秋山先生はゴセンの方がいいだろうって言ってます。あの子はあんまり競り合う雰囲気じゃないから」
「うーん、そっかい! 5000mかい、いいかもしんないわな。きれいで効率的な走りしてるもんね。無駄なエネルギー使いませんよって走りしてるわなー。中距離選手って結構上半身強かったりするからなー」
「せっかく徳島までやって来たのに、初日で終わりになっちゃうのもなんか、辛いもんですね」
「いやいや沼田さん。全国ってそんなもんなのさー。結構きつい出費もあってねー、親たちも大変なんだけどねー。それはもうしゃーないもんなー。予選のある競技はどうしてもねー、地区を勝ち抜いたところで種目によっては力の差って結構あるからなー」
「高跳びも予選きついんですけど、女子は四日目で男子は最終日なんでちょっと良いんですけどねー」
「でもさ、一人だけしか出てない学校だったら、あとは観光旅行しかなくなるけど、あんたらんとこはまだいっぱい残ってんだからいいって。最終日までちゃんとあるっしょ」
「まあ中川だったら単純に走るの好きな奴ですから、明日からまたサブグラウンド走ると思いますよ」
「いや沼田さんそれよりねえ、あの野田君! 八種のほうのね、まあまあやっぱりすごいって。百と幅でダントツでしょう! 全道の時とは違うね! あのほら、地区で高校記録出してた奈良の選手なんか霞んじゃってるもの。すごいことになりますよこれ! もう大変だわー!」
「やだ、田上先生。まだ始まったばっかりなのに先生が興奮してもだめですよ。あの外崎って選手はね、二日目が強いんですよ。特にね、ハードルと高跳び。あの身長だし、本州の子たちハードル強いから……」
「そうそう、悦ちゃん。そのね、ハードルよ。あの奈良東雲高校の先生はさハードルの専門家で有名なのさ。えっとほら、千歳体育の新しい監督。あいつもさ東雲高校なんだ」
「万年さんですか? 東京の実業団から来たんでしたよね。昨日初めて話したんですけど、まだ32歳だって……」
「うんうん、万年君ね。彼から聞いた話だとさ、もう近畿圏ではあの人が全部ハードル指導してんだとさ。大阪はまた別の組織があるらしいけどさ、奈良とか京都とか和歌山とかね、それと名古屋だったかな、月に何回も練習会があるって話だ。だからあのあたりの選手はもうハードル日本一うまい。スピード勝負じゃない部分がホントにうまい。陸マガなんかでも取り上げてたっしょ」
「ありましたね、うちのハードルの子たちも参考にしてましたよ。それからあの、女子七種競技の京都の選手もそうですよ。13秒台で走ってますから」
「すごいねー……、いやーでも野田君勝ってもらいたいね。ねえ沼田さん!」
「いや、田上先生。ぼくはね勝つと思ってますよ。高跳びとか槍とかちゃんとタイミング取れればびっくりするような記録出ると思いますから」
「そっかい!期待したいねー!しばらく金メダル見てないからさー、やってほしいねー」
「田上先生、自分とこの生徒もちゃんと見てなきゃだめですよ!」
「分かてってますって! もうまた、悦ちゃんに怒られたから退散するわ。したら後で、また!」
全国常連校の田上先生は顔見知りも多いので、次々と挨拶を交わしながら自分の生徒の方へと戻っていった。札幌選手団団長として他校の世話までしっかり面倒見てくれる田上先生は、二人の大学の先輩というだけでなく、人として素敵な人だ。
野田賢治の全国大会は大会初日10時からの100m走で始まった。4組目に入ったノダケンは向かい風0.8mの中10秒90の記録を出した。2組めに10秒89で走った地元徳島の選手に次ぐ記録だ。この選手はランキング二位でやって来ている。予想以上に小柄な彼の走りは、強い上半身が作り出す脚の回転の速さによって生み出されている。上半身をまっすぐに保ったままのピッチ走法には体幹の強さが欠かせない。
「ウォッシャー!!」
最終5組目のスタート。マンナンは外崎と同じ5組目に入っている。プログラムを見た時からそれが分かっていたので前日のサブトラックでの「アッピール」につながったのだ。
今日も、走る前から盛んに彼に話しかけ続けた。露骨に嫌な顔を見せていた外崎には構わず常に彼にまとわりついている。スターティングブロックに入る前にも、周りを圧倒するような大きな声で気合を入れた。マンナンにとっては最も苦手な100mなのに、ここでもしっかり周りに圧力をかけている。
そして彼は、この組で最も速いスタートを切った。そういえば地区大会でもスタートは素晴らしかった。自分の学校の監督のことを「なにゆうて万年」と言ってからかうヤツだが、その新しい監督先生のおかげでスプリントは去年よりはるかに向上していた。
スタートで1mほども前に出たマンナンを外崎をはじめとする他の選手は必死に追いかけた。タイム差はかなりあるのですぐにマンナンは捕まり、この組6番手の11秒56の記録だったのだがこれは彼の自己記録だ。そして彼のパフォーマンスにしっかり乱されてしまった他の選手たちは記録をことごとく落としてしまった。何せ、北海道からやって来た予期しない選手が想定外の飛び出しを見せたので、慌てて力配分を乱してしまったようなのだ。外崎も11秒27と地区大会の11秒05には及ばない。
「いやーやっぱ速いねー!すごいっしょ!さすがだねー」
走り終わってもまだ絡んで行くマンナンに彼はすぐに背中を向けて歩き出した。
走り幅跳びは二組に分かれ、僕はマンナンと外崎と一緒の2組目。100mでトップだった地元徳島の高橋選手は1組目に入った。11時30分の競技開始。徳島の空は一段と輝きを増し、真夏の陽光は札幌なんかと比較できるはずがなかった。珍しく塗った日焼け止めの効果があったのか、肌を突き抜けてしまうような強烈な日差しをブロックしてくれている気がした。それにしても、まあ……本物の強烈な暑さの中で走り幅跳びが始まった。
トップバッターはマンナンだ。強烈な太陽光は、この時間になると助走路のタータンをも幾分柔らかくしてしまった。上から強くたたきつけるようなマンナンの走りが踏切版を強くたたいた。スピードがない分高く跳び出した彼は、いつも以上に両手を大きく動かして着地のタイミングを上手にとっている。6m36㎝の記録が表示され、マンナンは大きく落胆のポーズを見せた。そしてそのあとすぐに外崎のところに行って踏切動作のジェスチャーを見せながら大声で話し始めている。彼の二人後に僕が走路に立つまでの間マンナンはずっと話し続け、外崎は彼から離れるきっかけを失っている。彼は最終跳躍者だけれどもこのままだとしっかりとした準備なんかできそうになかった。
風は競技場内を舞うように方向を変えていてもさほど強さはない。向かい風でも気にならない程度だ。呼吸を整え、大きく体を前後に動かしてから助走のスタートをきった。小刻みに歩幅を広げていく助走の前半でマークの位置を確認し、踏切板の手前で全力に達する走り方を何度も練習してきた。今日はその練習の成果が出ていた。力みすぎることなくスムーズに踏切版を押し返して跳びだした。踏み切った瞬間にスタンドの最前列が近く感じた。二回半空中で脚を漕ぎ、伸ばした右足にハードル走の抜き足のように後ろから大きく回して左足をそろえた。両腕を背中から前へと伸ばすと、顎が膝につきそうになった。今までとはちょっと違った感覚だ。砂に両踵がつくのを待って膝を曲げ、両腕の肘を中心に反動をつけながら体を砂場の外へと跳び出させた。今まで何度も失敗してきた着地の練習は成果を上げている。
「No1221 7m11㎝」の表示板がゆっくりと回転している。これが最高記録というわけではないけれども自分の思うような動きができた。記録もしばらくぶりの7m台に乗せられた。スパイクを脱ぎ足の砂を払っているとマンナンが大げさな動作で拍手しながらやって来た。
「野田ー!やるねー!さすがランキング三位だけあるなー!」
こっちに向かっているのは体だけで、その顔と声は周りの選手に向かっていた。
「お前やりすぎだって……」
小声で言ったが、聞こえていたはずのマンナンは完全にそれを無視してさらにしゃべり続けた。
「……これくらいやらないと勝てねえべや」
彼は耳元でそう言った。顔は大げさ過ぎるぐらいに笑っている。
外崎の走りは大きい。腕も脚も長い彼の動きはゆったりして見えてもスピードは十分だ。マンナンは185㎝まで身長を伸ばし、181㎝の僕より目の位置が上だ。さらに背の高い外崎は196㎝なので、彼と向き合うとうんと上から見おろされている感じがする。けれども、マンナンとは正反対に彼の表情は柔らかで、その言葉も強さを感じさせない。走っても跳んでも、その動作はなめらかで繊細ささえ感じさせる。細く長い手脚をいっぱいに後ろに反らせた彼は、その反動をうまく使って着地をまとめている。6m86㎝と記録が表示された。彼は下を向いて帰ってきた。マンナンは大げさすぎるほどに手をたたいた。
「おー、やっぱりすごいねー。さすがー!」
外崎はその声に少しむっとした顔を見せた後、何も言わずにスタンド最前列にいる監督先生のところに行ってアドバイスを聞いていた。
「ほら、あいつ、大した事ねえべよ。チャンスだぜ!」
マンナンは見事に自分のペースで試合を進めていた。自信をもってやっているからこそ、自分は思うとおりに記録を伸ばし相手にはプレッシャーをかけ続けられている。
結局、マンナンはその後記録を6m48㎝まで伸ばし、僕と外崎は一回目の記録を伸ばすことはできなかった。僕の記録はベストに近いが外崎は地区大会で7mを超える記録を出していた。
大会初日も午前の競技が終わるころには、さすがにインターハイの全国大会会場だけあって、まるで祭りのような熱気に包まれている感じになってきた。NHKや他の民放らしいテレビカメラも各地点に点在し、レポーターらしき人達が動き回っている。選手の関係者ばかりでない観客も多く、競技場外ではお土産用のボックスもたくさん並んでいた。協賛企業の宣伝ポスターがたくさん貼られ、スポーツドリンクの無料サービスまであるのだ。
それもそのはずで、ここに集まったのは全国各地から選ばれた精鋭たちであり、いかに人気のない陸上競技とは言え、今年の全国ナンバーワンを決める大会なのだ。競技場の外に出て見回しているうちに今更ながらそんなことに気づいている。やっぱり自分もこの雰囲気にのまれて緊張していたのだろうか。
外崎は、大会前からメディアや観客の注目を一身に集めていたのだから、そのプレッシャーは計り知れないものだったろう。そして、なぜだかマンナンのような破天荒なヤツに付きまとわれ、ここまでは自分のペースで試合を進められずにいる。いつもの自分を取り戻そうと懸命だったはずだ。彼だって初めての全国大会でもあり、想像以上に襲ってきていたプレッシャーと緊張のために実力を十分に発揮できずにいるに違いない。
それにしても、マンナンはやっぱり「健太郎に嫌われるに値する」すごいヤツだ。去年から自分に絡んできていたのはこういう目的があったからなのだ。アイツに絡まれるってことは力を認められたってことでもあるわけなのだが……。でも中学の頃にもそんなヤツが身近にいたし、僕自身はわりとこういうことに慣れていた。だから軽くかわして、あまり気にせずに競技に向かうこともできた。
外崎はきっとまじめなやつなのだろう。でもそればっかりじゃ強くなれない。良くも悪くもそれが事実だ。
「ナカガワー、惜しかったなー。他の組だったら三着入れたかもしんないじゃん!」
今朝早くに徳島にやって来た武部が、コーナーで競り合いになったシーンをタブレットに映し出している。
「全国だ。そんな、甘くない」
大会スポンサーで、競技場にも名を冠しているポカリスエットを両手に一本ずつ持った中川健太郎は、ちょっとだけ悔しそうにそう言った。
「あれだけ競った中で3分53で走ったんだもの……立派だよ、健太郎!」
「ありゃりゃ、また山野が褒めてるなー。珍しいことにねー!」
「何よー! タックンも褒められたいんでしょ! それなら、ちゃんと自己ベスト出してみなさいよー!」
「タクは最終日だろ?予選ラインはいくつ?」
「それがさー、武部ー、……2mなのさー」
「タックン全国なんだから、弱気になったら負けなんだよ! 私だって166だからねー。全国なんだから、当たり前なんだよね……」
「智子はー、と四日目か。山野が三日目ねー。うまい具合に皆最終日までばらけてくれたんだ。中川だけ早かったわけかー」
「あっ、ほら、野田君が戻ってきたよ」
「マンナン!いる!」
健太郎が後ろを向いた。
喜多満男は途中で野田賢治から離れ自分の高校の仲間の元へと歩き出した。
「健太郎、マンナンは行っちゃったよ」
武部の後ろに隠れるようにしていた健太郎に山野紗季が声をかけた。
「武部! いつ来た? 朝からいたのか?」
武部裕也は両親とともに昨日大塚国際美術館を一日かけて見学した後、鳴門市のシーサイドホテルに宿泊しているのだと長い説明を始めた。
「ミーさんは?」
「バカ姉は一人で動くの好きだから、鳥取の砂丘でラクダに乗るって言ってからもう、全然連絡なし!」
「そう、やっぱりー!変わってないみたい」
「健太郎、自己記録出したな。やるじゃん! プラスに残んなくても、すげえ記録だよ」
「うん、まあまあ」
「あらー、やっぱ健太郎も褒められるといい顔になるなー」
タクのその言葉にみんなが笑い、健太郎の予選落ちはそれでもうおしまいになった。
田上先生を通して業者に用意してもらった弁当を清嶺高校の生徒も一緒になって食べることになり、武部のコンビニ弁当に皆が少しずつプレゼントをすることで武部に歓迎の意を表している。地区大会の頃から清嶺高校の生徒とも顔見知りの武部には、十人以上から様々な弁当のおかずが集まった。まるでこれから大食い選手権が始まるような量の食材を目にした彼は、予想外のことに嬉しすぎて箸を持った両腕で万歳をした。いや、それはもしかすると、イジメられていると思った降参の姿かもしれなかった。




