百足原合戦顛末 その三
師谷の離反の問題が片付いても、一縄は安定しなかった。一縄勢の要であった師谷が無くなり、大きく勢力が削がれた上に、まだ元服も済んでいない正虎が棟梁では、最早一縄に味方するのは損と考えるのも無理からぬ事だ。その上、いつの間にやら郷巻の勢力が一縄本領を見下ろす鷹ノ巣山にまで及び、築かれた物見砦が日夜一縄領を見下ろしているとなれば、実害の有無より先に屈辱的な事態だった。師谷を見せしめにしたにもかかわらず、家人の離反はなかなか止まらない。漸く落ち着いた頃には、百足原の合戦から八年の月日が流れていた。
それでも、櫛の歯が抜ける様に配下の家人が減って行く一縄が持ち堪えたのは、一にも二にも、笠階宇木正と土薙忠隆が、一貫して一縄正虎を支え続けた事による。雷の代には、数いる家人の中の中堅に過ぎなかった二人だが、この頃には、一縄勢の中で押しも押されもせぬ二大武将に成り上がっていた。勢力は小さくなったが、苦難を乗り越えた一縄勢の武将の結束は固い。一つ懸念があるとすれば、いつの世も両雄並び立たず。力が強くなるに従い、笠階宇木正と土薙忠隆の仲は、看過できないまでに悪くなっていった。
更に十二年の雌伏の時を過ごし、三十三歳になった一縄正虎は、遂に鷹ノ巣山物見砦を落とした。郷巻に一泡吹かして、一縄が歓喜に湧いた冬はあっという間に過ぎ去り、春めき始めたある日、正虎は上機嫌で配下の武将達を集めた。もう、寺の本堂にコソコソ集まる必要は無い。白昼堂々と、一縄の屋敷に配下の武将が参集する。
「次の一手に出る。準備を怠るな。」
上機嫌に正虎が大声を上げる。
「お、いよいよ敵の本丸攻めか。」
嬉しそうに土薙忠隆が目を輝かせる。
「まだ早い。」正虎は渋い顔を見せる。「物には順序ってものがある。」
「んじゃ、どこで?」
「待て、それは時期が来たら申し渡す。兎に角今は兵を養え、武具を磨け、修行を怠るな。」
「そりゃ、勿論でさぁ。お任せあれ。」
「郷巻興嶽が気になります。」静かに笠階宇木正が口を開く。「何を考えているのやら。」
「は!…あんな腰抜けには何もできん。」
正虎は気分を害して横を向く。
「それならば良いのですが、用心に越した事はありません。」
正虎が宇木正の方に身をのり出す。
「あいつぁなぁ、冬の間、何もできなかったんだぞ。ノコノコ都から帰って来たと思ったら、冬ごもりを決め込みやがった!山猿のくせに冬眠を決め込みやがった。」
正虎の乾いた笑いが響き渡る。
「それが不気味です。」宇木正は至って真面目な顔だ。「やられたら、やりかえす。自分なら多少準備が不充分でも、間髪を入れず反撃します。…何故、興嶽はそうしないのでしょう。」
「攻めて来やがれって待ち構えてる相手によ」土薙忠隆が口を挟む。「それも、わざわざ攻め難い場所へ兵を進めなきゃなんねぇ。山猿だって、そんな馬鹿じゃねぇって事だろ。山猿は山猿なり、頭使ってやがらぁ。宇木正みてぇに、なんも考えずに反撃すりゃ、鷹ノ巣山の急な山道でぇ大敗すんのが見えてるってこった。」
忠隆はフフンと鼻で笑う。
「確かに、そうかも知れない。…そうなら良いんだが。」
宇木正は、忠隆の挑発に乗らず、真面目に答える。
「案ずるな宇木正。こっちが先手を取れば良いだけの事。」正虎は全く意に介さない。「奴等はもう山の上から眺めていない。今度は大兵力を動かすぞ。」
自信たっぷりに言い切る正虎は、不敵な笑みを湛えて居並ぶ武将を見回した。
親方はああ言うが…。
一縄の屋敷から自分の屋敷に帰る道すがら、馬の背の上で宇木正は相変わらず思案に耽っていた。
高々物見砦一つにしろ、敵に取られたままにしておけば、周囲の者は郷巻興嶽を臆病者と思うだろう。それは、いろんな場面に悪い影響を及ぼす筈。特に郷巻の家人達が棟梁を心許ないと感じれば、結束にひびが入りかねない。土薙忠隆の言う事にも一理ある。拙速に攻めて負ければ、それこそ家臣の信頼が揺らぎかねない。それを危惧して控えているのか?いや、鷹ノ巣山が攻め難いのならば、何も鷹ノ巣山を攻めなくても良いだろう。要は、一縄勢に一泡吹かせれば、仕返しになる。山を迂回して、攻め易そうな手近な曲輪を血祭りにあげれば、占領せずに兵を返しても充分に釣り合う成果だ。両者痛み分けに持ち込める。なのに攻めて来ないのは、もっと深謀遠慮があるからと違うのか?そうでなけりゃ、家人の中に血の気の多い連中はどこにでも必ず居て、そいつ等がいつまでも黙っている訳が無い。それは自分の考え過ぎだろうか。
宇木正が屋敷に帰り着くと、玄関で息子の和正が出迎える。
「お帰りなさいませ。」
和正は小さく頭を下げる。
「うん。アカゲラを呼んでくれ。」
宇木正はそれだけ告げると、真っ直ぐ自室に向かう。
「母上と山吹のところにも、一度顔を見せに行かれてはいかがでしょう。」
父の背中に向けて、和正は声を掛ける。
「うん、考えて置こう。」
そうは言うが、上の空での返事にしか聞こえない。和正は小さく溜息をついて、父の後姿を見送ってからアカゲラを探しに向かった。
宇木正が自室で思案し始めて直ぐに、アカゲラと呼ばれた男が姿を見せる。
「お呼びで。」
板戸の向こうから声がする。低い、静かにしていなければ、聞き逃してしまいそうなくらい小さな声。
「アカゲラか、入ってくれ。」
板戸がスーッと開いて背の高い若者が入って来る。昼間のせいなのか、それとも着物が淡い色のせいか、男の表情が明るく見える。太い眉、黒々として吸い込まれそうな大きな目、頭の上でのたうち回る髪、それらがどうしても、彼の印象を暗くする。
「郷巻がこのまま黙っているとは考えられない。」男が自分の前に正座するなり、宇木正は話し始める。「必ず何か仕掛けて来る。それが知りたい…。」
男は黙って聴いている。瞬きも忘れたように、宇木正の顔をじっと見つめる。
「お前は郷巻の領内に入り込み、奴等の動きを探れ。何か分かったら、直ぐに報告しろ。何も分からなくても、二日に一度、戻って来て、経過を教えろ。良いか?」
「承知。」
「いつからかかる。」
「今夜から。支度ができ次第、ここを出て、領地境は暗くなってから越えます。」
夜目が利くユニ族の彼なら、その方が安全だ。
「よし、行け。」
小さく首を縦に振った後、男は立ち上がり、部屋を出て行った。
「谷子呂。」
郎党が寝起きする部屋へ戻る男を笠階和正が呼び止める。宇木正が『アカゲラ』と呼ぶ同じ男を、和正は『谷子呂』と呼んだ。谷子呂が彼の本当の名だ。
「お役目か?」
「はい。」
和正の問いに谷子呂は短く答える。
「お前、山吹に会いたくはないのか?」
和正は、谷子呂に近付き耳打ちする。それには答えず、谷子呂は黙ったまま軽く会釈をして和正の前を辞す。
「おい。」
和正はもう一度声を掛けたが、遠ざかる谷子呂を引き留める事はしなかった。
谷子呂は郎党達が使う部屋に戻り、出発の準備をする。笠階の屋敷に住み込みの郎党は十名余りいるが、常人と違う目を持つ谷子呂に話し掛ける者は居ない。彼が一人支度をしていても、見て見ぬふりをしている。この先、笠階宇木正が今回の役目を解除するまで、谷子呂がこの部屋に戻ってくる事は無い。例え二度と戻って来なくとも、他の郎党達は気にしないだろう。事実、一年前の春、十年ぶりに谷子呂が戻って来た時、一人として彼に話し掛けた者は居なかった。
谷子呂は、夕暮れに屋敷を出て、山の中で夜が更けるのを待つ。
『山吹に会いたくないのか?』
ぼんやりと時が経つのを待っていると、笠階和正の言葉が脳裏をよぎる。思わず首から下げた呼子笛を握る。それは、赤漆で表面を仕上げた小さな笛だ。吹く口の反対側の端に穴をあけ、紐を通して首から掛けている。春もまだ浅い。夜になれば、山の中は息が白くなる程に冷える。笛は谷子呂の着物の内で温まっていた。笛を握り締めれば少しは落ち着くと思っていたが、むしろ胸の内のざわめきは大きくなる。白い息を吐きながら、谷子呂は夜空を見上げる。寒さで引き締まる空気の中、高く昇った月が冴えていた。
竹林の中の館で同じ月を見上げる娘がいる。笠階宇木正の娘、山吹。十六歳になったばかりの彼女は、この館で母親と二人、下女達に世話をやかれて暮らしている。
「母上、今夜は良い月が出ています。」
回り廊下に立ち、冷えた外気の中で、降り注ぐ月光を全身に浴びる。青白い光に浮かび上がる彼女の白い肌、色素が足りない茶色の長い髪は、弱い月光の中でもはっきりと輪郭が浮かび上がっている。
「昨夜も良く月が見えたではないですか。特別な事ではありません。」
冷気を避け、囲炉裏端で暖を取る母・露音の声が板戸越しに室内から聞こえる。
「今日で丁度、一年になります。」
山吹は月を見上げたまま口にする。
「何の話です?」
「母上とこの館に来たのが去年の春先の事でした。」
「もう、そんなになりますか。」
「私達は、いつまでここに居なければならないのでしょう。」
「それは、父上が決める事です。…そう、山吹は、もう十六になりましたね。」
「はい。」
「そろそろ、よい嫁ぎ先を決めなければ。笠階の屋敷に戻るのではなく、嫁ぎ先に行く事を考えましょう。」
「…父上はそのつもりでしょうか。」
「当たり前です。」
「そうですか…」
山吹は、宇木正ができるなら山吹を手元に残したいのだと気付いている。しかし、家督は長男の和正が継ぐ。それでも父は、なにか妙案をひねり出して、山吹を笠階に残したいと考えている。娘が可愛くて手放したくないのではない。山吹の体に流れる血を笠階に残したいのだ。
どうでも良い。
家のために誰かと一緒になるのなら、父が望む相手だろうと、母が喜ぶ相手だろうと同じ事だ。自分は駒に過ぎない。ならば、駒として生きてやろう。だけどそうなる前に、せめてその前に、必ず戻って来ると約束してくれたあの人に会って話がしたい。
十年前に見上げた月と同じ月が夜空に輝いている。あの時も凍てつく寒さの中で、月の光が冴えわたっていた。きっとあの人は、どこかで同じ月を見上げている。だから待っていられる、笛の音がいつかなる時を。