あざなえる縄 その二
澤の郷曲輪の合戦から二年が経った。雪に閉ざされる冬が終わり、雪解け水を得た草が芽吹き、桜が山に色どりを添える頃に、谷子呂が笠階の屋敷の前に立った。谷子呂の隣には、斎行大師が編み笠を被って並ぶ。この屋敷に用事があるのなら、入って行くなり、声を掛けるなりすればいいものを、それもせずに只、門の前に二人並んで屋敷に向かって突っ立っている。
「お!お前、アカゲラか?」
門前に立つ二人を怪しく思った門番が、谷子呂の顔を覗き込んで声を上げる。彼を知る者なら、見間違う筈はない。背の高い痩せた体を黒い着物で覆い、伸び放題に伸びた渦巻く黒髪に大きな黒い瞳。強いて以前と異なるところを上げれば、その黒い瞳に宿る暗い翳と、見る者の背筋を寒からしめる鋭さが、以前よりも増している事だ。谷子呂は、門番の顔を見つめるが声を出さず、肯定も否定もしない。
「何だ、久し振りじゃないか。何処で何してたんだ。おい。」
それでも谷子呂は答えない。
「わしは、斎行と申す。笠階宇木正殿にお会いしたい。」
代わりに斎行大師が門番に告げる。
「へい、お待ちを…。」
大師が放つ気魄に気圧されて、門番はその場を離れる。
母屋に急ぐ門番とすれ違った作麻呂が、その様子を見咎める。
「おい、どうした?」
「へえ、斎行と申す者が、宇木正様にお会いしたいと門前に。」
呼び止められた門番は、それだけ告げて、また母屋へと走って行く。怪しい人物を門前で自由にさせていては危ない。代わりに作麻呂が門へ向かう。門前には、先程と同じ様に二人の男がぼうっと立っている。編み笠を被った背の低い固太りの男の隣に、逆に背の高い、全身黒衣で覆った、痩せた男が立っている。その姿、その容貌には覚えがある。
「お前、谷子呂じゃないか。…久し振りだな。」
作麻呂は谷子呂に近付き、その顔をまじまじと見上げる。
「ご無沙汰しました。」
谷子呂は小さく頭を下げる。
「こちらの方は?」
「俺の師匠の斎行大師様です。」
斎行大師と作麻呂は挨拶をかわす。
「師匠と言う事は、お前、今まで修行していたのか?」
「はい。」
母屋に行っていた門番が戻って来る。
「宇木正様がお会いになるそうです。」
「では、私が案内しましょう。」
作麻呂が先に立って、二人を母屋に連れて行く。部屋では、宇木正が先に待っていた。
「斎行大師、お久し振りです。アカゲラ、生きておったか。」
谷子呂の姿を見ると、宇木正は、そう言ったきり、黙ってその姿を見つめる。澤の郷曲輪の合戦以降、その姿を見なかったから、郷巻興嶽を討てと言う宇木正の命の実行に失敗し、郷巻勢に討ち取られたと宇木正は勝手に思っていた。間者の定め。宇木正は、谷子呂の消息を探そうとすらしなかった。
谷子呂は両手をついて、深々と頭を下げる。
「命を果たせず、おめおめと戻りました事、平にご容赦下さい。」
「いや、良く戻った。もう良い、もう良い。」宇木正は優しい目をしている。「お前はこの二年、どこでどうしていた。」
「谷子呂は」代わりに斎行大師が答える。「刀傷を右腕に負って、儂の所にやって来ました。宇木正殿の命を果たすには、残った左腕で闘えなければならないと、片手で充分闘えるようになるまで、私の元で再び修行をしておりました。二年で漸く望む姿になりました。本人は、そのまま未達成の命を実行しに行こうとしましたが、一度、宇木正殿にお会いして、事の経緯を話した方が良いと言い聞かせて、連れて来た次第です。」
「そうか。」宇木正は、谷子呂の右腕に目を遣る。「右腕はもう使えないのか?」
谷子呂は、右腕の袖を捲り、傷跡を晒す。前腕の内側に真っ直ぐ伸びた傷跡がむごたらしく残っている。
「親指以外は動かなくなりました。代わりに左腕があります。ご挨拶が終わりましたら、郷巻興嶽の首を取りに行きます。」
「いや、それはもう良い。」
斎行大師が谷子呂を屋敷に連れて来てくれて助かった。下手をしたら、宇木正が興嶽を騙したような恰好になってしまう所だった。
「作麻呂。」谷子呂達を連れて来て、そのまま脇に控えている作麻呂に向かって、宇木正が口を開く。「アカゲラが左手一本でどれだけ闘えるのか、一度手合わせをしてみてくれ。」
「は。」
作麻呂は頭を下げる。
「アカゲラ。お前には、新しい役目をしてもらう。それまでは、この屋敷で待機するが良い。…そうだ、その間、山吹の警護を頼もう。」
谷子呂の全身に力が入る。
「昼はやらなくて良い。日暮れから夜明けまで警護しろ。但し、山吹に気付かれぬ様にしろ。今や、山吹は笠階を継ぐ大事な娘だ。…分かっているな。」
谷子呂は黙って頭を下げる。
「斎行大師殿、一度ならず二度までもお世話になりました。今日はゆっくりして行って下さい。」
「谷子呂が笠階で受け入れられて安心した。ゆっくりもしておれん。それが分かれば、儂はすぐ帰る。」
「そうですか。この度のお礼は近いうちに遣いの者に持たせます。」
「いや、これは人助け。ほんに人助けよ。」
斎行大師は、立ち上がりながら、見送りに立とうとする宇木正達を手で制し、一人部屋を出て行く。
「では、谷子呂を部屋に連れて行きます。」
作麻呂に連れられて谷子呂も宇木正の前を辞す。作麻呂は、谷子呂を郎党の小屋まで連れて行く道すがら話をした。
「お前の前の持ち物はそのままになっている、使ってくれ。知っているかも知れないが、あの戦からこっち、色々あってな。笠階の郎党の数は減っているんだ。…宇木正様はお嬢様を酷く可愛がられる様になった。和正様が亡くなられては無理もない。」
「和正様が?」
谷子呂は驚いて作麻呂を見る。
「ああ。土薙忠隆がこの屋敷に殴り込んで来た。あ…」作麻呂は周囲に人が居ないのを確かめて、急に声を潜める。「これは、他の奴と絶対に話すな。みんな知っている事件ではあるが、大っぴらに話す事ではない。…先の戦で笠階勢のみ無傷だったのを根に持っての腹いせだろ。宇木正様は屋敷に居なかったから無事だったが、和正様は、裏山まで逃げたところを捕まって切られてしまわれた。」
谷子呂は黙って下を向いて歩く。
「そんな事を起こしておきながら、忠隆のお咎めは謹慎のみで、それも、一年程で解かれてしまわれたそうだ。…和正様が亡くなられてから、山吹様を大事になさる様になったのは良いが、宇木正様は迷っておられる。歳を召されたせいだろうか。まあ、老い始めた矢先に一人息子を亡くせば、致し方ないところもあるが…。そうだ、お前、山吹様の警護に当たれと申し付けられたが、山吹様にお会いできなくても良いのか。」
不意に谷子呂の足が止まる。下を向いたまま黙っている。
「お前、山吹様に会えるのは、小さい頃以来じゃないか?あの頃、お前が遊び相手を言い付けられていたよな。二年前、お前がここ居た頃は、山吹様の方が姿を見せなかったし、お前に会えれば、きっと山吹様は喜ぶぞ。」
「…いえ、やめておく。」
谷子呂は早口にそう言うと、すたすたと歩き始める。
「おい、谷子呂。あ、お前の事、谷子呂って呼んで良いか?なんか、アカゲラって言うよりも、俺にとっては谷子呂なんだ。お前が最初にここに来た頃、子供組の仲間達と飯を取り合っていた姿を思い出すよ。」
作麻呂は遠い目をして笑顔になる。谷子呂は、一度たりとも笠階の屋敷の者を仲間だと思った事は無い。
「手合わせの件、良ければ明日にでもどうですか?」
谷子呂はぶっきら棒に話を変える。
「あ?ああ。そうだな。昼飯を食べたら、耕す前の田んぼでどうだ?」
「良いです。ではそれで。」
谷子呂は作麻呂の話を打ち切って、郎党の小屋に姿を消した。
その夜から、谷子呂は山吹の部屋の外で警護にあたった。山吹の部屋のすぐ前で警護に当たれば、山吹と顔を合わせてしまう。音に敏い山吹の事だ、隣の部屋や、庭で警護に当たっていても、誰かいるのに気付くだろう。竹林での出来事もある。相当用心して距離を取らなければ感付かれる。谷子呂は、母屋と庭を挟んだ反対側の土塀の上に座り、そこから母屋全体を警護する。これなら、もっと近くに沢山の人間がいて、離れた場所から見下ろしている谷子呂の存在は気にならないだろう。月の光が母屋の回り廊下を照らしている。その奥の板戸の向こうで、きっと山吹は寝息を立てているに違いない。谷子呂二十二歳、山吹は十八歳になっている。竹林で会った山吹の姿を思い出す。匂い立つ、可憐な乙女になっていた。あの姿をもう一度見たい欲望に駆られながら、谷子呂は土塀の上から月光の差す回り廊下を見つめて夜を過ごした。
空が明るくなり、下人が朝の支度で起き出す頃になってから、谷子呂は床に就く。それでも午前中に起き出し、飯を食べる。食べ終わるのを計った様に、作麻呂が声を掛けて来た。
「おい、良いか?」
それだけ言われれば分かる。約束していた腕試しをしようと言うのだ。
「はい。」
谷子呂は脇に置いていた蕨手刀を左手で持って立ち上がる。二人は、屋敷の敷地を出て、まだ田起こしが始まっていない田に入り向かい合う。作麻呂は持参した二本の木刀の内、一本を谷子呂に向かって投げる。地面に落ちた木刀に目を遣り、作麻呂に視線を移してから谷子呂は口を開く。
「長い太刀は、片手しか使えない自分には不向きです。自分は専らこれで。」
谷子呂は手にした鞘入りの蕨手刀を掲げて見せる。
「それは真剣だろ。これは腕試しだ。相手を傷付けない様にしないでどうする。」
「はい、承知しています。自分はこれの扱いに慣れています。己の指先の如く扱えるよう、修行をしてきました。だから作麻呂様を傷付ける様な下手をしません。」
谷子呂は不気味にニヤリと笑う。
随分偉そうに言うじゃないか。
作麻呂は、何か気味の悪い物を谷子呂に感じる。こいつをどこまで信用して良いのだろうか。まさかとは思うが、腕試しにかこつけて、殺そうとしていないだろうか。それ程に、今の谷子呂からは異様な殺気が滲み出ている。
「…いいだろう。それなら、俺に切り傷一つ負わせずに勝ってみろ。」
言うなり、作麻呂は木刀を構えて正対する。
「ちょっと、お待ちください。支度をしますので。」
谷子呂は、蕨手刀の鞘に付いた紐を、指が利かない右手を上手く使って体に巻き付け、腰の背中側に鞘が来る様に結ぶ。後ろ手に左手で蕨手刀の柄を握って抜けるのを確かめてから、手ぶらのまま構えもせず棒立ちになる。
「お待たせしました。始めて良いですか?」
「うむ。」
「では、ここから勝負です。」
口ではそう言うが、谷子呂に構える様子は無い。自然体で立ったまま、大きな両目を作麻呂に向けている。一種異様とも言える谷子呂の風体に、何をし出すかと警戒して構えていた作麻呂だが、一向に谷子呂から打って来ない。ならば、と作麻呂は一歩踏み込み、木刀を思い切り谷子呂に向けて突き出す。木刀の先端が谷子呂に届く前にひらりと左に身を捩ってかわす。左手で突き出された木刀の峰をトンと叩く。はずみで作麻呂は前のめりになりかけるも、足を踏ん張り、木刀を下から谷子呂に向けて振り上げる。これを後ろに跳び退きながら避けて、谷子呂は距離を取る。
余裕であしらっているつもりか。
作麻呂は血が頭に上ってくる。
もう一度、谷子呂に正対して構え直し、今度はじりじりと距離を詰める。谷子呂がどう動いても対応できる様に、谷子呂の僅かな動きも見逃すまいと神経を集中する。谷子呂の左手が、蕨手刀の柄を握る。だが、右にも左にも、ましてや踏み込んで来る訳でもなく、作麻呂を見つめて動かない。
こっちが打ち込まない限り、自分からは動かないのか。ならば…。
「ワラァ!」
作麻呂は上段に振りかぶると、遮二無二突進して距離を詰める。谷子呂も左右どちらにもかわさずに、蕨手刀を抜きながら、一歩前に踏み出す。振り下ろされる木刀を、谷子呂は逆手に持った蕨手刀と左腕前腕で受け流し、そのまま作麻呂の懐に入り込む。指の利かない右手の肘を繰り出して、下から作麻呂のみぞおちを強打する。
「ウッ…」
二人はそのまますれ違う。負けじと作麻呂が背中を丸めて振り返った時には、既に谷子呂が背後を取り、手にした蕨手刀が眼前に迫る。蕨手刀の峰が作麻呂の首筋をなぞって行く。冷たい金属の感触が伝って来る。思わずハッと息を飲んで作麻呂の動きが止まる。
「これで、作麻呂様は切られました。」
背後で谷子呂の声がする。本当ならば、峰でなく、刃が首筋を切り裂いていたと言いたいのだろう。
作麻呂は全身の緊張を解く。
「初めてお前の腕前を知ったよ。」
何故か悔しい気持ちも、羞恥心もない。余りにもあっさりと急所だけ突かれたからだろうか。初めて会った時は、どこか怯えた目で周囲を神経質に探る弱々しい子供だった筈の谷子呂が、いつの間にか、背丈だけでなく、人の殺め方でも自分を抜いている。
力の差があり過ぎる。
作麻呂はたった一回の手合わせで、谷子呂の実力を悟った。




