見える者・聞こえる者 その六
谷子呂は、滝を見に行った時に目にした、山吹の首から下がった小さな笛がずっと気になっていた。
あんな綺麗な笛を今まで見た事が無い。小さいくせに丁寧に仕上げられて、表面がつやつやしていた。何か特別な宝物じゃないだろうか。もう一度、この目でしっかりと見てみたい。
ある日、谷子呂は我慢しきれず、とうとう山吹に笛の話をした。
「滝に遊びに行った時、首から笛を下げていたよね。」
「…これ?」
山吹は衿元に手を突っ込んで、紐が付いた小笛を取り出す。あの時見たのと同じ、小さな紅い笛。日の光を受けて輝いている。
「そう、それ。…それは、何?」
「これは、父上に貰ったの。」山吹は宇木正をおとうと呼ぶのをやめて、父上と呼ぶ様になっていた。「元々はお婆様の物だったんだって。」
「そうなんだ。良く見せてもらっても良いかな。」
「良いよ。」
紐を首から外し、笛を谷子呂に渡す。全体を朱漆で塗り固めてあるから、材質が何かは分からない。吹き口になる歌口から反対側まで穴が貫通している。歌口から少し離れた位置に音を鳴らす窓が切られていて、そこから中の空洞が覗いている。
「どんな音がするのかな?吹いてみてよ。」
谷子呂は笛を山吹に返す。山吹は首を振る。
「吹いちゃ駄目なの。狗が来ちゃうから。」
「イヌ?」
「これは、狗を呼ぶ笛なの。狗はこの笛を吹く者に従うの。」
何だか、得体の知れない話だ。イヌが人の言う事をきく?笛の音に合わせてイヌが踊るとでも言うのだろうか。
「ふうん。」
谷子呂は良く分からずに、生返事をした。
常人には聞こえない高い音を聞く能力、それは元々宇木正の母が持っていた能力だった。宇木正の母がどういう生まれの人なのか、宇木正も知らない。宇木正の父が、遠く蝦夷の領地に行った折に連れ帰って来たと聞いた記憶があるが、父も母もそれ以上の事を話してはくれなかった。母は、その能力を秘密にしていた。宇木正は少年時代に、母の胸元から零れ出た笛を偶然見付けた。その時、母から内緒で能力の事を教えてもらったが、父は母に子供であっても言ってはいけないと、きつく申し渡しているらしかった。
「お前は、笠階を継ぐのだから。」
能力について話した後、そう言って母は微笑んだ。
宇木正にはその能力が無い。宇木正だけではない。宇木正は、男ばかりの三人兄弟・宇木正、葦正、栃正の長男として生まれた。だが、誰一人として母の能力を受け継がなかった。だから、母の能力は母だけのものだと勝手に思い込んでいた。山吹が生まれ、彼女にもその能力があると分かるまでは。
山吹が生まれたばかりの時は気付かなかった。肌の色の白さが目を引いたが、それ以外変わった所の無い、普通の赤ん坊だった。山吹の能力に気付いたのは、二歳を過ぎた頃だ。宇木正や妻の露音には何も分からないのに、娘の山吹だけが何かに反応して、顔をあらぬ方に向けたり、耳をそばだてるような仕草をする。自分の母親の能力を知っていた宇木正は、もしやと思った。山吹にも、常人が聞こえない音を聞く能力があるのではないか?だが、確かめる方法で困った。そこで、母の形見の小笛を使おうと思い立つ。
母は小笛を肌身離さず持っていたが、けっしてそれを吹こうとしなかった。『吹いてもお前達には笛の音が聞こえない。』その上、『狗を呼び寄せてしまうから』と、本当かどうかは知らないが、彼女はそう言った。
きっとこの笛の音を、山吹なら聞き取れるに違いない。
宇木正は誰にも知られずに、それを確かめたかった。母も秘密にしていた。そんな特殊な能力を持っていると広く知られれば、争いに巻き込まれないとも限らない。それに、もし山吹にその能力があるのなら、母~宇木正~山吹と繋がる血に能力が秘められていると言う事だ。その血を笠階から外に出すつもりなど、宇木正には無かった。そのためには、誰にも知られてはならない。
ある日、二歳の山吹だけを連れて、宇木正は自分の領地の端にある、竹林の中に佇む館に向かった。そこは宇木正の末弟、栃正のための館だったが、彼は百足原の合戦で討ち死にし、それからは宇木正が管理する別邸になっている。ここなら人目を気にする必要は無い。妻の露音にすら内緒で、山吹の能力を確認できる。宇木正と山吹の親子二人だけで館に入り、板戸を閉め切って、昼間だと言うのに明かりを灯す。幸い、山吹は只ならぬ気配を感じておどおどしているが、泣いたり、騒いだりしないでいてくれる。
「良いかい、山吹。おとうちゃんが笛を吹くから、音が聞こえたら、教えておくれ。」
「うん。」
山吹はなにも疑わずに、素直にこっくりと頷く。宇木正は笛を咥えて息を吹き込む。初めて母の形見の笛を使う。宇木正にはふーっと、息が笛の中を抜けていく空気の流れしか感じられない。なのに、山吹はその瞬間ケラケラと笑う。
「フフ、面白い。」
「音が聞こえたのかい?」
「うん。」
宇木正はもう一度、笛を吹く。
「聞こえるよ。」
「どんな音がした?」
「なんかね…、たかーい音。きれーな、ピーって音。」
「そうか。」
これは確かだ。この子は、常人には聞こえない音を聞く能力が備わっている。何故か宇木正はほっとした。後は山吹に自分の能力を自覚させて、無暗に言ってはいけないと教え込まなければ。それは、もう少し物事が分かるようになってからだ。
山吹の能力を確かめると言う目的を達成して、何やら肩の荷が下りた様な気分になる。気が軽くなった宇木正は、山吹の手を引いて、館の入り口に行ったところで足が止まる。周囲の竹林の中に、無数の目が光っている。狼の群だ。百頭は下るまい。恐らく館をぐるりと包囲している。狼達は、視線を宇木正親子に向け、全神経をそこに集中している。
しまった。『狗を呼び寄せてしまう』事を忘れていた。
迂闊には動けない。下手に動けば、それをきっかけに狼達は走り寄り、飛び掛かって来るやも知れない。太刀すら屋敷に置いて来てしまっている。宇木正には素手でしか対抗する手段がない。これでは、娘の命すら守り切れない。
どうすれば…。
「あ~、いっぱい居る。」山吹はそんな宇木正の気持ちなど知りもせずに、狼達を見て無邪気に大きな声を上げる。「ねえ、貸してー。」
「ん?」
何かをせがんで宇木正に手を伸ばす山吹。その意図が宇木正には分からない。
「笛、笛…。」
彼女は、宇木正が手に持っている小笛をねだっている。動けないでいる宇木正の手から笛を奪い取ると、山吹は口に咥えて吹く。
「それを吹いてはいけない。」
ここで狼を刺激したら、襲って来る。宇木正は慌てて制しようとするが、もう遅い。案の定、数頭の狼が宇木正達に向けて走り出す。
この子だけでも助けなければ。
宇木正は咄嗟に屈み込んで、山吹を抱きかかえる。狼が飛び掛かって来ても、これなら宇木正が背中からやられるだけで、山吹は助けられる。宇木正は固く目を閉じ、来るであろう狼達の一撃を覚悟した。
だが、それは無かった。山吹の笑い声に恐る恐る目を開けると、狼にべろべろと舐められて、くすぐったがる娘の姿が目の前にある。気付けば、二人の周りは狼で埋め尽くされ、宇木正にまで擦り寄って来る。
なんだ、これは。
安堵など無い。何か別の恐ろしさに捉われて、宇木正は目を丸くするばかりで娘を抱き締めたまま動けない。山吹は何も恐れていない。父親の腕の中からすり抜け出ると、狼達の体を触り、尻尾を引っ張り、好き勝手に戯れる。狼もそれに逆らわず、山吹の相手をしている。
これは、笛の力なのか?それとも、能力を持つ山吹だからだろうか。
暫く狼と戯れた山吹がもう一度笛を吹くと、狼の群は背中を向け、潮が引く様に竹林から消えた。
「何をしたんだい?」
宇木正の全身から力が抜け、汗が噴き出る。山吹は自分のした事に自覚がないのか、問われても首を傾げて黙っている。
俺には理解し切れないのかも知れない。
母は笛を片時も離さなかった。その理由が何となく分かった気がする。この笛は、能力を持つ者の最後の拠り所なのだ。そして、到底常人には使いこなせない、特別な力の源だ。
「山吹、その笛は今日からお前の物だ。」脱力したままの力の入らない声で言う。「だけど約束してくれ。その笛を吹いてはいけない。」
「吹いちゃ駄目なの?」
「ああ。山吹がどうしても困った時、このままでは死んでしまうと言う時でなければ使ってはいけない。…約束できるかい?」
「うん。」
山吹は小さな手でぎゅっと笛を握り締めた。




