突然の電話
ぼんやりとした意識の中に、懐かしい音楽が聞こえてくる。
軽快な、女性ポップグループの歌。2、3年前に流行った歌だったような気がする。なんていう名前だったか……
だんだんと意識が戻ってくると、頬の冷たさに気が付いた。
薄く目を開くと、そこはステンレスのシンクの上で、俺はどうやらシンクに突っ伏した状態だったのだと初めて知った。
こんなところで眠っていたのか? 昨日の俺は一体何をしていたんだ。
そのことを深く考える前に、音楽がなんなのかに思い当たる。
携帯の着メロだった。携帯を機種変更したときに設定して以来変えていない音楽が、ダイニングテーブルに放り出された携帯から響いている。
仕事用の着信音は、出先でも聞こえやすいよう黒電話の音にしてあるから、これは友人だ。
ぼうっとする頭にいつまでも鳴り響くハイテンションな音楽。頭がガンガンする。とりあえずそれを止めたくて俺は立ち上がろうとして、ふらついた。
胸がきゅうっと締め付けられるように痛む。頭が重い。三半規管が狂ってる。立ちくらみだろうか、急に立ち上がったから。
それでもなんとか倒れこむようにダイニングテーブルに左手をつくと、画面も確認せずに電話に出た。
「……もしもし?」
「おお、健治! あんまり出ないから死んじまったのかと思ったよ!」
「ああ……矢島か。久しぶり」
大学の同期のうちで、今も付き合いのある矢島。といっても最近は忙しくて全然会っていなかったが。今の着メロと同じくらいハイテンションな奴だ。突き抜けるような大声が起きがけの頭にはつらい。
「今大丈夫?」
「ん……ああ大丈夫」
一瞬、俺の体調でも気遣ったのかと思ったが、単に電話の時間が取れるかという話だろう。頭痛や胸の痛みは、ダイニングの椅子に座ると少しずつ落ち着いてきた。
「休み前に何度かメールやら電話やらしてたんだけど、気づいてたか?」
「あ、悪い……そういやなんか来てたような。ここんとこ仕事が忙しくて」
今思い出した。なんせ休日前は激務すぎて、着信とかメールとかに気づいてはいたけど、いつか返信を、と思ううちに忘れてしまっていたようだ。もしかしたら矢島だけでなく、他にも色々スルーしているかもしれない。
「まあ、毎年そうみたいだから、うすうすわかっちゃいたけどよ。届いてるならなんか一言でもいいから返せっての」
「ほんとすまん。以後気を付けるよ」
「ところで今日が当日なんだけどどうよ?まさか実家に帰ってるとかじゃないよな」
「え、なにが?」
「返信どころかメール見てないのかよ! そりゃないぜ健治さんよ。飲み会だよ、の・み・か・い!」
「あっ……」
言われてみてなんとなく思い出す。ゴールデンウィークに飲み会を開こうとかどうとかいう長文メールが来ていたような気がする。
矢島のハイテンショントークは続く。
「もー信じらんないわ、私のこと忘れちゃうなんて。会うの楽しみにしてたんだからっ! 返事なかったけど一応席はとっといたからさ、駅前の鳥道楽って店、わかるだろ? そこに6時」
「当日って、今日?」
「おめーは。今日ですよ。ついでに言うともう5時過ぎてます」
タイミングのずれた質問に、呆れた声が返ってきた。5時過ぎということは、飲み会の開始まであと1時間弱しかない。
「ほんとはさ、今更連絡するのもどーしよかなーと思ったんだけどさ。今日は久々に夏美も来るってんで、お前が来てないと寂しがるからと思ってさ。一応最終確認してみようかと」
「は? なんで?」
夏美。大学時代の同期で、矢島と共に映画研究サークルとは名ばかりの合コンサークルで遊んでいた仲間だ。が、ここに名前が出てくる理由がわからない。
「いやいや、なんでって……お前たち大学時代はあれほど夫婦漫才やってたのに、つれないねえ……」
確かに喋りやすくて、どっちかというと男友達的な感覚でバカやってたが、そういう風に見られていたのか。社会に出てからも集まったり、個人的にも数度会ったりしたが、正直言って特にお互い気があるとも思えない。
ふーん、と適当に聞き流していると、矢島が話を戻した。
「で、どう? 来れそう?」
「ん、ああ……いや」
ユイ。
ふとその名前が頭をよぎる。
思い出すと不安になり、急速に鼓動が早くなった。俺は携帯を構えたまま部屋の中を見渡した。
「家にいないの?」
「いるけど……」
相槌をうちながらダイニングを一瞥し、そして隣の寝室兼リビングに目をやる。
彼女の姿が見当たらず、焦ってダイニングから隣の部屋へ移動すると、ベランダのそばで、窓の外を見つめる陽炎のような後姿が見えた。
動悸が、だんだんと治まっていく。
「……も……おいおい聞こえてんのか?」
「え?」
どうやら矢島の言葉を一言二言聞き逃していたらしい。それでも俺はその声に意識を向けることができなかった。一体どう説明したら、彼女と俺の関係をわかってもらえるだろう、そんなことばかりを考えていた。
わかるわけがない。道端で拾った記憶喪失の女と一緒に暮らしていること、その女に目を離せないほど焦がれていることなんて。冗談かと疑われるか、失笑されるのが関の山だ。
こちらを向いたユイと目が合った。にこり、と目を細めて優しく微笑む。警戒など知らない、安心しきった顔で。
それを見て、俺はもう他のことなんてどうでもよくなって、ただ彼女と並んでぼうっとしているところを夢想する。
「テンション低いなお前。なんか嫌なことでもあったのか?」
通話口の向こうからの言葉にハッと現実に引き戻され、心臓を鷲掴みにされたようで息が詰まる。
「いやっ、何も、なんでもない」
嫌なことじゃない、むしろ今の俺には。でも、何かがあったのは間違いない。
しかも、とびきりおかしな何かが。
「さっきから話半分って感じだし」
「いや違……あのさ、行くよ。飲み会」
思わずそう言ってしまった。矢島と話をしていても、ひとつも心を動かされなかったのに、反射的にそう答えていた。
矢島のなにげない言葉に、ふと気づかされたのだ。俺はどうかしている。ちょっとの外出もためらうほど、現実を忘れるほど彼女に惹かれている。きっとこれは普通のことじゃない。
その事実を認めたくなくて、自分があくまで平静であると信じたくて「行く」と言ったのだ。
「あ、そう? いやいや、乗り気じゃないのかと思ったよ」
「鳥道楽に6時な、ああもう時間が時間だから、ちょっと遅れるかもしれないけど」
「いいよいいよ夏美も喜ぶわ。なんか悩みがあったら俺様が聞いてやるから安心したまえ」
冗談を装って矢島が言う。俺の調子がおかしいのに気づいて心配しているのだ。
「悪いな」
「ん、じゃあ現地で待ってるから、いつでも来いよ」
「わかった。じゃあ後でな」
電話を切った。その後で、後悔が胸を襲ってきた。彼女と離れることの不安が、暗く重く胸にのしかかってくる。
俺と見つめあったまま、不思議そうに小首をかしげるユイ。不安や焦りが表情に出てしまったかもしれない。慌てて不器用に笑顔を作る。
こんなに不安に思うなら、断るべきだっただろうか?
だけど俺は、あえて試してみたかった。
こう思ったのだ。もしも帰ってきたときに、ユイがこの家で迎えてくれたなら、きっと俺は彼女と一緒にずっと過ごすことができるんじゃないかと。彼女が消えないという確信を、そこで初めて持てるんじゃないかと。
そうやって安心を手に入れることができたなら、こんな目も離せないほどの執着ではなく、普通の関係として恋人になれるかもしれない……。
どんなに忘れそうになっても、思い出せること。彼女がここにいると信じられること。
根拠はなにもなかったが、それだけで、二人でずっと生きていける。そんな気がしていた。