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募る想い

 あれから俺達はずっと部屋の中で過ごしていた。

 ユイは家を出ようというそぶりも見せなかったし、俺は、そんな彼女を置いて家を出ることができなかった。だからと言って彼女を連れ出すような真似もしなかったのは、陽の光を浴びた途端に、彼女が夢のように消えてしまわないかと不安だったからだ。

 そんな馬鹿なことを本気で思えるほどに彼女は非現実的で、まるで違う世界の住人のようだった。


 思えばそのあたりから、どう考えたって「好き」だったのだ。

 間違いなくそうだと気づいたのは何度目の朝だっただろう。

 起き掛けに必死でユイの姿を捜している自分がいた。この部屋からも、記憶からも、いなくなってしまいそうな気がして。


 だけど、キッチンの片隅で彼女の笑顔を見つけたとき、ほっとすると同時に、「なにかがおかしい」とも思った。


 気づけば自分でも変だと思うほどだ。ここのところずっと、彼女の姿ばかりを目で追っている。目を離せばその姿を忘れそうになるという事実がもどかしい。

 彼女の存在が俺の中で大きくなればなるほど、その一瞬の空白が、耐え難い不安となっていた。


「……ユイ?」


 振り返って首をかしげるユイ、俺はそれ以上何も言わない。ただそこにいることを確認しただけだ。

 こうやって意味もなく名前を呼ぶことが多くなった。振り返って微笑んでくれるだけでホッとするなんて、一体どこの純情少年だ。そんな感情なんて、思春期の初恋以来かもしれない。

 あの頃、好きな子の一挙手一投足に浮き沈みしていたように、その気持ちが離れていくのを恐れていたように、今はユイが消えてしまうことを怖いと思う自分がいる。


 ユイは俺がそんな気持ちでいることに気づいているだろうか? そう思いながら視線を投げかける。

 その時、まるで何事もないかのように部屋をうろうろとしているユイが、ベランダの窓のあたりでふと立ち止まった。


 思わず焦ってしまう。自分の心が読まれたんじゃないかと。

 彼女が何を言うのかと、俺は構えた。


「健治さん……あの花、見たことがある……」


 少し肩透かしを食らったようで、がくっと肩を落とす。焦っていたのと同時に、本当は彼女が気づいてくれることを期待していたのかもしれない、この気持ちに。


 ばれない程度に自嘲気味に笑うと、俺はユイに歩み寄る。ユイは俺を見て、そっと外を指差した。

 肩に触れそうなほど近づいても、彼女は警戒心を見せない。それは、気を許しているからなのか、単に異性として意識されていないからなのか。

 きっと後者だろうな、なんてネガティブな思考になるのは、彼女が徐々に心を開いたというよりは、最初から疑う気もなにもなさそうだったからだろう。


 ここのところ彼女はぽつりぽつりと喋るようになった。笑顔もずいぶん増えた。俺は健治さんと呼ばれるようになって、その度に複雑でくすぐったい思いをしている。


 彼女の指先は、道を挟んで向かいの一軒家の庭を指している。二階からでも、庭木に花が咲いているのは見えた。

 あまり見慣れないクリーム色の丸っこい花が、緑の中にちらほらと咲き始めている。なんという名前なのかは知らないが、五月になるとあの辺はいつもバナナのような甘い香りがする。そんなことを今思い出した。

 今年もいつの間にか咲いていたのか。あの家の前はいつも通る道なのに、忙しいと嗅覚も鈍ってしまうのかな。 


「木の名前……なんて……」


 残念ながら知識の乏しい俺では、その名を彼女に教えてあげることはできない。花の名前なんて男の俺にとっては全くの専門外だ。

 だけど、思い出そうとする彼女に、「もしかして君の家の庭にあった?」と聞くことならできただろう。ただ、俺にはその勇気がなかった。

 もしもその言葉をきっかけにして過去を思い出してしまったら、俺はきっと彼女と別れることになる。そんな気がしたからだ。

 元々ちゃんとした出会いがあったわけじゃない。好かれるどころか、もしかしたら憎まれる可能性だって十分にあるのだから。


 あの木が、それでなくても何かがきっかけになって、彼女は記憶を取り戻すかもしれない。そうしたら、この夢のような出来事は、急に現実に引き戻されてしまうのだろうか。そして、それから俺たちはどうなるのだろう。

 もしかしたらユイの家の庭にも、今、同じ花が咲いているのかもしれない。誰かが悲しんでいるのかもしれない。そう思うと、忘れていた罪悪感が胸をざわつかせ始めた。


「確か、苗を……」


 ユイは唇に手を当ててしばらく記憶をたどるように床を見つめていたが、そのうち小さく首を横に振った。思い出すのをあきらめたようだ。


「慌てなくても、またいつか思い出せるさ」


 そう言いながらも、内心安堵する俺。そして緊張が解けると、無意識に近くに寄り添ってしまっていたことに気がついて、動揺してしまう。

 そのまま肩を引き寄せて抱きしめてみたくなるけど、そんなことできるわけがない。つい伸ばしかけてしまった手を、そっと下ろす。

 今、俺の理性を支えているものがなんなのか。

 彼女には家があって、家族が待っているのだというその思い?

 記憶喪失のかわいそうな女の子に手を出すわけにはいかないという良心?

 そう思いたいけれど、きっとそれは違う。

 嫌われることへの恐怖。それが今の俺の、一番大きな歯止めになっていた。


 夜になれば当然のように俺のベッドに横になる彼女を見ると、ささやかな理性などすぐにぐらついてしまう。そのあまりに無防備な姿に、邪な感情を抱きそうになって、それを振り払う。

 子供のようだった彼女が、日を追うごとに少女から女へと成長を遂げていく。そんな風に元の姿を取り戻していくさまを見て、俺のほうも日を追うごとに愛しさを募らせていた。本当は、今すぐにでも抱きしめたい。

 なぜそこまでに想いが募るのだろう? 異常な事態に錯覚を起こしているだけなのか?


 ずっと彼女を見つめていたいけれど、そういう時だけは決まって俺は彼女から視線を反らした。もちろん自分を抑えるために。

 そして毛布にくるまって、出来るだけ遠い床の上で眠るのだ。彼女を忘れそうになる不安と戦いながら。


 こうして目を逸らしていると彼女の細かい容姿を思い浮かべることすら出来ないのに、その存在が妙に引っかかるのはなぜだろう。

 それは無視できない感情ではあったけれど、恋というにはいささかおかしな現象という気もするのだ。

 この説明のつかない状況をなんと言えばいいのか。目を閉じれば、そんなことばかりを考えている。


 ユイはどう思っているのだろう?

 俺と同じように、少しは俺のことを気にしてくれているのだろうか?

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